出陣
夜明け前の空気は、冷たかった。
まだ陽は昇らず、空は深い藍色に沈んでいる。
屋敷の外では、すでに準備が整えられていた。
鎧の擦れる音、革紐を締める音、低く抑えられた会話。
それらが重なり、ひとつの“気配”を形作っている。
――出陣。
その言葉は、誰の口からも発せられていない。
それでも、空気そのものがそう告げていた。
アルトは屋敷の庭園に立っていた。
花々は手入れされており、場所によって花の色は異なっている。
ただし、それらは全て幾何学的に整えられている。
庭師が丁寧に仕事をしているのだろう。
視線は前を向いているが、焦点は定まっていない。
昨日のことが、頭から離れなかった。
静かな部屋、止まった呼吸、何も言わずに閉じられた目。
(……父上)
胸の奥に、重いものが沈んでいる。
それを押し込むように、アルトはゆっくりと息を吐いた。
「……アルト」
アルトは隣から声を掛けられた。
同じように装備を整え、いつも通りの表情で立つ男。
少なくとも、外から見れば変わらない。
アルトは一瞬だけ視線を向ける。
「……準備はできてる」
短く答えた、それを受うけて、隣にいたユウはわずかに間を置く。
「顔が死んでるぞ」
遠慮のない一言だった、思わずアルトは苦笑した。
「……そう見えるかい」
「見えるな」
即答だった、誤魔化しは通じない。
アルトは視線を落とす。
踏みしめられた土と、無数の足跡。
それらすべてが、これから動き出すことを示している。
「……昨日のこと、だけど」
ぽつりとこぼした、ユウはわずかに視線を横へずらす。
屋敷の奥、閉ざされたままの一室の方向へと目をやった。
「……ああ」
短い返答、それで十分だった。
しばしの間、沈黙が落ちる。
周囲は動いているのに、この場だけ時間が遅い。
アルトは小さく息を吸う。
「……正直、実感がない」
ゆっくりと言葉にする。
「昨日まで、近くにいたのに」
声は落ち着いている。
だが、その奥にあるものまでは隠せない。
「いなくなったって言われても、納得できない」
わずかに、言葉が強くなる。
ユウは何も言わず、ただ聞いていた。
やがて、アルトは自嘲気味に笑う。
「情けないね。出陣前にこんなことを考えてる」
その言葉に、ユウは首を横に振った。
「別に、普通だろ」
アルトは目を上げる。
「いきなり切り替えられる方が変だ」
淡々とした声、慰めではなくただの事実。
「むしろ、その状態で動けてるだけでも十分だ」
アルトはわずかに黙り――
「……動けてるように見えるかい?」
ユウはまっすぐに見返した。
「見える。少なくとも、逃げてはいない」
それで十分だ、と言うように。
アルトは小さく息を吐く。
胸の奥の引っかかりが、わずかに動いた。
「……逃げるつもりはない」
はっきりと言い切る。
ユウは軽く頷いた。
「なら問題ない」
それだけだった。
アルトも前を向く。
東の空が、わずかに白み始めていた。
やがて――
重い足音が近づいてきた。
想定していない人物、レオニードだった。
そしてその背後にはセリオスもいた。
鎧を纏い、すでに“指揮官”の顔をしていた。
数人しかいない言葉の空気が一段階と引き締まる。
「――揃っているな」
低い声がユウとアルトを貫いた。
「予定通り作戦を実行する、父上の件は本作戦が終わったあとに公表する⋯⋯」
そして、アルトの前に向かって自分の手をアルトの肩へ乗せた。
それは激励なのか、期待の現れなのかは分からない。
その両方の意味が含まれているのかもしれない。
「父上への手向けとして、本作戦を成功させるぞ」
そう告げるとレオニードは屋敷の門へと歩き出す。
「やれやれ⋯⋯兄上にも困ったもんだね」
セリオスはこの状況でもいつもの軽口を叩いている。
その一言だけを告げてレオニードの後ろへとついていく。
アルトも続いていく、その隣をユウが並ぶ。
皆、背後は振り返らずに歩み出す。
(……父上)
心の中でだけ呼ぶ。
(見ていてください)
短い願いを胸に押し込み、前を見る。
その先にあるのは――戦場。
――それから、しばらく後。
騎士団庁舎の前庭には、すでに数千の兵が集結していた。
士官学校に隣接するその広場は、普段とはまるで違う様相を見せている。
石畳の上に整然と並ぶ騎士たち。
その隙間を埋めるように配置された士官学生。
全体が、ひとつの巨大な塊として静かに息を潜めていた。
鎧の擦れる音は小さい。私語もほとんどない。
ただ、これから始まるという気配だけが満ちている。
アルトは前方に立っていた。
隣にユウ、少し離れてセリオス。
三人は隊列ではなく、“指揮側”に位置している。
「……規模が違うな」
ユウが呟く。
「ああ……」
短い返答。それで十分だった。
これはもう“部隊”ではない“軍”だ。
そのとき――
前方の石段へ、一人の男が上がる。
レオニードだった。
それだけで、全体の視線が集まる。
ざわめきが消え、空気が張り詰める。
「――静まれ」
低い声が広場を支配した。
「本作戦は予定通り実行する」
簡潔な一言。
理由は語らない。それでも全員が理解している。
「目標は“自由の盾”の拠点五か所、各拠点の戦力は二百から三百、廃砦を利用した拠点だ」
淡々とした説明。
「配置は分散されており、一つを叩けば、他が逃げる構造になっている」
わずかに間を置き――
「――だから、同時に潰す」
空気がさらに引き締まる。
「出陣後、三日で配置を完了しろ」
「四日目、正午――一斉攻撃を開始する」
明確な命令。
「それまでの戦闘は一切禁止。発見されても交戦は避けろ、一部の判断で全体を崩すな」
静かだが、厳しい。
「――以上だ」
余計な言葉はない。
そして――
「――出陣ッ!」
その一言で、世界が動いた、隊列が流れ出す。
静止していた塊が“軍”として進み始める。
一人、また一人と人々が一斉に歩き出す。
やがて、アルト達の軍も歩みを始めた。
隊に続いてアルト達も歩き出す。
その歩みに迷いはない、アルトの隣をユウが並んで歩く。
ユウの表情は強張っておらず落ち着いてる。
皆の視線は、門の外へと向いている。
街道が広がっており、その先は森へと続いている。
隊列は止まらない、目的地に向けて歩み出す。




