前夜
異変は、音ではなく“空気”として広がっていた。
屋敷の奥へと続いている廊下は、普段と違う様子だった。
道自体は変わらないが、その場の空気が張り詰めていた。
使用人たちの足音は不自然なほどに抑えられていた。
その視線だけが静かに交わされている。
誰も言葉を発していない、その日は何も話していけないようだ。
それでも、全員が同じ方向に向かって意識していた。
屋敷内の使用人たちは、とある部屋の前へと吸い寄せられるように集まっている。
――レオンハルトの私室。
レイヴァルト家、当主の部屋。
先ほど、この家で一番使用人経験が長いグレイと複数人が部屋へと入っていった。
彼の背後には頻繁に部屋に入っていた医療従事者らしき人物達
が続いていた。
その後、グレイが部屋を出たかと思えば、レイヴァルト家の親族一行と一緒に再び室内に入った。
部屋に向かう彼らの表情は皆、暗く沈んでいた。
やがて、医療従事者の男性が部屋から退出してきた。
去り際に一言だけグレイに何かを告げた。
男性は静かに廊下の向こうへと歩いていった。
扉の前から男性を見送った後、グレイはすぐにその部屋の中へと戻った。
再び部屋へと戻ったグレイは、静かに扉の前に立った。
背筋はいつも通り真っ直ぐに伸びており、姿勢に乱れはない。
長年仕えている執事、今日もいつも通りに見える。
それでも、指先にはわずかに力が込められていた。
そして、身体中に力が強張っているように感じられる。
その微細な変化だけで、状況の深刻さが伝わる。
室内には、すでに家族が集めっている。
レオニード、セリオス、アルト、そしてセシリア。
部屋の中は薄暗く、灯りは最低限に落ちている。
窓は開いているものの風は弱く、空気はどこか停滞しており、薬草の匂いが静かに漂っていた。
寝台の上に横たわっているのはレオンハルト。
かつて戦場で名を馳せた武人とは思えないほどに痩せ細っている。
呼吸は浅く不規則で、今にも途切れそうだった。
それでも、その目だけはまだ意識を宿している。
誰もが、彼の容態を理解していた。
沈黙の中で、最初に動いたのはレオニードだった。
一歩前へと進み、自然な動作で膝をつく。
「……父上」
声は抑えられているが、その中には確かな緊張が含まれている。
レオンハルトの視線がゆっくりと動き、レオニードを捉える。
焦点は合っている、認識もはっきりしている。
「……来たか」
かすれた声だが、その一言にはまだ芯が残っていた。
レオニードは深く頭を下げることもなく、ただ静かにそこに在る。
レオンハルトはその姿を見つめ、わずかに目を細めた。
「……お前には、任せることになる」
途切れながらも言葉を紡ぐ。
「分かっているな」
問いというより確認だった。
「はい」
レオニードは即座に答える。
短く迷いがない、その声は揺らがない。
そのひと言だけで全てを理解できた。
レオンハルトはゆっくりと息を吐き、次に視線を動かす。
その先にいたのはセリオスだった。
「……セリオス」
呼びかける声には、ほんのわずかに温度がある。
セリオスは歩み寄り、軽く肩の力を抜いたまま立つ。
いつもの飄々とした空気は抑えられているが、構えすぎてもいない。
「いるよ、親父殿」
自然な調子で応じる。
レオンハルトはその顔をしばらく見つめていた。
何かを測るように、あるいは確かめるように。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……お前は、自由に動け」
言葉は静かだった。
その意味を理解するには、十分すぎるほど。
少し間を置き、続ける。
「その上で、兄を支えろ」
短いながらも、はっきりとした指示だった。
セリオスの目がわずかに細くなる。
「……珍しいこと言うな」
軽く返すが、その声音はいつもより低い。
レオンハルトはかすかに笑う。
「分かっているはずだ⋯」
セリオスは小さく肩をすくめる。
「まあな」
それ以上は言わない。
その一言で、十分に通じた。
レオンハルトは視線を移す。
「……アルト」
呼ばれた瞬間、アルトの身体がわずかに強張る。
一歩前へ出て膝をつく。
「はい」
声にわずかな震えが混じる。
レオンハルトはその様子をじっと見つめる。
「……良い目になった」
ゆっくりとした言葉だった。
「迷うな」
短く、それだけを告げる。
アルトは拳を強く握りしめる。
「……はい」
今度の声は、しっかりとしていた。
レオンハルトはわずかに頷き、最後に視線を向ける。
「……セシリア」
その名が呼ばれた瞬間、空気が柔らかく変わる。
セシリアはゆっくりと前へ出る。
歩幅は小さく、どこかためらいがちだった。
「……はい、お父様」
声は震えている。
隠そうとしても隠しきれていない。
レオンハルトはその顔を見つめる。
そして、ほんのわずかに表情を緩めた。
「泣くな」
穏やかな声だった。
セシリアの目に涙が浮かぶ。
それでも、こぼさないように必死に堪える。
「……だが優しさを忘れるな」
その一言だけが残る。
セシリアは唇を噛みしめ、深く頷いた。
「……はい」
小さな声だったが、確かな意志が宿っていた。
部屋の中に、再び静けさが戻る。
その静けさは先ほどとは違う。
終わり、終焉、最後の時間が近づいていると皆が感じていた。
静けさが、さらに深く沈む。
部屋の中に残るのは、もう呼吸の音ですらない。
つい先ほどまでそこにあった“命の気配”が、嘘のように消えていた。
レオンハルトは動かない。
その現実を誰もすぐには受け止めきれなかった。
時間が止まったような数秒が流れる。
やがて、レオニードがゆっくりと立ち上がった。
その動きには迷いがなく、すでに感情を押し殺していることが分かる。
視線は父の亡骸ではなく、その先――これから先に向けられていた。
「……すぐには公表しない」
低く、静かに告げる。
その一言で、空気が切り替わる。
「明日の作戦は、予定通り決行する」
続く言葉にも揺らぎはない。
悲しみよりも優先されるべきものがあると、はっきり示した。
セリオスがゆっくりと目を上げる。
わずかな間を置いてから、静かに膝をついた。
反論も、確認もない。
ただ、その決断を受け入れている。
アルトも同じように膝をつく。
拳は強く握られているが、その視線はまっすぐだった。
言葉はないが、覚悟だけは明確に伝わる。
セシリアだけが動けない。
唇が震え、何かを言おうとするが、声にならない。
目に浮かんだ涙を必死に堪えながら、顔を上げれなかった。
グレイは静かに立ち上がる。
いつも通りの所作。
だが、その背中にはわずかな重みが宿っていた。
レオニードが扉へ向かう。
「……行くぞ」
短い一言だか、それだけで全員が動き出す。
扉が開かれた。廊下の空気がゆっくりと流れ込んできた。
そこに使用人たちが立っており、一家に頭を下げる。
壁際に控え、静かに待っていた一同は、ほぼ同時に顔を上げた。
そして――
出てきた者たちの表情を見た瞬間、すべてを悟った。
説明は必要なかった。
レオニードの無機質な静けさ、セリオスの抑え込まれた視線。
アルトの握られた拳、そしてセシリアの沈んだ姿。
それだけで十分だった。
その場にいたユウは何も言わない。
ただ、わずかに目を細めた。
ユウの隣にいたエリナも一歩引きさがり、再び頭を下げた。
「……お疲れ様でございます」
小さく、丁寧に。
その声には、必要以上の感情を乗せていない。
それでも、わずかな配慮がにじんでいた。
一同はそのまま通り過ぎていく。
誰も立ち止まらない、足音だけが遠ざかる。
そして、一行が去った後にグレイから皆へと報告される。
報告内容は予想通りで、他言は無用とのことだった。
公表はレオニードから後日行うとのことであった。
使用人達はその場に崩れ落ちるものや涙を流すものや顔を伏せるものなど人によって反応は様々ではある。
彼らに統一しているのは家主の死別に傷心していることだ。
報告を受けて各々の仕事に戻っていく用人達。
やがて、廊下に残るのは、ユウとエリナだけとなった。
――再び、静けさが戻る。
屋敷は動き続けている。
悲壮感も、決断も、そのまま抱えたまま。
ユウは壁にもたれたまま、ゆっくりと視線を落とした。
足元の石床にわずかな影。その視線の先に意味はない。
ただ、思考を止めているだけだった。
エリナはその横顔を見ていた。
言葉はもうないはずだった。
伝えるべきことは伝えた。
立場も役割もすべて整理されている。
それでも――
(……足りない)
胸の奥に、何かが残る。
小さな違和感、いや違う。
“残してはいけないもの”が、残っている。
「……ユウ様」
呼びかける声は、先ほどよりもわずかに低い。
ユウが顔を上げる。
「どうした」
短い返答、このままでは変わらない。
その距離感も、その温度も。
だからこそ――
エリナは一歩踏み出した。
自分でも理由ははっきりしない。
今日、ここで伝えておく必要があると思った。
その瞬間には身体が先に動いていた。
ユウの目の前まで来る、先日より格別に近い。
ほんのわずかに手を伸ばせば触れる位置。
ユウは何も言わず、その動きを止めもしない。
ただ、少しだけ目を細める。
「……どうした」
その問いに、エリナは答えなかった。
代わりに――
そっと、手を伸ばして、目の前の男性の胸元に飛び込む。
わずかな指先の力で相手の服の背後を掴む。
逃がさないほどではないがが、離さない程度には強い。
そのまま、静かに相手の身体へと寄せた。
静かに抱きつくとユウの胸元に額が触れた。
表情は見れない、自分がどんな顔をしているのか想像しがたい。
一瞬の間ができ、お互いの呼吸が近いことが分かる。
ユウの身体もわずかに強張っているが、払いのけることはない。
エリナは自身の心に従うように、そっと目を閉じた。
(……これでいい)
自分に言い聞かせる。
抱きしめる、その力は決して強くない。
だが、確かに意志を人の温もりを感じる抱擁。
言葉にできないものを、代わりに伝える。
――数秒。
あるいはそれ以上、時間感覚が曖昧となる。
そのままの体勢で、エリナはゆっくりと顔を上げる。
目の前には男性、想い人の顔が近い。
お互いの顔の距離はほとんどない。
自然と瞳と瞳が合った、ユウの目は変わらずに静かだ。
だが、完全に無感情ではなく、わずかに揺れていた。
(……今なら)
ほんの一瞬の衝動。
エリナの視線が、わずかに落ちた。
見ているのは唇、そして再び目へ。
迷いは――消えなかった。
止まらない、ゆっくりと距離が詰まる。
あと少し、お互いの唇が触れる寸前に――
「……やめとこう」
低い声が落ちる。
咄嗟にエリナの動きが止まり、冷静になった。
ほんの数センチの距離だった。
ユウは目を逸らさないまま、説明を続ける。
「今やると、後悔しそうだ⋯」
静かな言葉だった。
否定ではなく、拒絶でもない。
ただの“線引き”。
エリナはしばらく動かなかった。
その言葉の意味を、ゆっくりと受け取る。
やがて、小さく息を吐く。
そして――
ほんの少しだけ、笑った。
「……そうですね」
いつもの丁寧な口調、なのにどこか柔らかい。
名残惜しさを残しながら、身体を離した。
距離が戻っていく、元の位置へ。
何事もなかったかのように。
「失礼いたしました」
軽く頭を下げる。
形式は決して崩さない。
ユウは小さく息を吐く。
「別にいい」
短く返すが、それ以上は何も言わない。
言う必要もないということか、再び静寂が落ちる。
だが――
先ほどとは違った、けれど確かに何かが変わった後の静けさ。
エリナは踵を返して歩み出していた、その瞬間に――。
「待っていてくれ⋯」
そのように相手の男性から告げられる。
エリナは頭だけを相手のほうへ向け軽く会釈をする。
「お待ち⋯しております⋯」
そう告げると廊下の歩みを再開した。
足音は変わらず静かだが、その一歩にわずかな重みがあった。
(……これでいい)
ユウはそう思う、否、そう思い込んだ。
廊下の先へと消えていく。
ユウはその背中を見送らない。
ただ、壁にもたれたまま視線を落としていく。
胸元には、わずかに先ほどの体温が残っていると錯覚する。
それを振り払うように、小さく息を吐いた。
出陣前夜、すべてはもう動き出している。




