幕間・密命
屋敷の裏庭――
昼間の賑わいが嘘のように、夜は静まり返っている。
月明かりが石畳を淡く照らし、木々の影が揺れていた。
人の気配はなかった。
――いや、一つだけ。
「来たか」
低く、気の抜けた声。
庭の奥、噴水の影に寄りかかるようにしてセリオスは立っていた。
手にはグラスを持っている中の液体がわずかに揺れる。
足音はほとんどしなかったが、それでも分かる。
「……はい」
エリナは静かに一礼する。
いつものメイド服ではない。
簡素な外套を羽織り、髪も後ろで束ねている。
普段のメイド姿とは違う格好だった。
セリオスは視線だけを向ける。
「ご苦労。こんな時間に呼び出して悪いな」
口調は軽い。
しかし、目は笑っていない。
エリナは何も言わず、ただ次の言葉を待っている。
数秒の沈黙。
やがて、セリオスはグラスを軽く揺らしながら口を開いた。
「ユウのことだ」
その名前が出た瞬間――。
エリナの呼吸がほんのわずかに浅くなる。
しかし、表情は変わらない。
「……監視は継続しております」
簡潔な報告をする。
「そうか」
セリオスは短く頷く。
「どう見る?」
試すような問い。
エリナは一瞬だけ考える。
「現状、敵対の兆候はありません」
「ですが――」
わずかに言葉を区切った。
「不確定要素が多い存在です」
セリオスの口元がわずかに歪む。
「だろうね」
同意だった。
「報告によると魔法が効かない。戦闘時の判断が異常に早い」
「その他、出自、思想、目的は全て不明」
一つずつ並べる。
「――完全にイレギュラーだな」
夜の空気が、少しだけ冷える。
エリナは黙って聞いている。
セリオスはグラスの中身を一口飲み、続けた。
「今回の作戦は――」
「絶対に失敗できない」
その声音には、わずかに重さが混じる。
普段の軽さが消えていた。
「王都も動いてる。地方も荒れてる」
「ここで外せば、流れが一気に崩れる」
エリナは小さく頷く。
言いたいことは理解しているという意思表示。
セリオスは視線を細める。
「だからこそだ」
エリナへと一歩、近づく。
先ほどより、2人の距離が縮まる。
「ユウは危険だ」
小さな声で、そう力強く断言する。
「味方ならいい」
「だが――」
一瞬だけ、間を置く。
「違った場合」
その先を、言葉にする。
「排除しろ」
静かな一言。しかしそれは確実な命令だった。
その発言にエリナの瞳がわずかに揺れる。
エリナの表情はどこか切なそうな表情を浮かべる
しかし、それはほんの一瞬。
それだけで消えた。
「……承知しました」
声は変わらず、感情も乗っていない。
ただ、命令を受け入れる。
セリオスはその反応をじっと見ている。
「判断はお前に任せる」
「“邪魔になる”と断定したなら――」
言葉を重ねる。
「躊躇うな」
エリナは目を伏せたまま、答える。
「はい」
短い返答だが、それで十分だった。
再び沈黙が落ち、遠くで風が木を揺らす音だけが響く。
セリオスはふっと息を吐いた。
「……まあ、今すぐどうこうって話じゃない」
軽く肩をすくめる。
「むしろ、今は使える駒だ」
その言い方は冷酷だった。
人ではなく、戦力として見ている。
エリナは何も言わない。
セリオスは視線を空へ向ける。
「うまく回れば、この戦で一気に流れが変わる」
「地方だけでなく、王都も⋯」
その言葉には、何か別の意図が滲んでいた。
だが、それ以上は語らない。
グラスを傾けて、中身を飲み干す。
「……以上だ」
それが合図だった。
エリナは静かに一礼する。
「失礼いたします」
背を向けて歩き出す。
足音は、やはりほとんどしない。
その歩みは、ほんのわずかだけ遅かった。
(……排除)
エリナの頭に、先ほどの言葉が反響する。
ユウの顔が浮かぶ。
笑った顔、困った顔、あの、商業区での――
(……関係ない)
思考を切りかえる、これは任務なのだ。
優先されるのは個人の感情ではない。
それ以上でも、それ以下でもない。
それでも胸の奥に微かな引っかかりが残っている。
エリナはそれに気づかないふりをした。
月明かりの下、影が長く伸びる。
その影は、二つに分かれることなく――
ただ、一つだった。




