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幕間・密命

屋敷の裏庭――。

昼間の賑わいが嘘のように、夜の帳がすべてを静寂で塗り潰している。

月明かりが石畳を青白く凍てつかせ、風に揺れる木々の影が、獲物を待つ獣のように静かに揺れていた。

人の気配はない。


――いや、ただ一つ。

噴水の影に、闇が濃く凝固したような場所があった。


「おや、ご苦労さま。こんな夜更けに呼び出して悪かったね」 


不意に投げかけられたのは、低く、どこか楽しげな響きを帯びた声。

庭の奥、噴水の影に寄りかかるようにしてセリオスは立っていた。

手元でグラスを揺らすたび、中の液体が月光を反射して怪しく光る。

エリナの足音はほとんどしなかったはずだが、彼は振り返りさえせずにその到来を察していた。


「……はい」


エリナは、静かに一礼する。

いつものメイド服ではなく、夜気に紛れる簡素な外套を羽織り、髪も後ろで硬く束ねている。

その装いは、彼女が今この瞬間、「侍女」ではなく「道具」であることを無言で示していた。

セリオスは視線だけを彼女へ向け、唇の端をわずかに吊り上げた。


「相変わらず、夜の闇がよく似合う。……それで、例の件はどうだい?」


口調は軽いが、その瞳の奥には冷徹な観察者の色が居座っている。

エリナは応えず、ただ次の言葉を待った。

数秒の沈黙。風が吹き抜け、枯れ葉が石畳を擦る乾いた音だけが響く。

やがて、セリオスはグラスの中身を弄びながら、思い出したように口を開いた。


「ユウのことだよ」


その名が空間に放たれた瞬間――。

エリナの呼吸が、ほんのわずかに止まった。

胸の奥を、目に見えない細い針でつつかれたような微かな痛み。脳裏に、あの、商業区で見せた彼の屈託のない笑顔が過る。

しかし、彼女の訓練された仮面が剥がれることはない。


「……監視は、滞りなく継続しております」


事務的な、起伏を削ぎ落とした報告。


「そうか」


セリオスは短く、満足げに頷く。


「で、君の目から見て彼はどうだい? 警戒するに値するかな?」


試すような、あるいはその実、答えなど求めていないような問い。

エリナは一瞬だけ、思考の海に沈んだ。


「現状、こちらに牙を剥く兆候は見られません」


そこで一度、言葉を切る。

肺の奥に溜まった、熱い澱を吐き出すように。


「ですが――あまりに不確定要素が多い存在です」


セリオスの唇が、皮肉げな弧を描いた。


「だろうね。魔法は効かない、戦闘時の判断力は異常……出自も目的も不明。まるでお伽話から飛び出してきたみたいだ。実体が見えない」


条件を並べるセリオスの声が、夜の冷気に混じって研ぎ澄まされていく。


「――完全にイレギュラーだ。美しすぎて、少しばかり落ち着かないよ」


夜の空気が、一層その密度を増した。

セリオスはグラスの中身を一口飲み、声音から余計な響きを削ぎ落とした。


「今回の作戦は、絶対に失敗できないんだ。……分かるだろう?」


「王都も地方も、ひどく騒がしくなってきた。ここで一手でも読み違えれば、僕たちの描いた盤面は一気に崩れる」


エリナは、ただ深く頷くことで肯定を示した。

それを見て、セリオスは目を細める。


「だからこそ、だ」


彼が一歩、近づいた。

二人を隔てていた夜の壁が取り払われ、彼が纏う酒と、冷たい殺気の匂いがエリナの鼻腔を突く。


「ユウは、少しばかり『鋭すぎる刃』だね」


耳元で囁かれる、宣告。


「味方であるうちはいい。だけど――」


一瞬の溜め。

セリオスの瞳が、冷徹な捕食者のそれへと変わる。


「もしその刃が、僕たちの指を傷つけかねないと判断したなら。……その時は、迷わず排除して。躊躇する必要はないよ。君の判断を信じてるからさ」


静かな一言。

しかし、それは逆らうことのできない命令だった。

エリナの瞳が、深淵に石を投げ込まれたようにわずかに揺れる。

胸の奥を、鋭い痛みと切なさが通り抜けた。

けれど、それらは彼女が瞬きを一つする間に、暗い意識の底へと沈められた。


「……承知いたしました」


返る声は、ひび割れ一つない硝子のように平坦だった。

ただ、命令を受け入れる。セリオスはその反応をじっと見ている。


「判断は君に任せるよ、エリナ。彼が『邪魔』だと、君が断定したなら――」


言葉を重ねる。


「躊躇わないでくれ。慈悲なんてものは、もっと相応しい場所で使うものだからね」


エリナは目を伏せたまま、短く答えた。


「はい」


それで十分だった。

再び沈黙が落ち、遠くで風が木を揺らす音だけが響く。

セリオスはふっと息を吐いた。


「……まあ、今すぐどうこうっていう話じゃないさ」


軽く肩をすくめる。


「むしろ、今は最高に『役に立つ駒』だ。存分に働いてもらおうじゃないか」


その言い方は、相手が人間であることを忘れたかのように無機質だった。

エリナは何も言わない。

セリオスは視線を空へと、高く冷たい月へと投げた。


「うまく回れば、この戦で流れは一気に変わる。地方も、王都も……すべてが、あるべき場所へ収まるはずだよ」


その言葉には、底知れない野心が滲んでいた。

だが、それ以上は語らない。

グラスを傾けて中身を飲み干すと、彼は踵を返した。


「……以上だ。行きなよ」


それが合図だった。

エリナは静かに一礼する。


「失礼いたします」


背を向けて歩き出す。

足音を消す歩法は完璧なはずなのに、心なしかその歩みは重く、鈍い。


(……排除)


耳の奥で、セリオスの言葉が反響する。

瞼の裏に、ユウの顔が浮かぶ。

あの商業区での、なんてことのない、けれど温かなやり取り。


(……関係、ない)


思考を無理やり切り替える。これは任務。

優先されるのは個人の感情ではない。

それでも胸の奥に微かな引っかかりが、棘のように残っている。

エリナはそれに気づかないふりをして、闇の中へ進んだ。

月明かりの下、石畳に落ちた彼女の影が、長く、細く伸びる。

その影は、二つに分かれることなく――

ただ、一つだった。

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