継承
屋敷の奥――
静けさの質が、他とは違う場所がある。
そこは、レオンハルトの私室だった。
廊下に差し込む光は柔らかく、足音さえ吸い込まれるように静かだ。
普段であれば使用人の出入りもあるが、今日は人影がない。
グレイに案内され、アルトとユウは扉の前で立ち止まった。
「旦那様がお待ちです」
短く告げられる。
アルトは一瞬だけ目を伏せた。
そのわずかな間に、感情を整えているのが分かる。
そして――
「失礼します」
扉を押し開けた。
部屋の中は、薄暗かった。
窓は開いているが、風は弱く、空気はどこか停滞している。
薬草の匂いが微かに漂っていた。
部屋の中央に置かれた寝台。
そこに、レオンハルトは横たわっていた。
かつては前線に立ち、名を知られた武人。
その面影は、今も顔立ちに残っている。
だが――
身体は明らかに痩せ細っていた。
「……来たか」
低く、かすれた声。
それでも、その眼だけは鋭い。
弱っているのは身体だけだと、はっきり分かる。
アルトは一歩、近づいた。
「ただいま戻りました」
その声は、どこか張り詰めている。
レオンハルトはゆっくりと視線を動かし、ユウにも目を向けた。
「……無事か」
「はい」
短い返答。
それで十分だった。
しばらくの沈黙。
呼吸の音だけが部屋に残る。
やがて――
「報告を聞こう」
レオンハルトが言った。
アルトは姿勢を正す。
「東方のベルノア村周辺にて、山賊拠点を制圧」
「敵戦力は壊滅し、捕虜を確保しました」
「ただし――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「死者が二名、負傷者七名となります」
その言葉が、部屋に重く落ちた。
レオンハルトは目を閉じた。
それは悲しみではない。
事実を受け止める、長年の癖のようなものだ。
「……そうか」
短く、ただそれだけ。
だが、その一言には多くが含まれていた。
「よくやった」
続く言葉は、静かだった。
誇張も、慰めもない。
ただ――評価。
アルトはわずかに息を吐いた。
その瞬間だけ、肩の力が抜ける。
だがすぐに、レオンハルトの次の言葉が落ちた。
「……だが」
視線が鋭くなる。
「これは始まりに過ぎん」
部屋の空気が変わる。
「山賊などという言葉に騙されるな」
「奴らは“兆候”だ」
ユウの眉がわずかに動いた。
(……やっぱり分かってるか)
レオンハルトは続ける。
「帝国、内紛、民の不満」
「すべてが繋がっている」
「……国は、崩れかけている」
その言葉は、断定だった。
アルトは強く言い返す。
「まだ――立て直せます」
即答だった。迷いはない。
レオンハルトは、その反応を見てわずかに笑った。
「……そうだな」
だが、その笑みはどこか遠い。
そして――
「だが、私はそこまで見届けられん」
静かな言葉。
その意味は明確だった。
アルトの表情が揺れる。
「父上……」
「弱気なことを言わないでください」
思わず出た言葉。
だがレオンハルトは首を横に振った。
「事実だ」
否定ではなく、受容。
それが逆に重い。
「だからこそ、だ」
ゆっくりと視線をアルトへ向ける。
「お前に託す」
アルトは言葉を失う。
その重さを、理解しているからだ。
そして――
レオンハルトはユウへと目を向けた。
「……お前だ」
突然の視線。
ユウはわずかに目を細める。
「アルトに協力するよう頼んだ」
「あれは……間違いではなかった」
部屋の空気が静かに張り詰める。
「お前の目は、戦場を見る目だ」
「そして、アルトの目は人を見る目だ」
わずかな間。
「……二人とも、良い目をしている」
評価ではない。確信だ。
「この国を――」
一瞬、息が詰まる。
それでも、言葉は続いた。
「救ってくれ」
それは命令ではなかった。
願いでもない。
――託すという行為だった。
ユウは何も答えなかった。
ただ、静かに頷いた。
アルトは、強く拳を握る。
「……必ず」
短く、だが力強い言葉。
レオンハルトはそれを聞くと、ゆっくりと目を閉じた。
「……それでいい」
その表情は、どこか安らいでいた。
部屋を出たあと。
廊下には、また静けさが戻っていた。
アルトとユウは何も言わない。
――帰還してから、3日が経とうとしていた。
屋敷には、ようやく“日常”が戻り始めていた。
戦場の匂いはすぐには消えない。
だが、身体の疲労は確実に抜けていく。
ユウは書庫の一角で椅子に腰掛けていた。
高い天井まで届く本棚。
整然と並べられた書物の背表紙。
窓から差し込む光が、埃をゆっくりと浮かび上がらせている。
紙をめくる音だけが、空間に溶ける。
(……落ち着くな)
手にしているのは、王国の軍制に関する書物だった。
編成、指揮系統、補給の仕組み――
戦場で感じた違和感を、一つずつ理解していく。
横ではアルトも別の本を開いていた。
こちらは地図だ。ルーヴェル周辺からさらに東へ。
森、街道、村落の配置。
指でなぞりながら、何度も視線を行き来させている。
「……やっぱり不自然だ」
ぽつりと呟く。
ユウは本から目を離さずに答える。
「ベルノア村のことか」
「ああ」
アルトは小さく頷いた。
「住民の動きが早すぎる」
「ただの山賊なら、あそこまで統制は取れない」
ユウはページをめくる手を止める。
「“山賊”って呼び方がズレてるんだろうな」
静かな声。だが確信がある。
アルトは苦笑する。
「……父上も同じことを言っていた」
二人の間に、わずかな沈黙が落ちる。
レオンハルトの言葉は、まだ重く残っている。
(兆候、か……)
ユウは再び本へ視線を落とした。
そのときに書庫の入口から声がかかった。
「アルト様、ユウ様」
振り向くと、グレイが立っていた。
相変わらず無駄のない佇まい。
「レオニード様がお呼びです」
それだけで、意味は十分だった。
空気が変わる。アルトは本を閉じた。
「……来たか」
予想していたような反応。
ユウも立ち上がる。
「休憩終わりだな」
軽く肩を回す。
だがその目は、すでに戦場のそれに戻りつつある。
廊下を歩く、窓の外は穏やか。
庭では使用人たちがいつも通りに動いている。
だが――
これから聞く話が、それを壊すことになる。
そんな予感があった。
レオニードの部屋の前で足を止めた。
扉を軽く叩く。
「入れ」
低い声が返る。扉を開けた。
室内を見ると初に目に入るのは、椅子に腰掛ける男。
セリオスだ。足を組んで、にこやかにこちらを見る。
「お、来たか」
軽い調子。
だが、その目はしっかりと二人を観察している。
レオニードは机の奥に立っていた。
腕を組み、動かない。
「座れ」
短く指示が飛ぶ。
アルトとユウは向かいに腰を下ろした。
椅子がわずかに軋む。
最初に口を開いたのはセリオスだった。
「まずは――」
少し間を置く。
「よくやった」
その言葉は軽い。
だが、軽視はしていない。
むしろ逆だ。
「初陣で拠点を制圧、しかも生還」
視線がアルトに向く。
そのままセリオスは続ける。
「上出来だ」
アルトは首を横に振る。
「……自分だけの力ではありません」
迷いのない否定。
そのままユウへと視線を向ける。
「彼の判断がなければ、被害はもっと大きかったです」
セリオスの眉がわずかに上がる。
「ほう?」
興味の色。
そのまま視線がユウへと移る。
「詳しく聞かせてもらえるかい?」
その呼びかけにユウは応える。
軽く身を乗り出した。
「簡潔に報告させてもらう――」
ユウはおきた状況を簡潔に説明する。
山賊達からの奇襲。火計による混乱。弓部隊の排除。
襲撃からの反撃。火攻め返し。そして逃走したヴォルグという男。
自分に魔法が通じないということは伏せた。
が、それ以外は全て事実を告げる。
その報告を受けてセリオスは嬉しそうにユウへと聞き返す。
「火攻めの後に、火攻めをするとは」
ユウは肩をすくめる。
「大したことじゃない」
「状況からして、最適な選択肢を選んだだけだ」
だがその言い方が、逆に引っかかる。
セリオスは笑う。
「それを出来る奴が少ないんだよ」
少しだけ声のトーンが落ちる。
「普通は混乱する。すると視野が狭くなる」
「目の前の火と敵で手一杯になる」
指で机を軽く叩く。
二度、セリオスのクセなのだろう。
「なのに君は、全体を見ていた」
そう断言する。
その指摘にユウは答えない。
沈黙するというとは肯定。
セリオスはさらに続けた。
「突撃のタイミングも的確だ」
「あそこで退いてたら、完全に主導権を握られてた」
アルトが小さく頷く。
「……その通りです」
レオニードも口を開いた。
「士官学生からの作戦報告は読んだ」
低い声。
「現場判断としては最適解に近い」
簡潔な評価であった。だがそれで十分。
「特に、“敵の心理を想定した判断”は評価に値する」
ユウはわずかに目を細める。
「……どうも」
短い返答。セリオスが笑う。
「謙遜しないタイプかい」
「いいね、嫌いじゃない」
そして、ふっと真顔に戻る。
「それで――」
「君は何者だい?」
空気が少しだけ張る。
アルトがわずかに動く。
だがユウは先に答えた。
「ただの流れ者です」
間を置かずに返す。
セリオスはじっと見つめる。
時間にすると数秒、やがて肩をすくめる。
「……まあいい」
「今はそれでもいいさ」
完全に納得したわけではない。
だが、深入りはしないという判断。
レオニードがその流れを切った。
「話は終わりだ」
空気が切り替わる。
「本題に入る」
その一言で、場の温度が下がった。
空気が完全に切り替わった。
先ほどまでの余韻は消える。
部屋の中にあるのは、ただ“軍議”の空気。
レオニードは机の上に広げられている地図へ視線を落とす。
「自由の盾の動きについて、新たな情報が入った」
低く、重い声。
そのまま指で地図の一点を押さえる。
ルーヴェル東方――森一帯。
「これまで断片的だった拠点の位置が、ある程度割れた」
レオニードの指先が動く。
一つ、二つ、三つ――
合計、五か所。
「拠点は全部で五つ」
その言葉に、アルトの表情がわずかに引き締まる。
「点在していますね」
「意図的だろう」
レオニードは即答した。
「一つ潰されても、他で補完する配置となっている」
ユウが地図を覗き込む。
拠点同士の距離、街道との位置関係、森の深さ。
(……分散型か)
単なる山賊のやり方ではない。
補給と逃走を前提にした配置。
セリオスが口を開く。
「面倒な構造だな」
椅子に深く座り直しながら続ける。
「一つずつ潰していたら、逃げられてしまう」
「その通りだ」
レオニードは頷く。
そこにいる者たちを見るように視線を上げる。
そして、手に力を入れて拳で力強く地図を叩いた。
「だから、こそ――同時に攻める」
短い結論だが、意図は明確。
思わずアルトは息を呑む。
「一斉攻撃……ですか」
「そうだ」
迷いはない。
レオニードは続ける。
「動員は約二千五百名」
その数字の重みが、ゆっくりと沈んでいく。
「各拠点に五百ずつ振り分ける」
ユウの中で即座に計算が走る。
兵数比、地形、撤退ルート。
(……潰す気だな)
殲滅ではなく、“壊滅”。
組織として機能しない状態まで持っていく。
セリオスが軽く口笛を吹く。
「常駐兵だけでは足りませんね」
レオニードはその軽口に対して答えを伝える。
「そのために士官学生にも協力してもらう」
「大盤振る舞いですね」
にこやかな表情を浮かべるセリオス。
しかし、その青い瞳の奥は笑っていない。
「うちも余裕がないでしょうに」
レオニードの目がわずかに細まる。
「余裕がないからこそだ」
「これ以上、この地を荒らされるわけにはいかん」
全員が沈黙する。
アルトは視線を地図へ落とした。
「我々も、動くんですね」
「ああ」
「本格的に戦力として組み込む」
そのまま、アルトを見る。
「――お前もだ」
視線がぶつかる。
「今回の作戦で、お前に士官学生の部隊を任せる」
部屋の空気が一段階重くなる。
アルトは一瞬だけ言葉を失った。
「……自分が、ですか」
「前回の結果だ」
レオニードは淡々と答える。
「初陣で拠点制圧、指揮の安定性、判断力」
「十分な理由になる」
言葉に無駄がなく、逃げ道はない。
アルトはゆっくりと息を吸った。
そして――
「……承知しました」
迷いはない。
その声には、覚悟があった。
セリオスが小さく笑う。
「いい顔をするようになったな」
軽口のようでいて、本音だった。
そのまま視線を横にずらす。
「それで、私は?」
レオニードは短く答える。
「セリオスは後方支援だ。ルーヴェルを頼んだぞ」
即答。セリオスは眉を上げる。
「前線じゃなくていいんですか?」
「お前には別の役目がある」
その言葉に、わずかな含みがあった。
セリオスは数秒だけ黙る。
そして、肩をすくめた。
「……了解しました」
「兄上はどうするのですか」
セリオスは続けて質問をする。
「私も前線に赴く」
「留守は任せたぞ」
その発言にセリオスは答えない。
何かを察している顔だった。
ユウはそのやり取りを横で見ている。
(……役割分担か)
適材適所で配置されている。
セリオスも飄々とはしているが、
数日間触れ合ったことで、この次男も優秀なことがわかる。
それは、レオニードやアルトとは違った強さ。
レオニードが最後に口を開く。
「決行は十日後だ」
その一言が、全てを締めた。
「それまでに各部隊は準備を整える」
「情報の精査、装備の確認、連携の構築」
一つ一つを区切るように言う。
「これは小規模な討伐ではない」
視線が三人を順に射抜く。
「戦争だ」
重い言葉。
部屋の空気が、完全に戦場へと変わる。
アルトは静かに頷いた。
「……はい」
ユウは何も言わない。
ただ、地図を見ていた。
五つの拠点。
五つの戦場。
(……同時に動くなら)
視線が一点に止まる。
(どこかで“ズレ”が出る)
その瞬間が、勝負になる。
セリオスが立ち上がる。
「面白くなってきましたね」
軽く伸びをする。
だが、その目は鋭い。
レオニードはそれを見て、何も言わない。
すでに、各自が動き出しているからだ。
アルトも立ち上がる。
椅子が静かに音を立てる。
「準備に入ります」
「行け」
短い許可。
ユウもそれに続く。
扉へと向かう。
手をかける。
そのとき――
「ユウ」
レオニードの声が背中にかかる。
振り向く。
「アルトを支えろ」
それだけだった。
だが、その言葉は重い。
ユウは一瞬だけ目を細めた。
そして、
「言われなくても」
短く返した。
扉を開ける。
外の空気が流れ込む。
廊下は静かだった。
だが、さっきまでとは違う。
確実に、何かが動き出している。
アルトが隣で呟く。
「……十日か」
「短いな」
ユウは前を見たまま答える。
「十分だろ」
「やることは決まってる」
アルトは小さく笑う。
「確かに」
そして、ゆっくりと歩き出す。
次の戦いへ向けて。
――その足取りに、迷いはなかった。




