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本気

西の峡谷。

太陽はとうに山の稜線へと隠れ、谷底には影が落ち始めている。

偽装された荷車から距離を空け、岩陰に身を潜めている重武装の帝国部隊には、重苦しい疲労感が漂っていた。


「将軍……日が暮れてしまいます。アーベントの部隊は現れる気配がありません」


「見ればわかるわ! 囮の馬車はちゃんと動かしておるのか!」


「は、はい! 指示通り、護衛の数を減らして隙を見せながら、ゆっくりと進ませておりますが……」


「ええい、小賢しい鼠ども……。どこに隠れておる」


岩石のような巨体が、苛立ちとともに揺れた。

重厚な鎧を纏う帝国軍随一の猛将、ゾッド・バウアー。

無数の戦傷が刻まれた顔を歪め、身の丈ほどの巨大な斧を地面に突き立て、その視線は獲物を求めて暗い谷底を睨んでいる。


「将軍。兵たちは重武装のまま丸一日潜伏し続け、体力も限界です。これ以上の待機は……」


「馬鹿者! 敵は気を抜いた瞬間を狙ってくるんじゃ! 」


「も、申し訳ありません!」


「……とはいえ、遅すぎる。これだけ無防備に餌をぶら下げておるのになぜ食いつかん……」


兵士たちが顔を見合わせる中、冷たい夜風が谷間を吹き抜ける。


「せっかく身体を動かせると楽しみにしていたというのに……」


「も、もしかすると……我々に気づいて、逃げ帰ったのでは?」


「……つまらん。実につまらん。ヴェラスコの策とやらも空振りだったというわけか」


ゾッドは大きなため息をつき、忌々しげに空を見上げた。


「もうよい! こんな所で固まっていても腹が減るだけじゃ! 帰るぞ!」


***


夜の帳が下りた王都レイヴァルトの外縁。

王都の防壁内に入りきらない兵士や物資が、広大な野営地を形成している。

各所に焚き火が焚かれ、兵士たちは酒を飲みながら談笑していた。


「いやぁ、まさかこんなにあっさりと王都が落ちるとは」


「全くだ。王国の馬鹿共が勝手に自滅してくれたおかげだな」


「最近は、西から輸送隊が襲われているみたいだぞ」


「ゾッド将軍が直々に出向いてるから、そのうち解決するだろう」


兵士たちの下品な笑い声が響く。

その野営地を、少し離れた位置から見つめる二つの影があった。


「……やれやれ。王都のすぐ近くにいるからって、完全に油断しきってやがる」


「ここには精鋭らしき部隊も見当たらないな」


「全く……、うちの軍師様の頭ん中は、どうなってんだろうな。相手のことですら自分の手の上みたいだ」


「本当に凄いヤツだ。……だが、だからこそ私たちもその策を完璧に遂行しなければ……」


カインが短剣を逆手に構え、低く身を沈める。


「まずは見張りを黙らせる。派手にいくのはその後だぜ」


「ああ。よろしく頼む」


カインが夜の闇に溶け込むように姿を消す。

直後、野営地の端で見張りに立っていた数名の帝国兵が、声も出さずに崩れ落ちる。

一人、二人とその場にいた兵士が倒れ込むが誰も気づかない。


「終わったぜ……。やれ、イリーナ!」


カインの潜めた声を受け、イリーナが一歩前へ踏み出し、精神を集中させる。

彼女の手の中に、周囲の闇を焼き尽くすほどの高熱を持った炎球が生み出された。


「燃え盛れ……!」


イリーナが放った炎球は、物資が山積みにされた天幕の中心に着弾した。

激しい爆発音と共に、炎が一気に周囲の天幕や木箱へと燃え広がる。


「な、なんだ!?」


「て、敵襲! 敵襲だ!!」


「火だ! 火を消せ! 食料が燃えちまう!!」


突如として野営地は紅蓮の業火に包まれ、怒号と悲鳴が入り混じる大パニックに陥った。

武器を取るよりも先に、右往左往して逃げ惑う兵士たち。


「ひゅー、すっげえ威力。相変わらず容赦ねえな」


「無駄口を叩いている暇はない。完全に火が回る前に撤退する。風向きはこちらに有利だ、追撃はこない」


「了解っと。あーあ、せっかくの美酒が台無しになっちまったな」


猛烈な勢いで燃え盛る野営地を背に、二人の影は疾風のようにその場から立ち去っていった。


***


眼下に広がる暗闇の中、王都の外壁沿いだけが不自然なほど赤く染まっていた。

吹き上がる炎と立ち上る黒煙を、王宮の一室から見下ろす三つの影。

その様子を見ながら、帝国の皇子は口元を少しだけ上げて。微笑みながら口を開く。


「フハハ! 王都の外が、ずいぶんと明るいな」


「やれやれ……。随分と派手に燃やされていますね。あそこは城内に入りきらなかった資材や、兵の野営地だったはずです」


隣にいたセリオスが手すりに寄りかかり、冷ややかな軽口を叩いた。


「ヴェラスコ。ゾッドが向かった西の谷には、鼠どもは現れなかったそうだ」


ギデオンの問いかけに、ヴェラスコはすぐには答えない。

彼はもともと、色白な肌ではあるが指の関節が日頃よりも白く変色している。

バルコニーの手すりを強く握りしめているようだ。


「なるほど。西にゾッド将軍を引きつけたのは、この王都の足元を狙うための『囮』というわけですか。我々の裏をかくだけでなく、その状況すら利用するとは。敵ながら、実にいい性格をしている」


セリオスの淡々とした分析が、ヴェラスコの耳に突き刺さる。

敵将はこちらの思考を先読みし、あえて戦力を遠ざけた上で、手薄となった場所を突いてきたのだ。


「私の……私の策を、見破っただけでなく……利用した……? この私すらも自らの駒として扱ったというのですか……!」


ヴェラスコの口から、震えるような声が漏れる。

自らを絶対の強者と信じて疑わなかった彼の顔が、かつてない屈辱に歪んでいく。


「ああ……ああ! 許せない……許せない……! 許せません! 私の思考よりもさらにその先を行くなど……!」


ヴェラスコは己の顔を両手で覆い、肩を激しく震わせた。

幾つかの感情が彼の中で渦巻き、指の隙間から覗く瞳には底知れぬ暗い炎が宿っていた。

窓の外を眺めながら、ギデオンの表情が真剣な顔へと切り換わる。


「存外……、早く本気を出す時が来たようだな」



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