初志
ローデリヒの城にある大広間。
高く設けられた窓から暖かな陽光が差し込む。
室内は深い安堵に包まれていた。
「――西の峡谷にて敵の主力を空回りさせました。その隙を突いて、王都外縁の野営地の奇襲に成功。敵陣を大きく焼き払い、味方の損害は皆無とのことです」
伝令の報告が終わるや否や、居並ぶ文官たちから歓喜の声が上がった。
「おお……! またしても、完全なる勝利ではないか!」
「帝国と言えども恐れるに足らんな!」
「あの若者が末恐ろしいのう……どこまでも先を見据えておるようじゃ!」
その明るい声に、上座で見守る王女リシェルはそっと目を閉じた。
(これで……誰も死なずに済みそうですね……)
流血を伴う攻城戦も、蹂躙される民の悲鳴も。
最も恐れていた光景が、確かな現実として遠ざかっていく。
「軍師殿の策は見事です。最前線にいるものたちも……誰も欠けることなく、道を作ってくれている」
リシェルが呟くと、隣に座っているクロイツ公爵も深く頷いた。
その後に、後方を束ねている次男ゲニオールが言葉を発した。
「こちらの兵站は万全です。対して、食糧を焼かれた大軍は混乱していることでしょう。あとは時間を稼ぐだけで敵は自滅します。」
ゲニオールは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「――我々の、勝ちです」
その力強い言葉に、広間が沸き立っていく。
「あぁ!間違いない!」
「これで我々は正当なる王位継承者と名乗れる!」
リシェルは細く息を吐き、口元に小さな笑みを浮かべた。
暗く長かった夜が、ようやく終わりを告げる。
しかし、突如として重厚な扉が乱暴に押し開けられた。
石壁に激突する鈍い音が部屋中を震わせる。
「も、申し上げます……ッ!!」
転がり込んできた伝令兵の泥に塗れた姿に、広間の笑い声が唐突に途切れる。
「王都の間者より、き、急報です……! て、帝国軍が、動きました……!」
「動いた? 兵糧を失った敵が、どこへ向かうのだ? 」
文官の一人が怪訝な顔で尋ねる。
伝令兵は、床に這いつくばったまま顔を上げた。
「……お、王都を放棄し、ギデオン皇子自らが先頭に立ち……このローデリヒに向け、進軍を開始しました!」
「な、なんだと!? 補給線の確保も、王都の守りも捨てて、そのまま力押しに出るというのか!?」
ゲニオールが血相を変え、言葉を続ける。
「規模は!? 敵はどれほどだ!!」
その怒声に、伝令兵が血を吐くように叫んだ。
「ほ、ほぼ全軍……約十万です!!」
「ば、馬鹿なッ!! ローデリヒの守備兵と前線の軍をすべて合わせても、三万が限界だぞ!?」
悲鳴が木霊する。
リシェルの耳から、周囲の喧騒が急速に遠のいていく。
「急ぎ知らせろ……こうなってはワシも出陣する」
「父上! 正気ですか!?」
広間が騒然となる。
その喧騒が遠く感じられた。
(……十万?)
ユウが組み上げた盤面。ゲニオールの計算。
積み上げた勝利への算段が、音を立てて崩れ落ちていく。
ギデオンは、最初から盤面に立っていなかった。ただ、すべてを粉砕するために、一直線に突き進んでいる。
(民を守れない……)
椅子の手すりを握る指先から、急速に血の気が引いていく。
暖かな陽光が差し込んでいるはずの空間で、リシェルは凍えるような寒さに肩を震わせる。
見開かれた瞳は虚空を彷徨い、開いたままの唇からは微かな呼吸の音しか漏れなかった。
***
自室の重い扉を閉めた途端、リシェルの膝からすべての力が抜け落ちた。
背中を扉に預け、冷たい木材にすがりつくようにへたり込む。
「リシェル様!?」
「お顔の色が……!」
部屋で待機していたセシリアとエリナが、血相を変えて駆け寄ってくる。
セシリアの差し出した手に触れたリシェルの指先は、氷のように冷え切っていた。
「……じ、十万の帝国軍が、ここへ向かっているそうです」
震える唇から零れ落ちた事実に、二人の息が止まる気配がした。
「私の……私のせいですね。私が王位を望まなければ、こんなことには……」
焦点の定まらない視線が床を彷徨う。
王都を奪還し、国を正す。その大義名分のために、これからどれだけの血が流れるのか。十万という圧倒的な力の前に、自分の存在がひどく罪深いものに思える。
「私なんかが……本当に王になるべきなのでしょうか……」
両手で顔を覆い、リシェルは細く震える息を吐き出した。
その冷たい両手を、温かい掌が力強く包み込む。
伏せていた顔を上げると、セシリアが逃げ場のない真っ直ぐな瞳でリシェルを見つめ返していた。
その奥にある強い光は、アルトの眼差しによく似ていた。
「リシェル様。兄たちは……前線で命を懸ける者たちは、いったい誰のために戦っているのですか?」
静かな、けれど芯のある問いかけ。
言葉に詰まるリシェルの肩に、エリナがそっと触れる。
「少なくとも私たち……そしてこのローデリヒに集った皆は、他でもないリシェル様のために戦っております」
(私の、ために……)
セシリアの手の温もりが、冷え切った指先から少しずつ心へと染み渡っていく。
瞼の裏に浮かぶのは、窮屈な鳥籠のような王宮の景色。
あの場所から、なぜここまでやってきたのか。
権力や玉座が欲しかったわけではない。
一部の者が私腹を肥やすのではなく、誰もが安寧に暮らせる国を作りたかった。
いわれのない搾取に苦しむ民を、ただ救いたかった。
(ここで私が折れてしまえば、すべてが水の泡になる)
足の震えはまだ完全には止まっていない。
だが、その恐怖に屈して立ち止まるのは、自分のために前線で命を張る者たちへの、最大の裏切りになる。
顔を覆っていた手を、ゆっくりと下ろす。
セシリアが小さく微笑み、エリナが深く頷いた。
リシェルは壁に手をつき、自らの足でしっかりと立ち上がった。
「……ええ、そうでした。負けられません」




