覚悟
アーベント領の東端、ローデリヒの東に設営された野営地。
出陣に備えて、兵士たちは剣の刃こぼれを確かめ、馬の鞍を調整するなど、静かな緊張感の中で最後の準備を進めていた。
松明の明かりの中、部隊の最終確認に回っていたユウは、剣の手入れをしているイリーナの姿を見つけた。
脳裏に、昨晩の自室での光景がよぎった。
しかし、軍師として声をかけないわけにもいかない。
ユウは小さく息を吐き、努めて自然を装って歩み寄った。
「お、おお。イリーナ、準備はどうだ?」
声をかけられたイリーナは、手入れの手をピタリと止めた。 そして一切の無駄がない動作で立ち上がると、完璧な姿勢で敬礼をした。
敬礼時に彼女の鮮やかな黒髪が宙を舞う。
「……はっ! 抜かりありません。『軍師様』」
「その、昨日のことなんだが……」
「何のことでしょうか? 私はただ、己の使命を全うするのみです」
一切の感情を排した、氷のように冷たい声。
意図的に距離を置いた呼称を使っていることに、ユウは内心で冷や汗を流す。
「あ、あぁ……、そうか。その、準備は問題ないか?」
動揺のあまり、先ほどと同じ質問を繰り返してしまうユウ。
イリーナの表情は微塵も動かない。
「……ですから、先ほど申したように抜かりありません。武具、防具ともに必要数の手配を終えております」
「そ、そうだったな……。明日は、その、作戦通り頼む」
「もちろんです。我々が人手不足なのは重々承知しております。全てはリシェル様と『軍師様』のために……」
「あぁ……。その、期待してるぞ」
これ以上の会話は墓穴を掘るだけと悟り、ユウは逃げるようにその場を後にした。
イリーナは彼の背中を見送ることもせず、再び無言で剣の手入れに戻る。
その歪なやり取りを、少し離れた焚き火の前から眺めていた男たちがいた。
「なあ……。アルト、あの二人おかしくないか?」
カインは短剣を手入れする手を止め、胡乱な目を向ける。
「そうかい? いつも通りに見えるけど……」
「いや、なんというかユウの野郎、やけによそよそしいぞ。それにイリーナのあの態度……いくらなんでも冷たすぎやしないか?」
「うーん。僕にはいつも通り真面目に見えるけど。でも、二人で共和国まで向かっていたからね。もしかしたら何かあったのかもしれないね」
純朴に首を傾げるアルトの的を射た推測に、カインはやれやれと肩をすくめた。
「……まあ、そのうち治るだろ。それより俺たちは俺たちの仕事に集中するだけだ」
そういって、彼等二人も自分の準備へ戻っていく。
全ては作戦のためであった。
***
翌朝、王都へと続く街道沿いの峡谷。
王都へ物資を運ぶためには、必ず通らなければならない場所となる。
切り立った崖と鬱蒼と茂る森に挟まれた細い一本道を、高台の茂みからカインとアルトが見下ろしていた。
「……本当に帝国軍は来るのかよ」
「間違いない。調査報告によると彼等は決まった時間にここを通過しているみたいだ」
「こんな細い道使うとはあまり考えられないけどな……」
「クロウたちからの情報だと報告を受けている」
「なるほどな。それだと間違いなさそうだ」
二人が小声で言葉を交わしていると、背後の茂みが僅かに揺れ、一部隊を率いるイリーナが身を屈めながら合流した。
「二人とも、状況はどんな様子だ?」
「特に動きはなさそうだ」
アルトの報告に、イリーナは無言で頷いた。
彼女も眼下の街道へと鋭い視線を向ける。
「……見ろよ。あの辺りは道幅が狭くなっているぞ」
カインが谷底の一点を指し示して告げた。
「あそこに荷馬車を引きずり込めば、身動きが取れなくなりそうだな」
「なるほど、良さそうな場所だね。あらかじめ倒木でも仕掛けておけば、完全に足止めできそうだ」
アルトもまた、普段の表情から一転して戦士の顔つきで評価を下す。
そんな二人のやりとりに、イリーナは同意をする。
「伏兵は予定通りに配置した。両翼の森に展開させ、敵を挟撃する」
状況確認を終えたあとにカインがイリーナへと視線を向けた。
その顔は、先ほどの険しさとは別で純粋な疑問が浮かんでいた。
「……にしても」
カインは周囲に響かないよう、さらに声を潜める。
「俺みたいな粗野な連中ならともかく、王女の近衛騎士様が、こんな奇襲任務の指揮を執っていいのか? 本来なら殿下のお側を離れるべきじゃないだろ」
カインの率直な問いかけに、イリーナは谷底から視線を外すことなく答えた。
「……ユウの策は、王都の民を飢えさせてしまう非情なものだ」
イリーナは言葉を続ける前に一拍だけ置く。
「だからこそ、この作戦は失敗が許されない。人手不足という陣営の事情もあるが……泥を被るのが殿下の軍であるならば、その騎士である私も責任を取るのは当然の務めだ」
カインは口の端をわずかに上げ、短く笑みをこぼした。
「なるほど……、まあそれを言うとアルトも『近衛騎士隊長』様だったな」
「形式上の話だよ。その話は恥ずかしいから辞めてくれ」
「全く……、戦の前だぞ……」
口調とは裏腹にその口元がわずかに上がったイリーナであった。
――その時だった。
街道の先から、車輪と馬の蹄の音が風に乗って届いた。
やがて木々の隙間から、帝国の紋章を掲げた一隊が姿を現す。
この軍団は兵士よりも荷馬車の方が数が多い。
護衛の兵士たちも馬車と歩調を合わせ、周囲を警戒しながら進んでいる。
イリーナは腰の剣の柄に静かに手をかけた。
そして後方に控える者たちに伝わるギリギリの声音で告げる。
「……無駄口は終わりだ。来るぞ」




