夜風
その夜。
ロレンツォ邸に客室を用意された二人は、屋敷にある中庭へ足を運んでいた。
白亜の大理石が敷き詰められている庭園は、月明かりが反射して発光しているかのように白い。
手入れの行き届いた植栽が風に揺れる音だけが、静かな空間に響く。
「……夜風が冷える。体を冷やすぞ」
庭園の柱に背を預けていたユウが声をかけると、月を見上げていたイリーナが静かに振り返った。
「ユウ……。少し頭を冷やそうと思いまして」
「大切な騎士様に体調を崩されたら堪らないぞ」
「全く……、あなたはどんな時でもいつも通りですね…」
気丈に振る舞っているが、月光に照らされた彼女の横顔には、昼間には見せなかった疲労と不安が影を落としていた。
「何か悩みごとか?」
「……これからの事を考えていました。我々は共和国という後ろ盾を得ましたが……何万という帝国軍を前にしても、私たちは生き残れるのでしょうか……」
「そうだな……」
イリーナは自身の腕を抱き込むようにして、細く息を吐き出す。
ユウは柱から背を離し、彼女の隣へと歩み寄った。
そして、不安げに強く握り込まれていた彼女の右手を、そっと自身の両手で包み込む。
「……なっ! ユウ!?」
突然手に触れられ、イリーナは肩を跳ねた。
慌てて手を引き抜こうとするが、ユウは静かに、だが力強くその手を離さなかった。
「俺が……必ず勝たせてやる」
「本当ですか?」
「ああ……、それにしても、手がやけに冷たいな」
「こ、これは、夜風のせいです……! 私は王女殿下の騎士です。敵を前にして震えるなど……」
必死に騎士としての矜持を保とうとするイリーナに、ユウは自嘲するような笑みを向けた。
「誰だって怖い」
「ユウも……怖いの、ですか?」
「あぁ……、怖いさ」
いつも現実主義で、どんな窮地でも冷静に状況を分析している青年からの思いがけない言葉に、イリーナは目を丸くする。
「命は一つしかない。だからこそ、死なないために必死に頭を回しているんだ。あんたと同じだよ」
ユウの飾らない本音を聞き、イリーナの手にこもっていた力が微かに抜けた。
彼女は俯き、痛いほど強く自身の唇を噛む。
「……自分の命が惜しいわけではありません。ですが、もし私の剣が届かず、殿下や王国の民が蹂躙されることになれば……そう考えると、足が竦むのです」
絞り出す声には、彼女が抱え込んできた重圧が滲んでいた。
その恐怖を抱えながら、それでも彼女は毎日戦いに身を投じてきたのだ。
「悪い……」
「なっ…!!」
ユウは繋いでいた手を引き寄せ、イリーナの細い体を自身の腕の中へと閉じ込めた。
「な、なんのつもりですか……!」
イリーナは思いがけない行動をしてきた青年を突き飛ばそうとする。
それでも、ユウの力が弱まる気配はなかった。
「いや、そのなんというか」
「な、なんですか……!」
「酒のせいかもしれん……」
使い方によっては酷い言い訳に聞こえるかもしれない言葉であった。
だが、イリーナは次第に青年の優しさを受け止めていく。
「……今はただのイリーナで居て良い」
「…それは軍師としての命令ですか?」
「いや、ただの頼みだ」
不器用なほど真っ直ぐな言葉と体温に包まれ、イリーナの中で張り詰めていた見えない糸が、静かに解けた。
「……ずるいです、貴方は」
イリーナは何かを言い返そうとしたが、言葉は出てこなかった。
代わりに、ユウの服を掴む指先に少しだけ力が入った。
その日の夜風はいつもより少しだけ寒く感じた。




