準備
学長室を出たあと、アルトとカインは足を止めなかった。
校舎を抜け、そのまま中庭へ出ると、即座に隊の者たちを招集した。選抜の話はすでに一部の者へと伝わっていたらしい。
広場に集まった三十名の若者たちの間に流れる空気は、薄氷を張ったように研ぎ澄まされていた。
アルトの報告は、端的でとても分かりやすかった。
出発は三日後の明け方にルーヴェルから東方へ進軍し、山賊拠点の制圧する。
若者たちの質問は最小限に留まり、動揺の色も見られない。
これが彼らの日常であり、常に死線を想定することが、彼らに課せられている義務だった。
続いてカインが補足を入れた。
偵察と連携の確認。そこには無駄な鼓舞など一切なく、全員が最悪の事態を想定している。
カインの鋭い眼光は、彼がただの軽薄な少年ではなく、極めて優れた斥候であることを雄弁に物語っていた。
準備の指示が飛び、隊は即座に散開し、装備の確認、連絡を行っていく。
アルトは最後に一度だけ全体を見渡し、静かにその場を離れた。
✼✼✼
屋敷へ戻る頃には、空はすでに茜色へと傾いており、石畳に落ちる影が長く伸びている。
門をくぐり、玄関へと向かうと、作業中の使用人たちが深々と頭を下げた。
重厚な扉を開けると、いつもの静寂が二人を迎えてくれる。
「お帰りなさいませ」
グレイであった、その佇まいで屋敷の秩序が厳格に守られていることが分かる。
その背後には、エリナとセシリアの姿もあった。
アルトは軽く頷いたが、その声音は普段よりも鋼のように硬質だった。
グレイは、主のその僅かな変化を瞬時に見抜く。
「……何かございましたか」
低く落ち着いた、静かな問い。アルトは一瞬だけ間を置き、短く事実を告げた。
「出陣の命令が出た」
たった一言で、その場の空気が凍りつく。
セシリアの表情が、目に見えて小さく揺れる。
「……また争いになってしまうのですね」
感情を押し殺している声であった。
飲み込みたくない現実だが、決して逃れられない宿命。
アルトは妹を真っ直ぐに見つめ、静かに頷いた。
「三日後にルーヴェルの東方へと向かう。そこで山賊を討伐してくるよ」
簡潔な説明だが、それで十分だった。
その内容を受けて、グレイは僅かに目を細める。
「相手は”自由の盾”ですかな?」
「そのように報告を受けているよ」
エリナは何も言わなかった。
ただ、その視線が一瞬だけユウへと向けられる。
それは観察するような、深く静かな眼差しだった。
ユウと目が合いそうになると、彼女は何事もなかったかのように視線を逸らした。
「危険……ですよね……」
セシリアの確認であった。
それは問いの形をした、覚悟の滲いんでいる言葉であった。
アルトはその問いに正面から答える。
「安全とは言えないね。だけど、いつも通り無事に帰ってくるよ」
嘘は言わない。
不必要な安心は、戦場において死を招くことを知っているからだ。
重い沈黙が落ちたが、それを崩したのは、グレイの言葉であった。
「――それでしたら、ユウ様の準備も必要でしょう」
「準備……?」
執事の指摘は的確だった。
ユウには今、日用品すら揃っていない。
戦場に赴く以前の問題だった、アルトも同意するように頷く。
「……なるほど。確かにそこまでは考えが回っていなかった」
セシリアも言葉を重ねる。
「それでしたら、わたくしが……。あっ、その、申し訳ありません。明日は外せない予定がありました……」
「僕も隊の調整があるんだよね」
「では、ここは……エリナにユウ様の買い物の案内を頼みましょう」
「……承知いたしました」
淀みのない即答に、ユウは小さく息を吐いた。
(……決まりだな)
やるべきことが決まり、各々が自室へと戻っていく。
本日もレオニードとセリオスは不在だった。
おそらくだが、軍務と都市の調整に追われているのだろう。
珍しいことではないが、今はその不在の意味が違って感じられた。
戦が近い――その重い事実だけが、誰もいなくなった広間に残されていた。
翌朝、朝食後の屋敷の前。
やわらかな朝の光が石畳を白く照らしている。
ユウが近づく足音に気づいて顔を上げると、そこにはエリナが立っていた。
一瞬、思考が止まる。
淡い生成りのブラウスに、落ち着いた紺のスカート。
腰元は動きやすさを考慮したシルエットだったが、それでも彼女の整った身体の線が自然に際立っていた。
金色の髪は後ろで軽くまとめられ、陽の光を透かして、普段よりも柔らかく輝いて見える。
ユウは言葉がでなかった。
というのも制服を脱いだ彼女が、驚くほど美しく見えたからであった。
透き通るような肌の白さ、伏せられた睫毛が落とす影。
射し込む朝光に縁取られたその姿から、どうしても目が離せない。
脳裏に焼き付く姿に、なぜだか胸の奥がやけに騒がしかった。
「お待たせしました」
声のトーンも、わずかに軽く聞こえてくる。
ふいに互いの視線がぶつかった。
「ユウ様……?」
「………ああ」
吸い込まれるような青い瞳。
ユウは、自分が完全に見惚れていたことを自覚した。
熱を持った視線を悟られぬよう、とっさに顔を背ける。
「……なんでもない……今来たところだ」
取り繕う声が、自分でも驚くほどぎこちない。
だが、エリナは気にする様子もなく、静かに前へと歩き出した。
「では、参りましょうか」
「よろしく頼む」
石畳の道を、二人は並んで歩く。
アルトの「客人」という立場のおかげなのか、街へ向かう大きな門も、衛兵の丁重な敬礼と共に通過できた。
「ちなみに……どこへ行くんだ?」
「商業区のレイヴァルト家が行きつけにしているお店がございます。そこで、ユウ様の衣類を整えるべきかと」
門をくぐると、一気に空気が変わった。
白で統一された美しい街並み。左右に並ぶ活気ある露店、響き渡る客引きの声、荷車の軋み。焼きたてのパンや、香ばしい焼き肉の匂いが鼻腔をくすぐる。
しばらくすると、エリナが小さな革袋を軽く持ち上げた。
ずしりとした、重厚な金属の擦れる音が響く。
「アルト様から支度金をお預かりしております。念のため、中身を確認していただけますか」
促されたユウは袋の口を広げた。
鈍い光を放つ金貨が数枚、その下には大量の銀貨が隙間なく詰まっている。
ずっしりとした重みが、手のひらを通じて直接伝わってきた。
(……この世界の相場は分からんが、相当な額だろう。一人が当面、何不自由なく暮らせる分はありそうだ)
「足りなければ追い足す」というアルトの無言のメッセージと信頼の重さを、金属の冷たさ、そして重みと共に噛み締める。
「……これだけあると買い物に困ることはなさそうだな」
「ええ。アルト様の御厚意です。大切にお使いください」
金額を確かめた後、二人は一軒の衣服店へと入った。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、恰幅の良い男が顔を出した。
店主のエドガー・ヘンダーだ。
銀縁の眼鏡を光らせ、口元の髭はミリ単位で整えられている。
少し小太りな体型だが、着こなしているベストには一点の皺もない。
磨き上げられた靴音を響かせながら、彼はユウの全身を瞬時に走査した。
客の体格、筋肉の付き方、懐の余裕。
すべてを測り、最適解を導き出す、冷徹な鑑定眼。
清潔感の塊のような男は、ユウの素性という微妙な立ち位置を即座に飲み込んでいた。
「エリナと……お連れ様ですかい。見ない顔だね……」
「ユウ・キサラギだ」
「エドガーだ、よろしく。……それにしても、エリナが男を連れてくるとは……、彼氏かい?」
エドガーの言葉には、商売人特有の軽妙な毒と親しみがあった。
「ゴホン……、ユウ様はアルト様の従者となられた方です」
エリナの返答には、ほんの少しだけ照れくさそうな響きが混じる。
それを見逃さず、エドガーがニヤリと口角を上げた。
「おや、そりゃ初耳だね……。遂に坊っちゃんにも従者を選ばれたのかい」
「そんなことより、ユウ様の服装を見繕ってもらえませんか?」
「なるほどねっと……お前さんたち、この旦那の服を見繕っておくれ! 」
その声によって店の裏手から従業員がやってきて、ユウを素早く採寸していく。
エドガーは従業員たちが並べた様々な生地を指先で弾き、ユウに最適な数着を厳選した。
「好みの服装はあるかい?」
「なるべくシンプルな方がいい。あとは、動きやすさだな」
「なら、この北方の羊毛を混ぜた生地がいい」
エドガーが迷いなく一着の服を差し出す。
「丈夫で、剣を振っても引きつらない。実に実戦向きだ」
「剣は振らないんだけどな……」
「それで従者なのかい! こいつはたまげたね!」
ユウは店の裏手に案内され、エドガーから手渡された新しい服へと着替える。
シンプルな白のシャツに茶のズボン、装飾の類は一切ない。
だが、仕立ては極めて丁寧で、素材の良さが肌に心地よく馴染む。
表のフロアへ戻ると、エドガーは満足げに頷いた。
「見違えたな……。服に負けていないぞ」
エドガーの目は、ユウの奥に潜む「何か」を面白がっているようだった。
ふと、ユウの視線がエリナへ向かった。
彼女は、ガラスケースの棚に並んだ装飾品をじっと見つめていた。
注視してたので、こちらへ気づくのが一瞬だけ遅れた。
「……気になるのか? 」
「いえ……」
彼女の答えは即座に返された。
しかし、その右手には、小さな青い結晶があしらわれた銀細工のブローチをそっと包むように握りしめていた。
「……少しだけ」
役割としての視線ではない、年相応の、ただの純粋な興味。
どこか、見つかって罰が悪そうな表情を浮かべている。
(……こういう顔も、するんだな)
「買うか? 予算には余裕があるみたいだし……」
「いけません。これはアルト様からお預かりした、ユウ様のためのお金です」
理性的な線を引くような響き。
ユウはそれ以上は言葉で押さず、彼女へと一歩近づくと、エリナの手からそのブローチを静かに抜き取った。
「なら、これは俺が買おう」
「……え? 」
初めて、彼女の明確な表情が崩れた。
「……どうしてですか? 」
「別に……、ただ欲しそうだったからな。それに今日は付き合ってもらったからな」
余計な意味を持たせない、単純な理由。
ユウは預かっていた革袋から代金分の銀貨を取り出し、カウンターへと差し出した。
それを見た店主のエドガーが、にやりと深く笑う。
「いいじゃないか。そういうのは勢いだよ。旦那は粋な買い物をするね」
エドガーは機嫌よくそれを受け取り、わずかに費用を割り引いてくれた。
「毎度あり」
店を出ると、街の喧騒が再び二人を包み込んだ。
エリナは、小さな包みを両手で大事そうに抱えながら、まだ戸惑いを捨てきれないようだった。
「……よろしかったのですか」
「何がだ」
「無駄遣いではありませんか」
「無駄かどうかは、使った奴が決めるんだ。……それに」
ユウは視線を少し逸らし、ぶっきらぼうに一言付け加えた。
「その綺麗な金髪に、よく似合いそうだったから」
慣れない言葉に、自分でも驚くほど声がぎこちない。
エリナの足が、ぴたりと止まる。
「……ありがとうございます」
静かに頭を下げる。
その声は、先ほどまでの「使用人」としてのものではなかった。
柔らかく、優しく、どこか温かい、彼女本来の声。
その後、二人は商業区をゆっくりと歩き回った。
露店で焼かれた香ばしい肉を分け合い、パン屋で甘い菓子を見つけ、小さな小物店を冷やかす。
エリナは最初こそ控えめな態度を崩さなかったが、次第にその足取りは目に見えて軽くなっていく。
「楽しいか?」
「……はい。久しぶりに」
屋敷で見せる役割の顔は、そこにはなかった。
やがて、二人は中央の大きな噴水へと辿り着く。
絶え間ない水音が街の喧騒を心地よく和らげていた。
エリナは誘われるようにベンチへと腰を下ろす。
ユウもその隣に座り、しばらくの間、言葉を交わさずに水のきらめきを眺めていた。
ふいに、エリナがぽつりと呟いた。
「……この街は、あらゆる情報が集まりやすいのです」
ユウが静かに視線を向ける。
「人が多いですし。人も、物も、金も……全てが流れてきます。王国だけでなく、帝国の動きも見えてきます」
周囲の空気が、わずかに張り詰めたものへと変わる。
ハッとしたように、エリナが自ら口を閉ざした。
(……今のは)
ユウはそれ以上、追及しなかった。
ただ、静かに彼女の横顔を見つめる。
エリナはすぐにいつもの冷静な表情を取り戻し、小さく頭を下げた。
「……失礼しました」
二人の間には、ただ噴水の激しい水音だけが、静かに、そして冷ややかに響き続けていた。




