↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/120

準備


学長室を出たあと、アルトとカインは足を止めなかった。

校舎を抜け、そのまま中庭へ出ると、即座に隊の者たちを招集した。選抜の話はすでに一部の者へと伝わっていたらしい。

広場に集まった三十名の若者たちの間に流れる空気は、薄氷を張ったように研ぎ澄まされていた。


アルトの報告は、端的でとても分かりやすかった。

出発は三日後の明け方にルーヴェルから東方へ進軍し、山賊拠点の制圧する。

若者たちの質問は最小限に留まり、動揺の色も見られない。

これが彼らの日常であり、常に死線を想定することが、彼らに課せられている義務だった。


続いてカインが補足を入れた。

偵察と連携の確認。そこには無駄な鼓舞など一切なく、全員が最悪の事態を想定している。

カインの鋭い眼光は、彼がただの軽薄な少年ではなく、極めて優れた斥候であることを雄弁に物語っていた。

準備の指示が飛び、隊は即座に散開し、装備の確認、連絡を行っていく。

アルトは最後に一度だけ全体を見渡し、静かにその場を離れた。


✼✼✼


屋敷へ戻る頃には、空はすでに茜色へと傾いており、石畳に落ちる影が長く伸びている。

門をくぐり、玄関へと向かうと、作業中の使用人たちが深々と頭を下げた。

重厚な扉を開けると、いつもの静寂が二人を迎えてくれる。


「お帰りなさいませ」


グレイであった、その佇まいで屋敷の秩序が厳格に守られていることが分かる。

その背後には、エリナとセシリアの姿もあった。

アルトは軽く頷いたが、その声音は普段よりも鋼のように硬質だった。

グレイは、主のその僅かな変化を瞬時に見抜く。


「……何かございましたか」


低く落ち着いた、静かな問い。アルトは一瞬だけ間を置き、短く事実を告げた。


「出陣の命令が出た」


たった一言で、その場の空気が凍りつく。

セシリアの表情が、目に見えて小さく揺れる。


「……また争いになってしまうのですね」


感情を押し殺している声であった。

飲み込みたくない現実だが、決して逃れられない宿命。

アルトは妹を真っ直ぐに見つめ、静かに頷いた。


「三日後にルーヴェルの東方へと向かう。そこで山賊を討伐してくるよ」


簡潔な説明だが、それで十分だった。

その内容を受けて、グレイは僅かに目を細める。


「相手は”自由の盾”ですかな?」


「そのように報告を受けているよ」


エリナは何も言わなかった。

ただ、その視線が一瞬だけユウへと向けられる。

それは観察するような、深く静かな眼差しだった。

ユウと目が合いそうになると、彼女は何事もなかったかのように視線を逸らした。


「危険……ですよね……」


セシリアの確認であった。

それは問いの形をした、覚悟の滲いんでいる言葉であった。

アルトはその問いに正面から答える。


「安全とは言えないね。だけど、いつも通り無事に帰ってくるよ」


嘘は言わない。

不必要な安心は、戦場において死を招くことを知っているからだ。

重い沈黙が落ちたが、それを崩したのは、グレイの言葉であった。


「――それでしたら、ユウ様の準備も必要でしょう」


「準備……?」


執事の指摘は的確だった。

ユウには今、日用品すら揃っていない。

戦場に赴く以前の問題だった、アルトも同意するように頷く。


「……なるほど。確かにそこまでは考えが回っていなかった」


セシリアも言葉を重ねる。


「それでしたら、わたくしが……。あっ、その、申し訳ありません。明日は外せない予定がありました……」


「僕も隊の調整があるんだよね」


「では、ここは……エリナにユウ様の買い物の案内を頼みましょう」


「……承知いたしました」


淀みのない即答に、ユウは小さく息を吐いた。


(……決まりだな)


やるべきことが決まり、各々が自室へと戻っていく。

本日もレオニードとセリオスは不在だった。

おそらくだが、軍務と都市の調整に追われているのだろう。

珍しいことではないが、今はその不在の意味が違って感じられた。

戦が近い――その重い事実だけが、誰もいなくなった広間に残されていた。


翌朝、朝食後の屋敷の前。

やわらかな朝の光が石畳を白く照らしている。

ユウが近づく足音に気づいて顔を上げると、そこにはエリナが立っていた。

一瞬、思考が止まる。


淡い生成りのブラウスに、落ち着いた紺のスカート。

腰元は動きやすさを考慮したシルエットだったが、それでも彼女の整った身体の線が自然に際立っていた。

金色の髪は後ろで軽くまとめられ、陽の光を透かして、普段よりも柔らかく輝いて見える。


ユウは言葉がでなかった。

というのも制服を脱いだ彼女が、驚くほど美しく見えたからであった。

透き通るような肌の白さ、伏せられた睫毛が落とす影。

射し込む朝光に縁取られたその姿から、どうしても目が離せない。

脳裏に焼き付く姿に、なぜだか胸の奥がやけに騒がしかった。


「お待たせしました」


声のトーンも、わずかに軽く聞こえてくる。

ふいに互いの視線がぶつかった。


「ユウ様……?」


「………ああ」


吸い込まれるような青い瞳。

ユウは、自分が完全に見惚れていたことを自覚した。

熱を持った視線を悟られぬよう、とっさに顔を背ける。


「……なんでもない……今来たところだ」


取り繕う声が、自分でも驚くほどぎこちない。

だが、エリナは気にする様子もなく、静かに前へと歩き出した。


「では、参りましょうか」


「よろしく頼む」


石畳の道を、二人は並んで歩く。

アルトの「客人」という立場のおかげなのか、街へ向かう大きな門も、衛兵の丁重な敬礼と共に通過できた。


「ちなみに……どこへ行くんだ?」


「商業区のレイヴァルト家が行きつけにしているお店がございます。そこで、ユウ様の衣類を整えるべきかと」


門をくぐると、一気に空気が変わった。

白で統一された美しい街並み。左右に並ぶ活気ある露店、響き渡る客引きの声、荷車の軋み。焼きたてのパンや、香ばしい焼き肉の匂いが鼻腔をくすぐる。

しばらくすると、エリナが小さな革袋を軽く持ち上げた。

ずしりとした、重厚な金属の擦れる音が響く。


「アルト様から支度金をお預かりしております。念のため、中身を確認していただけますか」


促されたユウは袋の口を広げた。

鈍い光を放つ金貨が数枚、その下には大量の銀貨が隙間なく詰まっている。

ずっしりとした重みが、手のひらを通じて直接伝わってきた。


(……この世界の相場は分からんが、相当な額だろう。一人が当面、何不自由なく暮らせる分はありそうだ)


「足りなければ追い足す」というアルトの無言のメッセージと信頼の重さを、金属の冷たさ、そして重みと共に噛み締める。


「……これだけあると買い物に困ることはなさそうだな」


「ええ。アルト様の御厚意です。大切にお使いください」


金額を確かめた後、二人は一軒の衣服店へと入った。


「いらっしゃいませ」


店の奥から、恰幅の良い男が顔を出した。

店主のエドガー・ヘンダーだ。

銀縁の眼鏡を光らせ、口元の髭はミリ単位で整えられている。

少し小太りな体型だが、着こなしているベストには一点の皺もない。

磨き上げられた靴音を響かせながら、彼はユウの全身を瞬時に走査した。


客の体格、筋肉の付き方、懐の余裕。

すべてを測り、最適解を導き出す、冷徹な鑑定眼。

清潔感の塊のような男は、ユウの素性という微妙な立ち位置を即座に飲み込んでいた。


「エリナと……お連れ様ですかい。見ない顔だね……」


「ユウ・キサラギだ」


「エドガーだ、よろしく。……それにしても、エリナが男を連れてくるとは……、彼氏かい?」


エドガーの言葉には、商売人特有の軽妙な毒と親しみがあった。


「ゴホン……、ユウ様はアルト様の従者となられた方です」


エリナの返答には、ほんの少しだけ照れくさそうな響きが混じる。

それを見逃さず、エドガーがニヤリと口角を上げた。


「おや、そりゃ初耳だね……。遂に坊っちゃんにも従者を選ばれたのかい」


「そんなことより、ユウ様の服装を見繕ってもらえませんか?」


「なるほどねっと……お前さんたち、この旦那の服を見繕っておくれ! 」


その声によって店の裏手から従業員がやってきて、ユウを素早く採寸していく。

エドガーは従業員たちが並べた様々な生地を指先で弾き、ユウに最適な数着を厳選した。


「好みの服装はあるかい?」


「なるべくシンプルな方がいい。あとは、動きやすさだな」


「なら、この北方の羊毛を混ぜた生地がいい」


エドガーが迷いなく一着の服を差し出す。


「丈夫で、剣を振っても引きつらない。実に実戦向きだ」


「剣は振らないんだけどな……」


「それで従者なのかい! こいつはたまげたね!」


ユウは店の裏手に案内され、エドガーから手渡された新しい服へと着替える。

シンプルな白のシャツに茶のズボン、装飾の類は一切ない。

だが、仕立ては極めて丁寧で、素材の良さが肌に心地よく馴染む。

表のフロアへ戻ると、エドガーは満足げに頷いた。


「見違えたな……。服に負けていないぞ」


エドガーの目は、ユウの奥に潜む「何か」を面白がっているようだった。

ふと、ユウの視線がエリナへ向かった。

彼女は、ガラスケースの棚に並んだ装飾品をじっと見つめていた。

注視してたので、こちらへ気づくのが一瞬だけ遅れた。


「……気になるのか? 」


「いえ……」


彼女の答えは即座に返された。

しかし、その右手には、小さな青い結晶があしらわれた銀細工のブローチをそっと包むように握りしめていた。


「……少しだけ」


役割としての視線ではない、年相応の、ただの純粋な興味。

どこか、見つかって罰が悪そうな表情を浮かべている。


(……こういう顔も、するんだな)


「買うか? 予算には余裕があるみたいだし……」


「いけません。これはアルト様からお預かりした、ユウ様のためのお金です」


理性的な線を引くような響き。

ユウはそれ以上は言葉で押さず、彼女へと一歩近づくと、エリナの手からそのブローチを静かに抜き取った。


「なら、これは俺が買おう」


「……え? 」


初めて、彼女の明確な表情が崩れた。


「……どうしてですか? 」


「別に……、ただ欲しそうだったからな。それに今日は付き合ってもらったからな」


余計な意味を持たせない、単純な理由。

ユウは預かっていた革袋から代金分の銀貨を取り出し、カウンターへと差し出した。

それを見た店主のエドガーが、にやりと深く笑う。


「いいじゃないか。そういうのは勢いだよ。旦那は粋な買い物をするね」


エドガーは機嫌よくそれを受け取り、わずかに費用を割り引いてくれた。


「毎度あり」


店を出ると、街の喧騒が再び二人を包み込んだ。

エリナは、小さな包みを両手で大事そうに抱えながら、まだ戸惑いを捨てきれないようだった。


「……よろしかったのですか」


「何がだ」


「無駄遣いではありませんか」


「無駄かどうかは、使った奴が決めるんだ。……それに」


ユウは視線を少し逸らし、ぶっきらぼうに一言付け加えた。


「その綺麗な金髪に、よく似合いそうだったから」


慣れない言葉に、自分でも驚くほど声がぎこちない。

エリナの足が、ぴたりと止まる。


「……ありがとうございます」


静かに頭を下げる。

その声は、先ほどまでの「使用人」としてのものではなかった。

柔らかく、優しく、どこか温かい、彼女本来の声。


その後、二人は商業区をゆっくりと歩き回った。

露店で焼かれた香ばしい肉を分け合い、パン屋で甘い菓子を見つけ、小さな小物店を冷やかす。

エリナは最初こそ控えめな態度を崩さなかったが、次第にその足取りは目に見えて軽くなっていく。


「楽しいか?」


「……はい。久しぶりに」


屋敷で見せる役割の顔は、そこにはなかった。

やがて、二人は中央の大きな噴水へと辿り着く。

絶え間ない水音が街の喧騒を心地よく和らげていた。

エリナは誘われるようにベンチへと腰を下ろす。

ユウもその隣に座り、しばらくの間、言葉を交わさずに水のきらめきを眺めていた。

ふいに、エリナがぽつりと呟いた。


「……この街は、あらゆる情報が集まりやすいのです」


ユウが静かに視線を向ける。


「人が多いですし。人も、物も、金も……全てが流れてきます。王国だけでなく、帝国の動きも見えてきます」


周囲の空気が、わずかに張り詰めたものへと変わる。

ハッとしたように、エリナが自ら口を閉ざした。


(……今のは)


ユウはそれ以上、追及しなかった。

ただ、静かに彼女の横顔を見つめる。

エリナはすぐにいつもの冷静な表情を取り戻し、小さく頭を下げた。


「……失礼しました」


二人の間には、ただ噴水の激しい水音だけが、静かに、そして冷ややかに響き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。