17話「途中の話」
私の間違えは、いつからだったのだろう。
ふと、記憶を遡る。
あれはそう、あいつがまだ私の親友になる前の話だ。
あいつは私と正反対で、いつも誰かが側にいた。私はそんなあいつを羨んだことこそないものの、ふと視界に映ったあいつを気がつけば目で追っていた。
別に話しかけて欲しかった訳じゃない。
言うなれば嫉妬だ。
みなと仲良くしているくせに、私には声を掛けないのか。なんて随分と身勝手な。
「千鶴だったか、その本。面白いのか?」
初めて話しかけられた時のことを、今でも思い出せる。
中学校も2年目になって間もなかったから、お互い随分純粋だったものだと思う。
「愉快さ、とても」
「『猿でもわかる、友達なんていらない』とても面白そうには思えないが……」
「中身を知りもせず、よく言えたものだ」
「お互い様じゃないか? それは」
訝しんだ私に、あいつはこう言ったんだ。
「友達、なんてレッテルを貼ったって、それだって特定の個人じゃないか? この教室に30人といる彼らのことを何にも知らずにいらないと言っているなら、何も変わらないと思うが?」
「よく知ったところでどうせ、必要にはならない」
「そうか、じゃあもっと話すとしよう」
「どうしてそうなる?」
「サルにはいらなくとも、私には必要だからだ」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけだけれど、嬉しく思ってしまったんだ。
「私が、か?」
「まさか、人付き合いがだ」
「……なら、他をあたるといい」
「冗談に決まっているだろ」
当時の私は、あいつが苦々しく微笑むその時まで、そんなことさえもわからない奴だった。
「だが、不要だと切り捨てるのだって話してみてからでも遅くはないだろう? その上で本当に不要なら切り捨ててもらってかまわないさ」
「……好きにするといい」
それからだ。ことあるごとにあいつが話しかけてくるようになったのは。
「隣のクラスに転校生が来たらしいぞ? 聞くところによれば結構な男前だそうじゃないか」
「知らん」
色恋に始まり、
「牛乳は苦手か? その身長も納得だな」
「私はスポーツに精を出すつもりはない。であれば食を低コストに抑えられるこの体系こそむしろ理想的と言えよう」
知ったところでどうということはない、互いの趣味趣向について、
「92点とは、いささかたるんでいるのではないか? 咲」
「全国模試だぞ? この点数を取れる方が少数だ」
いかにも学生らしい話もしたな。
気がつけばそれなりの時間を、奴と過ごしていたんだ。
「咲、文系と理系、お前はどっちに進むつもりだ?」
「私が文系だと思うか?」
「……私は」
「お前は文系だろ?」
つい先日まで桜を咲かせていたはずの木々が、いつしか枯葉を散らし、また花を芽吹かせた。
その年も、ご多分に漏れず春が来たんだ。
「司法書士を目指す、そう記憶しているが」
「一度しか、それも半年以上前の話をよくも覚えているものだな」
「周りで司法書士を目指しているのは、お前くらいだからな」
「……そうか」
次に登校する時にはもう、学年が上がる。
浮かれて早々と帰路に就く輩ばかりで、二人しかいなくなった教室に私の声が溶けていった。
「結局、お前は私以外とろくに話すこともなかったな」
「当たり前だ。私は」
「──馬鹿や阿呆とつるむつもりはない、だったか」
「……」
私は別に、それでいい。
それでよかったんだ。
「確かにお前は賢い。運動はからっきしだが学力は学年。いや、学校でみてもかなりのものだ。だが、」
そう。だから私は、お前が何を言いたいのかさえ、わかっている。
「私《咲》はどうだ? 馬鹿だと思ってはいないがお前ほど天才でもない」
わかってる。
わかっているんだ。
「平均より多少上な程度、クラスにだって私より上は数人いるだろ?」
馬鹿とはなにか。
阿呆とは誰か。
「もう、わかってるんじゃないか?」
「……わかって、いるとも」
「なら──」
「わかっているからなんだっていうんだ」
「……その答えがこれだと?」
「──そうさ、悪いか?」
心の内が流れだして、
「わかっている! 私とてわかっているとも!!」
堰を切ったんだ。
「だが今更どうしろっていうんだ!? 私にはそれしかなかった。運動ができなくても、愛想が悪くても、芸術に富んでいなくとも、私は賢い。それでいいと本気で思っていたんだ。周りの奴らはろくに勉強もせず群がって、自慢げに桁の低いテストを見せあったり、意味もない色恋に現を抜かしたりして、馬鹿なんじゃないかって心底思っていたさ! 私はああはならない、なぜならお前らと違って賢いから。それが正しくて、将来社会に出たら必要なのは私の方だって、ずっと……ずっと…………」
でもお前に会ってわかったんだ。
そうやって培った知識も何も、結局はそれを何に使うかだ。
そして、私には成したい何かさえ────
「…………馬鹿だよ、お前はほんとに」
「……知っている。私にはお前しかいない。だがお前には私以外がいる。それさえも全部、これまでの私の積み重ねだってことも。全部わかっている。誰とでも上手くやれるように、私だってなりたかったさ」
今更そう思ったところで、すべてがあとの祭りだというのに。
「なにもわかっていないじゃないか」
それでもあいつは依然、そう言ったんだ。
「それがわかったなら、今から取り戻していけばいいだけのことだ。誰がいつ、この話を終わらせたと言うんだ? まだ途中じゃないか」
そう言ったあいつは、今までだって見せたことのない表情をしていたんだ。
「そうだな、千鶴。小説を書くなんてどうだ?」
「小説? お前は急に何を言っている?」
「お前がさっき言ったことだ、お前には私しかいないと。なら小説を書いてみてはどうだ? それが面白ければその作品を、延いてはお前を必要とする名前も顔も知らない奴らが出てくるだろ? 私が思うにお前は、面と向かって誰かと話すより思っていることを羅列して伝えるほうが性に合っている気がするんだ。そしてなにより、お前は賢い。それは小説を書く上で役に立つはずだ。と言ってもお前に一から考えさせたら小説ではなく論文が出てきそうだからな、先んじてタイトルだけでも、私が適当に決めてやろう」
「待て、なぜその結論に至る!? 本当に私が小説など書くと思うのかね?」
「タイトルはそうだなー、これでいこう。『電界録上のパゴタニタ』」
「ぱ、パゴタニタ? なんだね、それは? そもそも電界録という言葉さえ聞きなじみがないが?」
「だろうな、今適当に作った言葉だ。意味も不明だ」
「お……お前は何がしたいんだ?」
「いいじゃないか、それで。今はまだわからない。だが、それならばそこから作っていけばいい」
「私は詳しくはないが、小説とはそんな風に始めるものなのかね?」
「なんだっていいんだ、別に。なにせこの話はまだ、途中なのだから」
「……っん」
随分と、懐かしい夢を見ていた気がする。
いつ寝てしまったのか、覚えていない。が、意識がはっきりするにつれ、体に痛みのような感覚が芽生え始めた。
「……何が」
どこにいたのかは覚えている。賃貸マンションの一室。そこから出ることなどないのだから。
いやに重い体を起こしてみて、思考が数秒止まってしまった。
「なっ!」
そこにいつもあるはずのマンションの壁。それが一面吹き飛んで、赤黒い空が広がっていた。
同時にだ。右足に貼りついている生温かい感触に視線を奪われた。
若干の粘性を含んだその液体は、紅い。瓦礫が散乱するフローリングに、薄く広がっているそれが何かを知覚した途端、今更思い出したかのように激しい痛みが湧いてきた。
「あ、足がっ!」
熱い。傷口を直接焼かれているかのような強烈な熱だ。
いやがおうにも訴えかけてくる。
その痛みも熱も、異常なまでの動悸も鮮烈に感じ取れてしまう。
思い出される。鮮明に。それまでのことが。
「……アーティストめ」
会場のカメラから悲劇を見ていたんだ。
赤黒い稲妻と奇怪な生物、響き渡る悲鳴やクラクション。
その瞬間に窓の外が瞬いたところまで。
あの赤黒い稲妻がマンションに直撃したといったところか。
EAT観戦を快適にすべく、会場から近い場所にマンションを借りたのが、仇となってしまったのか。
「止血、しなければ」
あの騒ぎも、アーティストによるものとみるべきだろう。
ひとまず、脱いだ服で傷口を塞いだ。
これで少しの時間は稼げるだろうが、痛みはひどく立ち上がるのも困難。
「っ! パソコン!」
壁が吹き飛ぶくらいだ。無事なわけがなかった。
瓦礫でモニターが割れ、パソコン本体はどこにあるのかもわからない。
助けを呼べる手段が絶たれた。
思えばどこもかしこも似たような状況。そもそも助けを呼んだところで手が回るかどうかさえ怪しい。
「……どうやら、ここまでのようだ」
そう思っていた矢先だった。
ゴロゴロと瓦礫が転がる音がした。
近い。部屋の中からだ。
遅れて鼻に届いた得も言えぬ異臭。精肉を腐らせたかのような匂いだ。
間取りでいえばリビングの方から。
それは二足で歩行し、全身が黒い毛並みで覆われていた。猫背でのしのしと動くそれの背丈は小さく、私とさほど変わらなかった。
首をゆっくりとひねって目が合うと、耳をつんざくような高い声を上げる。
「この状態で抵抗するとでも思っているのかね?」
語りかけたところで話が通じる相手でもない。なにせもはや座して死を待つのみの私に、全力で威嚇するくらいの知能指数だ。
その上鳴き終えるとすぐさま直進してくる。実に獣らしい。
とは言え私も、生涯最後の言葉がそんなくだらないことになってしまうなら、一体何のために今日まで生を謳歌してきたというのだろうな。
「君は魔物なのだろう? できるならそれらしい魔の部分も見てみたかったのだがね」
未だ膝を床につけたまま見上げることしかできない私に、振りかざされる右手。
鋭い爪が見受けられるものの、それでは魔物というより獣そのものだ。
まぁ、そこまでするほどの相手ではないというのなら、甘んじて受け入れるほかないが。
「痛いのは好きではない、やるなら一思いにしてくれ」
瞳を閉じて俯いた。
どうせ助かる道もない。
首くらい、差し出そうではないか。
「賛成だね──でも」
最近やたらと耳にする、忌々しい、そう。実に忌々しい声が聞こえたんだ。
「いくら何でも潔すぎるんじゃない? 千鶴ちゃん」
首が胴体から切り離されたのは、私ではなく魔物の方だった。
助けられたとはいえ、そいつは今見たい顔ではない。
魔物の胴体に視線を移すと、すぐにチリとなって消えてしまった。
「大黒八千代……どういう風の吹き回しだ?」
「どういうも何も、私と莉子は最初から敵対する気なんてないよ」
「……この程度のことで、私が協力的になるとでも思っているのか? 方腹が痛いな」
この件の主犯はアーティスト。なら先ほどの電話で私の居場所を特定することさえも可能なはず。救いに見えるこの状況を作り上げることさえ、不可能ではない。
「別にそんなつもりないよ、咲からお願いされてるし、知ってて知らないフリするのも嫌だっただけ。ていうか話は後、傷見せて」
歩み寄ってしゃがみ込む。
傷口に視線を向ける様は、あまりにも無警戒。
唇が吊り上がる。
暗器など不要。
少し手を伸ばせば手に入る。
無数に散在する瓦礫の一つを拾い上げた。
「この布、取っちゃうね?」
私が何を考えているのかさえ、まったく感じ取っていない。
「咲、見えてる? 傷口、こんな感じなんだけど」
視線がこちらを向くことさえない。
私にその気があれば、今すぐにでも頭部を叩き割るくらいできるというのに。
「他人を介して魔法的力を行使する時は、その人以外とのリンクは切らないといけないの。咲とのリンクは一旦切るね」
咲だのリンクだの、こんな時でもその設定は欠かさないのだな。
「……」
馬鹿バカしくなって、瓦礫が手から滑り落ちる。
ここで彼女を手にかけたとて、私の推測が正しければどのみち何も変わらない。
「どう? 痛む?」
翳された手が橙色に発光してじんわり体に熱がしみ込んだ。
痛みはないが、少しばかり痒みを感じる。首だけ横に振った。
みるみるうちに血が止まって、傷口もふさがった。
あれだけ血を流したというのに精神的な疲労もまとめてなくなって、魔法という力のご都合主義に心底溜息が出るばかりだ。
「これで終わりみたいだけど、立てそう?」
立ち上がって差し伸べられた手を、掴むことなく立ち上がった。
「こんなことをしたところで、私に手を貸す気はないというのに」
「わかってるって。この際それはもういいよ」
やけに聞き分けがいい。
その不自然さに、私は不信感を抱いた。
「──でもね、」
だが、運動音痴の私にそれを防げるはずもなかった。
「どうしてもこれだけは譲れない!」
唐突に手首を力強く握られて、真っすぐな瞳で見つめられる。
痛みさえ感じるほどに、強く。
「なっ!」
瞬間、眩いくらいに周囲が明るくなって、目が眩んだ。
それもそのはずだ、順応した視界に移ったのは晴天の草原。夜から昼に逆戻りした感覚だ。
青々しい緑が広がって、照り付ける太陽は温かく、吹き抜ける風が心地良い、まるで異なる世界の様な場所だった。




