第二十九話 コーヒーの味
暗い部屋の中で俺はベットに横になって喜多村との出来事を思い出す。
彼女の唇の感覚。彼女の太ももの感覚。シナモン香料の匂い。そしてなにより、彼女のあの表情―笑っていたのに悲しそうで泣きたがる表情だった。
それで、その思い出と罪悪感も覚えた。キスしたのは喜多村だったとしても過去を変えられなくて、美月ではない女子とキスをしたことも取り消せない。
俺はスマートションをアンロックして美月にメッセジーを送るためにラインを開く。
『明日開いてるのか?』
四分くらい後で答えが来た。
『開いてるわ』
『家に来れる?』
『行けるわ。何時?』
『午後五時にいいよ』
『どうして急に?』
『言わなきゃならないことがあるぞ』
『……分かったわ。お休みなさい』
『おやすみ』
最後のメッセジーを送信するとスマートフォンの画面をオフにして眠りに落ちていった。
***
昼ごはんの後でお母さんと美奈子はショッピングするために出かけて、そのせいで、俺は一人で家にいる。そのために、変な思いが浮かんできた。その上、彼氏は彼の家に誘って、そしてその日には二人だけは家にいるというのは、よく考えると、美月にとって誤魔化しやすいシチュエーションだ。
午後三時五十分にドアベルが鳴ったのでドアを開くと美月はそこにいた。彼女は水色のワンピースを着、長い黒髪はツインテイルにした。
美月は俺の部屋に入ると二人は同時にローテーブルの前に座った。彼女は俺の部屋に入ったことがあったが俺の彼女として今回は初めてだ。緊張を感じるのは当たり前なことだ。その緊張のせいで飲み物を持ってくるのをさえ忘れた。
「ああ、そうだ。飲み物は?」
「コーヒーでいいわ」
俺は台所に行ってきて、コーヒーの一杯をローテーブルに置く。美月はありがとうとコーヒーのカップを取り、一口で全部飲み干した。
「で、言わなければならないことは?」
ため息をつくと咳払いをして俺は口を開く。
「実はな……」
俺は昨日の出来事について語り始めた。
語りながら美月の表情を窺って、キスのところを語ると彼女の失望と怒りまじりの顔をよく見取れた。話しを語りきって部屋に沈黙がしか聞こえない。目を伏せる美月は一分くらいあとで、やがて沈黙を破る。
「あら、そう……」
美月はその言葉を発するが早いか立ち上がって、ローテーブルの反対側、すなわち俺のもとに二歩を踏むと膝をつく。十秒の間で美月が何も言わずにただ目を伏せた。そして、目を上げると彼女の右腕を動いた。
ぴちゃん。
その音が部屋に響いた。
俺の左頬に激しい痛みを感じる。痛い。
美月はため息をつくと話す。
「これはわたしではない女子とキスをしたからよ。喜多村さんは雄一くんをキスしたとしても雄一くんは避けなかったので責任があるわ。わたしと付き合っているから他の女の子とキスをするのは言うまでもなく駄目でしょう」
「はい」
俺は答えて頷いた。
美月は正しい。喜多村は俺を口づけしたであろうとも俺は避けることもなかったから俺は悪かった。
だがしかし、美月は些細な笑顔を浮かべると彼女は距離ゼロまで俺の顔に近づいた。
チュー。
彼女と俺の唇が重なった。やわらかい。そして、コーヒーの味がする。
美月が離れると言葉を口にする。
「これはわたしのファストキスだわ。これからわたしではない女の子とキスしないでちょうだい」
「約束できない」
「……うん? 面白くない冗談ね」
そう言いつつ美月はそんな冗談しないでくれると言わんばかり顔で微笑む。
怖い。俺の彼女はヤンデレ系気がする。
「しないよ。美月だけと約束する」
にこりと笑うと美月がこっくりと頷いた。
突然、彼女の頬が赤くなっていって言葉を継ぐ。
「その……どうだったの? わたしのキス」
震え声でその問いを投げてくると俺はすぐに答えを出す。
「よかったぞ。コーヒーの味だった」
「コーヒーを飲んだから仕方ないでしょう」
そう言いながら恥ずかしさのせいで顔を俯かせて俺の胸元を叩いた。ちよっと痛たかったけれど美月の可愛らしい赤くなった顔を見るためには堪えられるものだ。
「まあ、俺はコーヒーが好きだな。美月のことが大好きだから凄かったぞ」
「…………」
頬が赤くなったままで難しい顔をして言葉に詰まった。
「馬鹿」
美月がそう言うと俺たち目を合わせて笑い出す。
その「馬鹿」と美月のトーンは随分とツンデレのセリフだった。つまり、俺の彼女はツンデレっぽいセリフを言うかたわら、ヤンデレっぽい表情を浮かべることもある。それなりに魅力的なところなのだ。
「そういえば、喜多村さんの噂話は本当だそうだわ」
「だよな」
喜多村とのキスのシーンを思い出す。
二匹の猫。彼女と俺がしかいない家。シナモンの匂い。オレンジジュースの味。そして最後にその悲しそうな表情。
「でもさ」
アヤの白い髪と茶色くてぼろぼろなワンピースというあそこの世界の記憶も浮かんでくる。喜多村綾乃とアヤのイメージが混ざって一人の人物になる。よく思い出すとふたりは同じ悲しそうで泣きたがる顔をした。
「一番厄介なのは喜多村がした表情だぞ」
「そうなの? どんな表情だったの?」
「絶望的な表情だった」
その喜多村の表情を想像するようで真剣な顔をし、なにも言い返さない。
「そうね。どうやって喜多村さんの力になれるのかしら」
昨日の昼ごはんの話を続けるように美月がそう言った。
彼女を助けるためにどうすればいいのかと。
喜多村の昨日の表情と彼女の手首の傷。それの裏でもっと深い問題があるだろう。自尊心が低いとかなど。
それに関して、一番目浮かぶ思いなのは喜多村を心理カウンセラーに連れることだ。誰だって、一年間で一回でも心理カウンセラーに行くのは望ましいものだ。けれど、喜多村がそれを認めるのは難しいかもしれない。
しかし、答えを見つける前に玄関口からドアが開かれる音が聞こえた。つまり、お母さんと美奈子はショッピングモールから帰ってきたということだ。階段から聞こえるバタバタによる誰かが上がってくるのが分かって、すぐに俺の部屋のドアが開かれた。
「お兄ちゃん晩ご飯を……長谷川さん、こんばんわ」
「こんばんわ」
美奈子は美月を挨拶すると悪戯っぽい笑った。
「邪魔しないからごゆっくり……あ、そうだ。お兄ちゃん晩ご飯を食べにきてってお母ちゃんが言ってた」
「おう、分かった」
笑っているままで美奈子はドアを閉めて階段を下がる。
何時なのかチェックするように俺はスマートフォンの画面を見るともう午後七時だと認知した。美月も彼女のスマートフォンに時間を確かめると声を上げる。
「遅いね。帰るほうがいいわ」
「いや、俺たちと晩ご飯とを食べてくれ。俺は後で送るし」
「分かったわ」
お母さんと美奈子と美月と俺で食べ始めると、お父さんは六分くらいあとで着いて俺たちに加わった。
いいタイミングじゃないかと思うと美月は俺の彼女だと告げて、けれどすぐに後悔した。お母さんとお父さんと美奈子は笑いながら美月と俺は恥ずかしさで赤くなった。




