第2話「もう一度、君の歌を」
翌日の夕方。
久世亮太は、アルバイト先のコンビニでレジに立っていた。
「いらっしゃいませ」
いつものように客を迎え、商品のバーコードを読み取り、会計を済ませる。
何も変わらない日常。
昨日と同じように時間が過ぎ、今日もまた一日が終わっていく。
それなのに、亮太の頭の片隅には、昨夜の出来事が妙に残っていた。
月明かりの下でギターを弾いていた少女。
そして、あの歌声。
透き通るような声なのに、どこか寂しさを感じさせる不思議な歌だった。
「ありがとうございました」
客を見送った亮太は、レジの横にある時計をちらりと見た。
夜の八時を少し過ぎたところだった。
「……もうこんな時間か」
小さく呟き、再びレジに目を向ける。
別に、あの少女のことを考えていたわけではない。
ただ、ふと思い出しただけだ。
そう自分に言い聞かせるように、亮太は小さく息を吐いた。
*
同じ頃、病院の一室。
窓際のベッドに腰掛けた雪乃は、膝の上に置いたノートを開いていた。
そこには、いくつもの歌詞や音符が書き込まれている。
ところどころ消しゴムで消した跡があり、書き直した言葉も少なくない。
「うーん……」
雪乃はシャープペンシルを持ったまま、首を傾げた。
「なんか違うんだよなぁ……」
ノートの端を指でなぞりながら、しばらく考え込む。
やがて、窓の外に目を向けた。
病院の敷地に隣接した小さな公園。
木々の葉は少しずつ色づき始め、夕暮れの風に揺れていた。
昨夜、あの青年と出会った場所。
「……また来てくれるかな」
雪乃は小さく呟いた。
もっとも、あのときの彼は、あまり愛想が良いとは言えなかった。
それでも、最後に自分の歌を褒めてくれた。
自分が作った歌を、誰かに良いと言ってもらえたことが嬉しかった。
雪乃はノートを閉じると、ベッドの横に置いてあるギターケースに目を向けた。
「……もう少し、頑張らなくちゃ」
そう言って、彼女は微笑んだ。
*
午後九時を過ぎた頃。
亮太はコンビニの制服を脱ぎ、帰り支度をしていた。
「久世くん、お疲れさま」
店長が声をかける。
「お疲れさまです」
「今日はもう上がっていいよ」
「はい。お先に失礼します」
店を出ると、夜風が頬を撫でた。
亮太は上着のポケットに手を入れ、駅とは反対方向へ歩き出す。
自宅へ帰る道はいくつかある。
普段なら、わざわざ遠回りなどしない。
けれど、その夜はなぜか、昨日の公園の近くを通ってみようと思った。
別に理由などない。
ただ、少しだけ気になった。
公園に近づくにつれ、周囲は静かになっていく。
街灯の明かりが歩道を照らし、木々の葉が風に揺れていた。
亮太は何気なく公園の中へ目を向ける。
ベンチのそばには、誰もいなかった。
「……なんだ」
自分でも何を期待していたのか分からず、亮太は苦笑した。
そのまま通り過ぎようとしたときだった。
「こんばんは」
不意に声がした。
振り返ると、公園の入口近くに少女が立っていた。
肩にはギターケースを背負っている。
「あ……」
亮太は思わず足を止めた。
昨日の少女だった。
「昨日のお兄さんだ!」
雪乃は嬉しそうに笑った。
「……こんばんは」
「本当に来てくれたんだね」
「いや、別に。たまたま通りかかっただけだよ」
「ふーん。たまたま、ね」
雪乃は少しだけ意地悪そうに笑う。
「まあ、そういうことにしておこうかな」
「……好きにしてくれ」
亮太は小さく肩をすくめた。
雪乃はそんな彼を見て、くすっと笑った。
「ねえ、今日は時間ある?」
「どうして?」
「また歌を聴いてほしいなと思って」
「昨日も聴いただろ」
「昨日は昨日。今日は今日」
雪乃は当たり前のように言った。
「それに、今日は違う曲も聴かせてあげる」
「違う曲?」
「うん。私が作った歌」
そう言って、雪乃はギターケースを下ろした。
亮太は少し迷ったあと、ベンチに腰を下ろした。
「……少しだけなら」
「やった」
雪乃は嬉しそうに笑い、ギターを取り出した。
*
雪乃はベンチに座り、ギターを膝の上に置いた。
弦を軽く鳴らし、音を確かめる。
「今日はね、昨日とは違う歌を歌うよ」
「昨日の歌とは違うのか?」
「うん。こっちは少し前に作った歌なんだけど……まだ完成してないんだ」
「完成してない?」
「そう。歌詞が途中までしかできてないの」
「自分で作ったんだろ?」
「そうだよ。作詞も作曲も私」
雪乃は少し誇らしげに胸を張った。
「すごいだろう?」
「……まあ、すごいんじゃないか」
「なんか反応が薄いなぁ」
「そう言われてもな」
雪乃は笑いながら、ギターを構え直した。
「じゃあ、聴いてね」
静かな夜に、ギターの音が響き始める。
昨日の歌よりも少し明るい旋律だった。
けれど、どこか懐かしく、優しい。
雪乃は目を閉じ、ゆっくりと歌い始めた。
その歌には、まだ完成していない部分があった。
歌詞が途切れると、雪乃は少し困ったように笑い、再びギターを弾き始める。
亮太は黙って聴いていた。
やがて演奏が終わる。
「どうだった?」
「……いい歌だと思う」
「本当?」
「ああ」
「どの辺が?」
「どの辺って……」
亮太は少し考え込んだ。
「なんていうか、聴いてると落ち着く。昨日の歌とは違うけど、こっちも好きだな」
雪乃は目を丸くした。
「……そっか」
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
「別に。思ったことを言っただけだよ」
「それでも嬉しいよ」
雪乃はギターを抱えたまま、夜空を見上げた。
「私ね、いつか自分の歌を、もっとたくさんの人に聴いてもらいたいんだ」
「たくさんの人に?」
「うん。小さなライブハウスでもいいし、いつか大きなステージで歌えたら素敵だなって」
雪乃の瞳は、夜空の向こうにある何かを見つめているようだった。
「自分の歌で、誰かの心を動かせたらいいなって思うんだ」
「……歌手になりたいってことか?」
「そうだね。まあ、まだ夢みたいな話だけど」
雪乃は少し照れくさそうに笑った。
「でも、夢を見るくらいは自由でしょ?」
「……そうだな」
亮太は短く答えた。
夢。
その言葉を聞くと、なぜか胸の奥が少しだけざわついた。
かつて自分にも、何か夢中になれるものがあったような気がする。
けれど、今ではそれが何だったのかさえ、はっきりと思い出せない。
「ねえ」
雪乃の声に、亮太は我に返った。
「お兄さんは?」
「何が?」
「夢とか、やりたいこと」
「……別にないよ」
「本当に?」
「ああ」
「そっか」
雪乃はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、ギターの弦を指で軽く弾いた。
「じゃあ、これから見つければいいんじゃない?」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないから言ってるんだよ」
雪乃は亮太を見て笑った。
「だって、これから先のことなんて、誰にも分からないんだから」
その言葉に、亮太は返事をしなかった。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
*
しばらくして、雪乃はギターをケースにしまい始めた。
「もう帰るのか?」
「うん。そろそろ戻らないと」
「戻る?」
「あっ……」
雪乃は一瞬、言葉に詰まった。
「えっと……家にね」
「こんな時間まで外にいて大丈夫なのか?」
「大丈夫、大丈夫」
雪乃は慌てて笑った。
「心配してくれるんだ?」
「別に、そういうわけじゃない」
「ふふっ。ありがとう」
雪乃は立ち上がり、ギターケースを背負った。
そのとき、彼女の表情がほんの一瞬だけ曇った。
小さく息を吸い込み、胸元に手を添える。
「……大丈夫か?」
亮太が尋ねる。
「うん。ちょっと冷えちゃっただけ」
「そうか」
「じゃあ、またね」
雪乃は笑顔で手を振った。
「うん。またな」
亮太も軽く手を上げた。
雪乃は公園の出口へと歩いていく。
その背中を見送りながら、亮太はふと思った。
また、あの歌を聴きたい。
昨日の歌も、今日の歌も。
そして、彼女がこれから作る歌も。
そんなことを考えている自分に、少しだけ驚いていた。
*
公園を出た雪乃は、病院へ続く道を歩いていた。
街灯の下で立ち止まり、ギターケースを背負い直す。
少し疲れたのか、呼吸が乱れていた。
「……はぁ」
雪乃は小さく息を吐き、夜空を見上げた。
そして、再び歩き始める。
病院の裏口にたどり着くと、周囲を確かめてから、そっと中へ入った。
廊下は静まり返っている。
足音を立てないように病室へ戻り、ベッドの横にギターケースを置いた。
「雪乃さん?」
そのとき、背後から声がした。
振り返ると、看護師が立っていた。
「あ……」
「また外に出ていたの?」
看護師は困ったような表情を浮かべた。
「ごめんなさい……」
「もう。心配するんだから」
「でも、少しだけだったよ」
「少しだけでも、無理は駄目。約束したでしょう?」
「……うん」
雪乃は小さく頷いた。
看護師は彼女の顔色を確かめると、静かにベッドへ戻るよう促した。
「今日はもう休みましょうね」
「はい」
雪乃はベッドに腰掛け、窓の外に目を向けた。
公園のベンチは、もう見えない。
けれど、そこには確かに、今日も楽しい時間があった。
「……また、会えるといいな」
雪乃は小さく呟いた。
その手には、亮太に聴かせた歌の歌詞が書かれたノートが握られていた。
まだ完成していない歌。
いつか、誰かに届けたい歌。
そして、今日出会った青年に、もう一度聴いてほしい歌。
雪乃はノートを枕元に置くと、静かに目を閉じた。
*
その夜。
亮太は自宅の部屋で、ベッドに横になっていた。
天井を見つめながら、今日の出来事を思い返す。
少女の笑顔。
ギターの音色。
そして、夢について語っていたときの、あの真剣な表情。
「……変な奴」
亮太は小さく呟いた。
けれど、その声には、ほんの少しだけ笑みが混じっていた。
いつもなら、何も考えずに眠りにつく時間。
なのに今夜は、なかなか眠れそうになかった。
亮太は寝返りを打ち、窓の外に目を向ける。
秋の夜空には、月が静かに浮かんでいた。
そして、彼の頭の中では、雪乃の歌声がいつまでも響いていた。




