第1話 月夜に響く歌声
午前五時を少し過ぎた頃。
病院の一室には、まだ夜の名残を感じさせる静けさが漂っていた。
窓の外では、東の空がほんのりと白み始めている。
その病室のベッドに、一人の少女が横になっていた。
けれど、少女は眠っていなかった。
薄く開いたカーテンの隙間から、ぼんやりと外の景色を眺めている。
病室の窓からは、病院のすぐ近くにある小さな公園が見えた。
木々に囲まれた静かな公園。
昼間には近所の人たちが訪れることもあるが、こんな時間には誰もいない。
少女は、何となくその公園を眺めていた。
そのときだった。
「あ……」
公園の遊歩道を、一人の青年が歩いているのが目に入った。
少し猫背気味で、どこか疲れたような足取り。
俯き加減で歩くその姿からは、元気のなさが伝わってくる。
青年は、しばらく公園の中を歩いていたが、やがてベンチの近くで立ち止まり、
ゆっくりと空を見上げた。
何かを考えているのだろうか。
それとも、ただ疲れているだけなのだろうか。
少女には分からなかった。
けれど、なぜかその青年の姿が気になった。
「……なんだか、寂しそう」
少女は小さく呟いた。
もちろん、青年にその声が届くはずもない。
やがて青年は再び歩き始め、公園の出口へと向かっていった。
少女は、その後ろ姿が見えなくなるまで、窓の外を眺めていた。
「……ふぁ」
小さく欠伸をする。
少し眠くなってきた。
少女はカーテンをそっと閉めると、枕に頭を戻した。
「今日は……いいことあるかな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
病室には、再び静かな時間が流れ始めた。
*
その日の夜。
久世亮太は、アルバイトを終えた帰り道、街外れにある小高い丘の上の公園を歩いていた。
夜も遅く、公園には人影ひとつない。
街灯の淡い光が、遊歩道の脇に並ぶ木々を照らしている。
頭上には、秋の澄んだ夜空が広がり、その中に浮かぶ月が静かに地上を見下ろしていた。
亮太は疲れ切った体を引きずるように歩いていた。
「……はぁ」
思わず、深いため息が漏れる。
今日も一日が終わった。
朝起きて、アルバイトに出かけ、仕事をして、帰宅する。
そんな毎日を繰り返している。
特別な楽しみがあるわけでもなければ、将来に何か大きな夢を抱いているわけでもない。
ただ、目の前にある日々を何となく過ごしているだけだった。
以前は、何かを変えたいと思ったこともあった。
けれど、いつの頃からか、そうした気持ちも薄れてしまった。
「……明日も、バイトか」
誰に聞かせるわけでもなく、亮太は小さく呟いた。
そして、再び歩き始めようとした、そのときだった。
――♪
どこからともなく、かすかな音が聞こえてきた。
亮太は足を止める。
――♪
それは、ギターの音だった。
静かな夜の空気に溶け込むような、柔らかなアコースティックギターの音色。
そして、その音に重なるように、一人の歌声が聞こえてきた。
透き通るような、どこか寂しげな歌声だった。
「……歌?」
亮太は、声のする方へ目を向けた。
公園の奥。
木々の間に置かれたベンチの辺りから聞こえてくる。
こんな時間に、誰かいるのだろうか。
少し気になった亮太は、音を立てないように、ゆっくりとそちらへ歩いていった。
木々の隙間から、淡い街灯の光に照らされた人影が見える。
一人の少女だった。
ベンチに腰掛け、アコースティックギターを抱えている。
少女は目を閉じ、ギターを奏でながら歌っていた。
その横顔は、月明かりに照らされ、どこか幻想的に見えた。
亮太は、思わずその場に立ち止まった。
少女の歌声が、夜の公園に静かに響いている。
その歌は、決して明るいものではなかった。
どこか切なく、寂しさを感じさせる旋律。
それでも、不思議と耳を離すことができない。
まるで、誰かに届いてほしいと願うように、少女は一つひとつの言葉を大切に歌っていた。
やがて、最後のギターの音が夜の中へ消えていく。
少女はそっと目を開けた。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、ギターを膝の上に置く。
そのときだった。
「……あ」
少女が、こちらを向いた。
亮太と目が合う。
「あの……」
亮太は少し気まずそうに視線を逸らした。
「ご、ごめん。勝手に聴いちゃって」
少女は一瞬驚いたような顔をしたあと、柔らかく微笑んだ。
「ううん。別にいいよ」
「こんな時間に、歌ってたんだな」
「うん。ここ、静かだから」
少女はそう言って、ギターの弦を軽く指で弾いた。
ポロン、と小さな音が鳴る。
「それ、自分で作った曲?」
亮太が尋ねると、少女は少しだけ目を丸くした。
「どうして分かったの?」
「いや……何となく。聴いたことのない曲だったから」
「そっか」
少女は嬉しそうに笑った。
「うん。私が作った曲だよ」
「へえ……すごいな」
「そんなことないよ。まだまだだもん」
少女は照れくさそうに視線を落とした。
亮太は、先ほどの歌声を思い出していた。
「でも、いい曲だったと思う」
「……本当?」
「ああ」
少女は少し黙ったあと、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
その笑顔は、先ほど歌っていたときの寂しげな表情とは違っていた。
年相応の、どこにでもいる普通の女の子の笑顔だった。
「ねえ」
少女が亮太に声をかける。
「あなた、よくここを通るの?」
「え?」
「この公園。初めて見た顔だから」
「ああ。まあ、たまにかな。バイトの帰りに通ることがあるんだ」
「バイト?」
「うん。駅の近くの店で働いてる」
「そっか。お疲れさま」
「あ、ありがとう」
何気ない会話だった。
けれど、亮太は少し不思議な気持ちになっていた。
初めて会った相手なのに、なぜか話しやすい。
少女の声や仕草には、人を緊張させない柔らかさがあった。
「ねえ、もう一曲聴いていく?」
「え?」
「せっかくだし。まだ少し歌いたい気分だから」
少女は、ギターを抱え直した。
亮太は少し迷った。
明日も朝からアルバイトがある。
早く帰って休んだ方がいいに決まっている。
それでも――。
「……じゃあ、もう一曲だけ」
そう答えていた。
「ふふっ。分かった」
少女は嬉しそうに笑うと、再びギターを奏で始めた。
先ほどとは違う、ゆったりとした旋律。
月明かりの下、少女の歌声が静かに響く。
亮太はベンチから少し離れた場所に立ち、その歌を聴いていた。
歌詞の意味は、よく分からなかった。
けれど、その歌声を聴いていると、胸の奥に何かが触れるような気がした。
忘れていた何かを、思い出しそうになるような。
そんな不思議な感覚だった。
やがて、少女は歌い終えた。
「どうだった?」
「ああ……よかったよ」
「ふふっ。ありがとう」
少女はギターを抱えたまま、少しだけ空を見上げた。
「もう、こんな時間か」
公園の時計を見ると、夜もかなり更けていた。
「そろそろ帰らないと」
「そうだな。俺も帰るよ」
亮太はそう言って、少女に背を向けた。
そのとき、
「あ、待って」
少女の声に、亮太は振り返った。
「また、ここに来る?」
「え?」
「もしよかったら、また歌を聴きに来てほしいな」
少女は、少し照れくさそうに笑った。
亮太は、すぐには答えられなかった。
またここに来る理由など、今までなかった。
けれど、今は少しだけ違う。
「……気が向いたらな」
「うん。待ってるね」
少女はそう言って、柔らかく微笑んだ。
亮太は軽く手を振り、公園を後にした。
帰り道、ふと夜空を見上げる。
月は、相変わらず静かに輝いていた。
いつもと同じ帰り道。
いつもと同じ夜。
それなのに、なぜか今日は、少しだけ違って感じられた。
胸の奥に、先ほど聴いた歌声が残っている。
「……変な子だったな」
亮太は小さく笑った。
そして、再び歩き始めた。
*
その頃、公園では――。
少女が、ベンチに座ったまま、ギターをケースにしまっていた。
ふと、腕時計に目を向ける。
「……あ、もうこんな時間」
少女は慌てて立ち上がった。
少しだけ、息が苦しい。
けれど、少女は気にしないように、小さく息を整えた。
そして、ギターケースを肩に掛ける。
「今日は……楽しかったな」
先ほどまで話していた青年の顔を思い浮かべ、少女は微笑んだ。
自分の作った歌を、初めて聴いてくれた人。
そして、いい曲だと言ってくれた人。
「また、来てくれるといいな……」
少女は夜空を見上げた。
月明かりが、彼女の頬を淡く照らしている。
その表情には、ほんの少しの寂しさと、確かな喜びが浮かんでいた。
やがて少女は、ギターケースを抱え直し、静かな公園を後にした。
その先にある病院へと戻るために。
誰にも気づかれないように、そっと――。
*
秋の夜は、静かに更けていく。
この夜、偶然出会った二人が、やがて互いの人生を大きく変えていくことを、まだ誰も知らなかった。




