3.蝶
空に日が昇り始めた頃、蓮睡は燁家の表門へと向かっていた。
(やはりあの霞藍が死んだなんて信じられない。きっと何かの間違えだ)
蓮睡は自分で確かめなければ気が済まない性分だった。何より霞藍が亡くなった事を信じたくはなかった。
だからこの目で確かめに行くことを決めたのだ。
燁家の者が目覚めるよりも早く家を出ようと、閉じた表門を開けようとして手を伸ばした時だった。背後から一羽の蝶がひらひらと飛んできて、蓮睡の人さし指に止まった。
色は鮮やかで、黒い縞模様が美しく描かれた羽を持つ蝶だ。はたはたと羽を動かせばきらきらとした鱗粉を落とした。
皮膚にそれが触れた瞬間、ぞくぞくと肌が粟立って、体がぴくりとも動かなくなった。
(しまった!油断した!)
反応が遅れた蓮睡は、辛うじて動いた眉を潜めた。
その蝶には覚えがあった。うっとりとさせる羽の美しさと、たちの悪い金縛りの術は幼少期から幾度となく身に受けて、恐怖として記憶に刻み込まれている。
「こんな朝か早くから散歩か、蓮睡?」
聞こえてきた声は、凛としている中にどこか艶のようなものも感じさせる。
体が動かなくて振り返れない蓮睡だが、振り返るまでもない。
「……千華姉上、この悪趣味な術を解いてください」
「ん?」
顔は見えないが、きっと恍けた顔で「何か言ったか?」と首を傾げているのだと察して小さくため息を吐いた。
「……姉上、どうかお願いですから、霊粉術を解いてください」
「仕方がない」
千華が小さく息をつくと指に止まっていた蝶はゆっくりと飛び上がり、ひらひらと羽ばたきながら消えていった。
あの蝶は千華が作り出した霊力の塊だった。鱗粉は粉状に零れた霊子──霊粉と呼んでいる。
少しでも触れれば体が麻痺して動くことが出来なくなる、この霊粉術は燁家の秘術だった。
この術に対抗するには、術者を圧倒するような強い力を持たなければならないが、蓮睡は霊力も霊術士としての能力も、どれも千華より未熟だった。
体が自由になるとそのまま振り返る。後ろにはやはり蓮睡の姉であり、今では燁家当主となった千華が立っていた。
着替えも化粧も既に整えている姿に、蓮睡が早朝に出ていくことを見越していたようだ。
(やはり千華姉上の目を欺いて去るのは無理だったか……)
渋い表情をする弟の気持ちまで悟ったのか、千華は赤い口紅を塗った口元を小さく緩ませてほくそ笑んだ。
「汪洋から聞いている。お前が霙霞藍の死を知ったと」
「……あいつ余計な事を」
「余計ではない。必要な事だ」
ゆっくりと、しかし堂々とした歩調で千華はこちらに向かってくる。
昔は姉の方が背丈が高かった。今では並ぶとそう変わらないが、それでも未だに姉の存在を大きく感じて、じっと見据えてくる目線に耐えられずに目を泳がせた。
「……どこまで読んでおられるのですか?」
「自分で確かめなければ中々納得しない頑固な上に、猪のように突っ走るお前の事だ。旅立つのだろうと読むのは容易い。せめて夜のうちに立っておればこっそりと抜け出せたものの」
蓮睡は悔しさから奥歯を食いしばる。
「しかし本当に仲が良かったのだな。あの霙家の者と」
「べ、別に仲が良くは……」
ない、と言うかけて言葉を濁す。照れくささから頬に熱さを感じた。
「……お前が誰かに対して感情的になる相手は珍しい。どちらかといえば小さい頃は汪洋の方がそうだったが」
昔を懐かしんでいるのか、目頭に手を当ててやれやれと首を振る。
「しかし、何処へ行こうとしているのだ?当てなどないというのに」
「それは……」
「どうせ犬山に行こうとしているのだろうが、それは止めておけ。一年も前の死体なぞ朽ち果てている。行くならば天連山の方が良い」
「天連山?」
「天に連なるように高く伸びた山、が由来だったか。昔からある北部の山だ。霙霞藍はそこで亡くなったという話だ」
「凶悪な霊魔がいるという、あの山ですか?」
千華は静かに頷いた。
「そこにいたのは一体どんな霊魔だったんですか?」
「それは分からぬ。ただおかしな事に、その頃天連山は霊魔が出るという話はなかったのだ」
「霊魔が出る訳ではないのに霞藍はそこにいたんですか?何で……」
霊術士は霊魔討伐の依頼があればその地へと向かう。それが通常の流れだった。
しかし霞藍は霊魔もいない山へと向かった。その事に蓮睡は違和感を抱いた。
「そしてもう一つおかしな事がある。霙霞藍は元々違う土地で霊魔を討伐していたというのだ」
「それはどういう……?」
「そのままの意味だ。確か霏山と言う名だったか、違う山で任務をしている筈の霙霞藍が何故か天連山で朽ち果てて見つかった。どんな襲われ方をしたのか、損傷が激しくて霙霞藍かどうかも見分けはつかなかったようだ。恐らく霊力で判断したのだろう」
千華が語る話を聞きながら蓮睡は強く手に握りしめる。
(……なんで、あいつは天連山にいたんだ……?)
激しい憤りを覚えながらそんな疑問が強く残る。
「天連山にいたのは霊魔だったのかすら分かっておらぬが、霊術士を殺せる程ならば恐らくは霊魔、という結論だ。霙家が頑なにどんな霊魔かを明かさぬ以上、燁家の情報網で得られたのはここまで」
千華はまたまだ未熟な弟の肩にそっと手を乗せた。
「霙霞藍の死には謎が多い。天連山に行けば何か分かる事もあろう。ただ、気をつけよ」
ふっと零した笑みはいつもの自信に満ち溢れたものではなかった。どこか悲しげにも見える眼差しに、弟を心配しているのが分かる。
「ありがとうございます」
蓮睡は姉に向けて深々と礼をすると、静かに燁家を後にした。




