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16話

「どうした、その顔」


 ハリムの左頬が僅かに赤くなっているのを、赤くなっているのをボーラスは見逃さなかった。ハリムは頬を摩りながら苦笑いを浮かべる。


「いえ、友というのは良いものだなと、初めて羨ましく思いましたね」


「ふむ。何があったか少しも分からんな」


「情けない話ですので」


 話す気も聞く気もない会話。ノビスリム邸の前で、ハリムとボーラスは待たされていた。屋敷を管理していた執事が、不在どころか反乱を企てていた事実を押し付けられ、混乱に陥っているのは、想像も容易い。


「こちらの不手際を探っているってところですかね」


「全く無駄なことだな」


 こんな短時間で探られるような仕事はしない。万が一、こちらの不手際が発覚したとして、この一件を揉み消そうとしているのだから、すでにどうでも良いことになっている。


「ハリム、ヴィオラ夫人をどう思う」


「嫌いですね」


「即答だな」


 ボーラスは少し考え、再び言葉を続ける。


「夫人が契約労働者の待遇を、苛烈な状況にしていたのは確かだ。だが、彼らは雇われていなかったら、一体どうなっていたのだろうな」


「……犯罪行為に手を染めるか、野垂れ死ぬかもしれません」


「何が正義で何が悪かなんて、この歳になっても迷うものだ。お前ももっと悩め」


「……分かりました」

 

 それから少しして、面会の許可が降りた。


――――――――


 ボーラスが夫人と面会中、ハリムは扉の前で待機を命じられた。ハリムは内心で安心する。ボーラスはああ言うが、された仕打ちを忘れることは出来ない。会わなくて良いなら会わない方が良い。


 ハリムは昨夜の出来事を振り返る。油断していた訳でもないが、平手を受けるとは思ってはいなかった。人間関係にはそれなり以上の注意を図ってきた。同じ訓練兵には畏怖を抱かせるように、結果と態度で操作をしてきた。


 ニコラスはどうだったか。同性からは疎まれ、妬まれ、避けられていた。下心ある異性は叩き潰し、孤独だったはずだ。可愛げのない皮肉屋、称されているのも聞いたことがあるくらいだ。


 それがこの1月程で、随分と変わったように見える。張り詰め続けていた緊張は、少し緩んでいるかもしれない。けれど、人間らしくなった。随分と感情を見せるようになった。


 それはエリザという友人が出来たことが原因だろう。


 それが羨ましく思えたことを、ハリム自身が驚いている。一人ではないが友と呼べるのはニコラスのみ。ニコラスも同じだったはず。そのニコラスが友一人で、ここまで変わるなら、友というものも、案外と悪いものではないのかもしれない。


 そこまで考え、自身が“らしく”ないことに気が付く。それらを捨ててきたからこそ、今の自分がいる。今の自分がいるからこそ、国の機能に食い込むことが出来た。例え末端だとしても、生半可では叶わなかった。間違ってはいないと確信している。


 それでは何が、あのエリザという女を、認める気が起きたのか。面白いと思ったことも確かだが、本当の理由も分かってはいる。エリザがいるから、ニコラスの意識はハリム以外にもよく回るようになった。詰まるところ、そこに悔しさを感じている。


「なんとも器の小さい男だな、俺は」


 ハリムは苦笑混じりに呟く。それに、そういうことであるなら、ニコラスに抱くこの感情も、“そういうこと”になる。大事だからこそ逃げたくなる感情。いよいよ無視できなくなってきている。


「さて、どうしたものか」


 独り言が自然に口を衝くが、ハリムは気にせずに思考を巡らせていく。その様子を訝しげに使用人が見ていたが、じっとしているだけの姿に興味を失い、そのまま離れていった。


――――――――


「ハリム、夫人からお話があるそうだ」


 ボーラスからそう告げられ、ハリムは諦めたかのように頷く。ハリムはこうなる気はしていた。うんざりしながらも表情を作り、扉に手を掛ける。


「……失礼します」


 部屋に入ると、夫人がいつも通りに微笑みながら座っていた。服装いつも通りに露出が多く、いつか触らせられた、夫人の肌の感触が蘇る気がした。ハリムは意識して視線をずらす。


「ふふふ。なんだか長い間、会えなかったような気がするわね。元気でいらした?」


「ええ、休暇を満喫させていただきました」


「なら良かったわ」


 夫人がカップを口に付ける。夫人に動揺の様子は見られない。この人に取って、取るに足らない件なのだろう。夫人がカップを置くと、立ち上がり、これもいつかと同じようにハリムに近づく。


「あなた、本当に優秀なのね」


「恐縮です。……それで話とは」


「あら、せっかちなのね。もっとゆっくり、二人で楽しみましょう?」


「お戯れでしたら、私はこれで失礼させていただきます」


 夫人の手がハリムの顔に伸びる。それを躱わすようにハリムは立ち上がる。失礼になるとは思いながらも、一礼もせずに背を向ける。


 しかし夫人はハリムを逃さなかった。ハリムの後ろから身体を密着させて、抱き締める。ハリムは無理に振り解こうと反射的に動こうとしたが、理性がそれを止める。さすがにそれは不味い事態になる。


「……ねぇ、ハリムさん。私ね、とても悔しいのです」


 若干の笑みが溢れているのを隠そうともせずに、夫人が話しだす。抱きしめていた手が、ハリムの身体を弄りながら。


「だって、信じていた執事に裏切られて、一方的に悪者にされて、恩を着せられて。その上、貴重な労働力も奪われてしまうわ」


「……正しい形に戻るだけです」


「ふふふ、そうかもしれませんわね」


 そう微笑みながら、さらに身体を密着させる。柔らかな感触がハリムの背中に当たる。夫人の手は焦らすように下腹部付近を動いている。息が漏れそうになるのをハリムは堪える。


「これでハリムさんとも会えなくなってしまったら、私、約束も守れなくなってしまいそうね」


「……脅しですか」


「一度だけ。一度だけ私を抱いてくださいませんか?」


 夫人の腕がハリムのズボンに入り込み、ハリムの身体の反応を手で直接確かめる。ハリムの身体が少しだけ震えるのを見逃さず、夫人がハリムの前に移動し、ハリムの首に腕を絡める。


「たったの一度だけ……それだけで丸く収めましょう」


 夫人はそういうと目を閉じて、ハリムの口に唇を寄せる。


“一度だけで全てが済むなら……”


 それならとハリムも目を瞑る。それでも夫人の口がそこまで近づいてくるのが分かる。その時に、ハリムの頭に、ニコラスの顔が思い浮かび、咄嗟に自分の口に手をあてる。


「あら。まだ焦らす気ですか」


「いえ、私には好いている人がいます」


 その一言をハリムが絞り出す。夫人はじっとハリムを見つめる。が、すぐにため息を吐きながら離れる。


「残念ね。想い人がいる殿方とは思いませんでしたわ」


「申し訳ございません。私も今、自覚しましたので」


「それは本気の愛かしら」


 夫人が微笑みながら、しかし先ほどまでとは違う、余裕のなさが見える微笑みを浮かべながら、ハリムに問う。ハリム答えは決まっている。


「ええ、愛しています」


「……そう。お相手の方は知っていらして?」


「いえ、告げることはないでしょう」


 ハリムがニコラスに抱いている感情に向き合う。これは恋愛の感情なのだろう。この感情を持ちながら夫人を抱くのは、ハリムには出来なかった。結ばれることはないが、自分の心を裏切るつもりもない。


 だが、夫人はそんなハリムに疑問を抱く。


「あら。らしくないですわね」


「……らしくない、でしょうか?」


「ええ、私が慕うハリム様は、望むものは全部手に入れようとすると思っていましたから。私と同類かと」


「それは……」


 言われた通り、ハリムは全てを手に入れたい。だが、今の行動は矛盾している気がする。夫人にそこを突かれ、ハリムは言葉に詰まる。

 

「どうせなら、その方も手に入れたら?」


「簡単ではないのです」


「尚更欲しいじゃない」


 夫人に言い当てられていく。ハリムは夫人を拒絶したいが、夫人はハリムを深く理解している。ハリムもまた、こう言えば、これ以上夫人がハリムを求めることはないと理解していた。


「まぁ良いですわ。無理やり奪う趣味はないの」


「……ありがとうございます。それでは」


「ふふ、応援してるわ」


 いつの間にか戻っている、余裕の佇まいで微笑みながら、夫人がハリムに手を振る。ハリムは振り返らずに扉を閉める。夫人は扉が閉まるその時まで、手を振り続けていた。

 


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