15話
骨董品店から出ると、まずは新鮮な空気が肺に入り込んできた。まだ夜になったばかりではあるが、空気は十分に冷えている。冷気が肺を刺すのを心地良く感じる。
「ご苦労だったな。なかなか酷い現場だ」
ハリムの上司、ボーラスがニコラスに声を掛ける。声に圧はあるが、男性にしては痩せた体型に、丸眼鏡を掛けた姿は、覇気がなく見える。それなのに、体格が大きいダラスを軽々と肩に担いで平然としているのは、どうしても違和感が強くなる。
「ハリム、次はどうする?」
「次は“コレ”をヴィオラ様に突き付けようかと」
大貴族ノビスリム家の屋敷を取り仕切っていた執事が、帝国と組んでいただけではなく、契約労働者に反乱を唆していた。世に出れば大事件の類だろう。
「揉み消されるだろう。そうしたら膿は残ったまま終わるぞ」
「そう、揉み消すんです」
ボーラスの片眉が上がる。
「今回の事件は、契約労働者の環境の悪さが原因です。それを何とかしなければ、結局別のところで火が付くでしょう」
「……分かるが、それがどう繋がる?」
「揉み消すことを条件に、契約労働者の待遇を改善するよう、夫人に進言します」
「……未来の反乱を防ぐ、その実績作りを夫人に手渡すということか」
ふむ、とボーラスは少し考えを巡らせる。
「分かった。夫人との交渉は俺で良いな?」
「助かります。ただの訓練兵の出る幕ではないですから」
くっくっくと喉を鳴らして笑うハリムをニコラスは見ていた。ボーラスという人物をハリムが心から信頼している証拠だと、ニコラスには思えた。
思った瞬間、ニコラスは急に力が抜け、その場で倒れるように座る。
「……ニコ!」
ハリムがニコラスに声を掛ける。しかし、ニコラスは返事が出来ないでいる。呼吸が荒く、汗も尋常ではない量が出ている。
「少し吸いすぎたか」
臭いが部屋中に漂っていれば、手拭いでは防ぎきれなかったようだ。
「きつい部類の薬物ですか?」
「いや、恐らく興奮させる成分でも入っているな。酒に酔ったようなもんだ。じきに治まるとは思うが……」
ボーラスがハリムを見る。ハリムが焦っている姿は珍しい。苛立ったり、怒りに駆られる姿は何度も見てきた。しかし、こうやって他者を心配する姿は、商会では見せていない。ボーラスは口元が緩みそうになるのを堪える。
「これを嗅げ」
ボーラスがニコラスに何かを嗅がせる。少し嗅いだ後に、ニコラスがふらっとその場で倒れそうになるのを、ハリムが寸前で止める。荒かった息が静まり、規則正しい寝息に変わっていた。
「……眠り香ですか」
「こいつに嗅がせたのと一緒だ。朝には目覚める……とびっきりの頭痛はするだろうな」
それを聞き、ハリムがニコラスを丁寧に抱き抱える。
「さて……どうするかな」
「天才も女の扱いは苦手か」
「……揶揄わないでください」
「揶揄うものか。安心したぐらいだ」
どうにも据わりが悪く、ハリムは顔を顰める。女性のあしらい方も惚れさせ方も知っている。経験もない訳ではない。だが、ニコラスには調子が狂う自覚がある。踏み込みすぎてはいるが、踏み込まずにはいられない。
だが、不快ではない。
「どうしたものかな……」
ハリムが小言で呟く。これからのことか、ニコラスとのことか。どちらを指して口を衝いたのか、ハリム自身にも分からなかった。
――――――――
ニコラスが目を覚ましたのは、明け方だった。
「……私の部屋、か」
身体を起こし、見慣れた風景を見渡す。自然と溜息を吐く。頭は靄が掛かるようにはっきりせず、全身が気怠い。起こした身体を再びベッドに倒し込む。
ぼやけた頭に浮かぶのは恥ずかしさ。盾に剣になると言ったのに、無様にも最後まで立っていられなかった。大口を開いてのこの結果を、ニコラスは恥じる。
「……くっ」
涙が流れる。隣に並びたい相手は、最後まで平然としていた。迫る相手を容赦なく叩きのめし、自分から潰しに行ける暴力。補助になれたかすら怪しい。ニコラスはそう感じていた。ただ悔しかった。涙だけでは収まらず、口から嗚咽が漏れ出す。
「……ニコ、起きたのね」
不意にエリザの声が聞こえ。ニコラスは慌てて飛び起きる。一人だと思い込み、油断をしていた。再び部屋を見渡すと、ドアの影に隠れて、エリザが顔だけ出して覗いている。
「……エリザがなぜ?」
「えへへ……話せば長いんだけど……」
エリザがニコラスの側に来て、ベッドに腰掛ける。右手を見ながら、もじもじと動いている。どうしたのだろうかと、ニコラスは疑問に思う。
「まずはニコ。良かった。起きて安心したよ」
そう言ってエリザがニコラスの頭を撫でる。かなりの子ども扱いをされている気もするが、不思議と嫌悪感はなかった。そして涙が再び溢れてくる。
「……私は無力だったよ、エリザ」
弱音が出る。“らしく”ない。もっと強いと思っていた。けれど現実は何も出来ず、足を引っ張るだけだった。そんな弱気は、ハリムにも、誰にも言いたくなかったが、エリザには言っても良いと思えた。
エリザがニコラスの頭を抱き寄せる。ニコラスもされるがままに、エリザの胸に頭を任せる。柔らかなエリザの感触がニコラスを安心させ、少しづつ心を落ち着かせる。
「……そう言うだろうからって、伝言を預かってるの」
エリザが私の頭を軽く叩く。
「俺もお前もまだまだ足りない、これからも頼む、だって」
「……そうか」
その言葉の通り、ニコラスにとって足りないものが多い事を痛感する件だった。今は心を奮い立たせる余裕はないが、このままで良いなどとは思ってはいない。まだ伸び代があるはずだ。とニコラスは自分言い聞かせる。
「ありがとう、エリザ。落ち着いたよ」
「良かった」
ニコラスはエリザの胸から離れ、うん、と身体を伸ばす。エリザを見ると、少し神妙な顔をしていた。
「どうした?」
「……ん、いや。大したことじゃないんだけど」
いつもハキハキと堂々としているエリザの歯切れが悪い。
「……ニコ。今度でいいからさ、一緒にハリム様に謝ってくれない?」
「ハリムに?」
エリザがハリムに謝ることなんてあるのだろうか。
「……私、彼の頬……思い切り叩いちゃった」
エリザが自身の右手を見る。さっきまでニコラスを支えていた手が。今はワナワナ震えている。思い出したのか、エリザが笑顔で固まっている。だからニコラスは聞く。いつかエリザがそうしたように。
「詳しく聞かせてもらおうか、エリザ」




