第10話 真紅の魔人と力猿①
王家の森の気高い樹々の緑葉を揺るがせながらただならぬ轟音がどよもす中、その剣呑な空間を恐れげもなく足早に歩む真紅の影があった。
国王守護隊長のダゴードである。
『……一日の殆どを寝て過ごすのもエネルギーの消耗を防ぐためだとは頷けるとしても、はたして寝起きの状態でいきなり凶霊龍に立ち向かえるものか?
たしかに幼少期のボーアッグはまことに稽古熱心で、打撃術の手ほどきをした私としても大いに期待をかけたものだったが……だがルコリトと組み【守護聖獣】の称号を得たはいいものの、そこから増大したのは残念ながら躰のサイズとそれを維持するための食事量だけなのではないか?
はたして現在、私が仕込んだ技を一つでも覚えているかどうかさえも定かではないとは、全く嘆かわしいとしか言いようがない……』
轟音が耳をつんざくまでになっていることからいよいよ発生源の間近に迫っていることが窺え、更に歩を進めると樹々の合間からそれがついに明らかになった──どう見積もっても15ヤーン(約24メートル)は下りそうもない巨大な黒猿である!
『最後に目撃したのは10日ほど前だが、見る度に巨大になっている気がするな……。
もちろんそれが全てパワーに還元するならば底無しの食欲にも意味はあるというものだが、いくら何でも長らく続いた自堕落な生活の直後にいきなり超難敵を相手にすることになろうとはあまりに無謀というものだろう……。
まあそれもこれまで王家の森に襲来するのが単発的な怪人部隊の刺客に留まっていたお陰で出番そのものが無かったからだが、ガドゥア様暗殺に始まる今回の星覇獣国の動きはあまりに急で、文字通りぶっつけ本番で大勝負に臨まねばならんのがくれぐれも悔やまれる。
──しかし、何よりも許し難いのはどう考えても伝統ある聖獣防衛隊にはふさわしからざるこの男の行状だッッ!!』
大の字となって爆睡中の力猿の右脇腹前に佇立したダゴードは、太い両腕を組みながら怒りよりも呆れ果てた表情で爆音としか形容しようのない大鼾に合わせて2ヤーン近くも上下する太鼓腹を寝台代わりに熟睡中の、筋骨逞しい躰に黒革の腰巻を帯びただけの若者?を見つめる。
聖獣師ルコリト──伸び放題の蓬髪と全身をびっしりと覆い尽くす剛毛は野生児というよりも獣人そのものであり、超自然的存在である巨猿よりも遥かに祝福されざる存在といえた。
しかも就寝前にしたたかに酒を食らっているであろう証拠にヒゲ茫々の顔面をはじめ毛むくじゃらの全身は赤黒く染まっており、これでは叩き起こしたところで何らの役にも立ちそうにない……。
『何ということだッ、祭日でもないというのに朝から飲酒とはッ!
たしかにヘタしたら一日中目を覚まさんような無精者ではあったが、ここまでの愚行ははじめて見たぞッ!!(とはいえ彼がルコリトを目にするのは多くて月に5回程度なのだが)
まさに戦闘以前の問題としか言えんが、今さらどうにもならん……忌々しいがこのまま放置して敵の襲来を待つとするか──そうすれば聖獣師抜きでの本能勝負となるゆえスタミナ切れも早かろうが、ナージェム師や巨鳥部隊の後方支援くらいはできるだろう……ぬッ!?』
見切りをつけた守護隊長が踵を返そうとしたまさにその刹那、膨らみきった力猿の腹部のてっぺんから「お待ちなせえ」という時代がかった呼びかけが放たれたのだ。
「今頃起きても遅いわッ!
それに迎撃作戦の総指揮を務められる筆頭聖獣師がキサマの醜態に気付いておられぬはずがなかろうがッ!
そこを甘く考えているようならここでナージェム師に確認してみるからじっとしているがいいッ!!」
振り向きもせずこう一喝した真紅の魔人は左手首に装着した黒い籠手を口元に寄せると、「──こちらダゴード。ナージェム師、応答願います」と呼びかける。
「おう、それそれッ!
オマエさんと顔を合わせたらゼッテー文句言ってやろうと決めてたんだが、こちとらレッキとした聖獣防衛隊員なのにどーして【響鳴石】が支給されねえんだよッ!?」
未だ覚醒に至らぬゆえに大きく上下運動を続ける巨猿の土手っ腹に胡座をかきながら(ルコリトの尻はボーアッグの臍部分に乗っかっている)指差してくるのは滑稽極まる光景であったが、全く姿勢を崩さぬ驚異のバランス感覚は到底常人のものではない。
「その理由は全て隊員にあるまじきオマエの生活態度にある……まずはそのむさ苦しい蓬髪と髭を剃って身だしなみを整えることから始めることだな。
できればケダモノじみた体毛も一本残らず切り落とせばなおいいが」
むろん向き直ることもなく返された言葉に対する反応は、天に向かってのけ反ったルコリトの太い喉笛から迸った、それこそ獣の咆哮を彷彿させるけたたましい爆笑であった。
「ひぎゃっははははははッッ!!
つ、つまり何か?オレにアンタのお仲間になれってのかよッッ!?
へげっへへへへッ!だ、だがよ、それはさすがにムリってもんだぜ……ああ、そうですともッ、オツムも含めて赤剥けするほどツルッツルッに磨き上げた“王国一の美肌超人”ダゴード守護隊長みてえな本格派にゃあ、あっしのような全て自然のままにを信条とするフッサフサの野生児は逆立ちしても敵いませんやッ、フックフフフフッ!ゲハッハハハハハッッ!!」
魁偉な黒猿の腹上で腹を抱える聖獣師がさすがに体勢を崩して転げ落ちそうになるが、辛うじて踏み留まりつつ剛毛に覆われた右腕で涙を拭う。
されど真紅の魔人がこの罵言に何らの痛痒を覚えた様子はなく、籠手に象嵌された黒い響鳴石には瞑闘室に結跏趺坐したルゼルク・ナージェムの厳しい表情が鮮やかに映し出されていた!




