第67話 コンシェルジュの矜持(後編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
深夜の静寂を破ったのは、私のスマホから響いた鋭い着信音だった。
画面に表示されたのは、前職である超一流ホテル『グラン・エトワール』で、私の後輩だった香織ちゃんの名前。
深夜のシフトに入っているはずの彼女からこんな時間に電話が来るなんて、尋常ではない。急いで通話ボタンを押すと、震える声が耳に飛び込んできた。ホテルの生命線とも言える「顧客データベース」が、正体不明のハッカーによってランサムウェアに感染し、ロックされたというのだ。
「……支配人は、ホテルの体面を守るために身代金を払うって言ってます。でも、もしデータがコピーされて、後から脅迫の材料に使われたら……」
香織ちゃんの懸念は正しい。あそこは、国内外のVIPがお忍びで利用するホテルだ。顧客データには、個人的な趣向から、持病やアレルギー、愛人との密会記録、外部には絶対に知られたくない滞在中の特別な配慮まで、あらゆる情報が蓄積されている。それは単なる個人情報ではない。悪意ある者の手に渡れば、大企業の株価を暴落させ、政治家の首を飛ばし、人一人の人生を社会的に破滅させかねない、致命的な「弾薬」なのだ。
「香織ちゃん。何も心配いらないわ」
私は、かつて制服を着ていた頃の、お客様を安心させるトーンで答えた。そして、隣でメインコンソールに向かっている雇い主を見た。
所長は、すでに私の通話をスピーカー越しに聞きながら、キーボードを叩き始めていた。
「オラクルの末端組織だろうな」
所長が、画面に流れるトラフィックの波形を見つめながら静かに口を開いた。その声に、普段の苛立ちや焦りはない。ただ、眼前の事象を正確に分析するプロフェッショナルの冷静さだけがあった。
「身代金要求はフェイクだ。裏で巧妙なパケット分割を行い、顧客リストの完全なコピーを外部サーバーへ転送しようとしている。……転送完了まで、およそ四十分」
「ネットワークを物理的に切断すればいいのでは?」
「おそらくフェイルセーフが組み込まれている。不正な切断や再起動を検知した瞬間、データベース自体を自壊させる論理爆弾が仕掛けられているはずだ」
所長は椅子から立ち上がり、壁に掛けられていた黒いジャケットに右手を伸ばした。オラクル系の「掃除屋」との激戦で負った左肩から背中にかけての古傷を庇うように、少しだけ顔をしかめながら慎重に袖を通す。一晩で完治する怪我ではない。いまだに強烈な痛みが彼を苛んでいるはずだが、所長は顔色一つ変えずに機材の入ったアタッシュケースへ視線を向けた。
「行くぞ、石川。現場のサーバーに直接物理接続して、管理者権限を奪い返す」
私は無言で頷き、彼の代わりにその重いケースを持ち上げた。
★★★★★★★★★★★
深夜のホテル『グラン・エトワール』のバックヤード。
従業員用の裏口で待っていた香織ちゃんは、いつも通り髪を一つにきっちりとシニヨンにまとめ、ネイビーのホテルの制服を凛と着こなしていた。しかし、その端正な顔立ちはパニックと疲労で血の気が失せ、目元にはうっすらと涙の痕が光っている。誰にも相談できない状況下、一人で背負うには重すぎるプレッシャーの中で、彼女は必死にホテルを守ろうと耐えていたのだ。
香織ちゃんの手引きで内部に侵入した私たちは、冷房が強く効いたサーバールームの前に立った。
所長が不自由な左腕でアタッシュケースを開けようとしたため、私はすかさず手を添えてロックを外した。所長は小さく頷くと、ノートPCと特殊な中継デバイスを取り出し、メインサーバーのメンテナンスポートに直接接続する。
「相手の暗号化プロセスを、システムリソースの枯渇を利用して一時的に凍結させる。その間にバイパスを構築する」
所長の画面に、黒いターミナルウィンドウと、赤い警告が入り乱れる。
彼は、いまだ自由の利かない左腕を庇いながらも、右手一本の驚異的なタイピングでメンテナンスポートへの接続と強制パージを進めた。通常なら両手で流れるように叩き込む複雑なコマンド群を、右手のみで完璧にカバーしていく。エンターキーを叩くたびに、その額には痛みに耐えるような微かな汗が滲んでいたが、タイピングの速度は決して落ちなかった。
「……だが、最後の管理者権限のオーバーライドには、このシステムを構築したベンダーが残した『緊急用認証』が必要だ。デジタルな総当たりでは、転送完了のタイムリミットに間に合わない」
画面中央に表示されたのは、パスワードの入力欄。
しかし、その上には奇妙な「問い」が設定されていた。
『Room 404の真のオーダー』
「支配人のPCからも、マニュアルからも、この答えは見つからなかったんです……」
香織ちゃんが顔を青くして言う。
所長はキーボードから手を離し、私を見た。
「石川。君たちコンシェルジュは、デジタルに頼らない『アナログな顧客の記憶』を共有しているはずだな」
「……はい」
私は深く息を吸い込んだ。
Room 404。それは、数年前に亡くなったホテルの創業者が、お忍びで滞在する際に必ず使っていた部屋だ。
創業者は重度の糖尿病を患っており、主治医から食事制限を厳しく課せられていた。しかし、月に一度の滞在の夜だけ、彼はメニューにはない「あるもの」をコンシェルジュにこっそりと頼んでいた。
それは、データベースのどこにも記録されていない。記録してしまえば、ネットワークを介して主治医や家族に知られてしまうリスクがあるからだ。
歴代のチーフコンシェルジュから、現場で直接仕える人間へ、口伝でのみ密かに受け継がれてきた「秘密のオーダー」。システム設計者は、デジタル上には存在しない、現場の人間だけが知るアナログな真実を、最後の鍵に設定したのだ。
私は迷わず、所長のPCのキーボードに指を置いた。
『Chamomile_tea_and_Rye_bread_with_Honey』
(カモミールティーと、はちみつを添えたライ麦パン)
実行キーを押し込む。
カチッ、という微かな電子音と共に、画面の赤い警告表示が一瞬にして緑色へと反転した。
「認証クリアだ。……見事な記憶力だな」
所長が即座にキーボードを奪い返し、凍結させていたマルウェアのプロセスを根こそぎパージしていく。外部へのデータ転送は99パーセントで強制遮断され、ランサムウェアのロックも完全に解除された。
「……終わった。顧客データは無事だ」
所長がPCを閉じると、張り詰めていた糸が切れたのか、香織ちゃんはへなへなとその場に座り込み、両手で顔を覆って泣き出した。
「石川先輩……所長さん……本当に、本当にありがとうございました……っ」
私はしゃがみ込み、香織ちゃんの肩を優しく抱きしめた。
「香織ちゃん。お客様の秘密を守り抜いたのは、貴女の勇気よ。立派なコンシェルジュになったわね」
「先輩……ホテルに、戻ってきてくれませんか? 先輩がいれば、もっと……」
私は少しだけ微笑んで、首を横に振った。
「ありがとう。でもね、私の今の居場所は、地下室だから」
私は前を歩く所長の大きな背中を見た。
ホテルの華やかなロビーよりも、スパイスの香りが染み付いたあの薄暗い地下室で、誰かの遺した想いを守るために戦うこと。それが、今の私の「コンシェルジュとしての矜持」なのだ。
★★★★★★★★★★★
神保町の地下室に戻ったのは、空が白み始めた頃だった。
極度の緊張が解け、猛烈な空腹感が胃袋を刺激する。
「少し休んでいろ。何か作る」
所長がジャケットを脱ぎ、キッチンに立った。
彼が冷蔵庫から取り出したのは、厚切りの食パン、鶏むね肉、ベーコン、そして新鮮なトマトとレタスだ。
「脳が疲労している時は、炭水化物とタンパク質、そして適度な塩分と酸味を同時に摂取するといい。クラブサンドイッチにする」
所長は、痛む左肩を僅かにすくめながらも、右手一本で器用に包丁を操り始めた。
パンをトースターに入れ、表面をカリッと、中はふんわりと焼き上げる。そこに、マスタードをしっかりと効かせた自家製マヨネーズを端まで均等に塗る。
低温調理でしっとりと仕上げられた鶏むね肉を薄くスライスし、フライパンで脂を落としながらカリカリに焼いた燻製ベーコンを用意していく。しかし、すべての工程を片手で行うのは流石に効率が悪い。
「所長、挟むのは私がやります」
「ああ、頼む。バランスを崩さないようにな」
私がトースターからパンを取り出し、所長の指示に従って具材を丁寧に重ねていく。スライスした完熟トマトと、氷水にさらしてシャキッとさせたレタスを乗せ、もう一枚のトーストで挟み込む。言葉による細かな指示はなくても、阿吽の呼吸で層が組み上げられていく。
崩れないようにピックを四カ所に刺す作業は私が引き受け、最後に所長が研ぎ澄まされた包丁で一気に十字に切り落とした。
「できた。お疲れ様、石川。さあ、食べてくれ」
テーブルに置かれたのは、色鮮やかな断面が美しい完璧なクラブサンドイッチだった。
私は大きく口を開けてかぶりつく。サクッとしたトーストの食感の後に、ベーコンの塩気と鶏肉の旨味、トマトの酸味、そしてマヨネーズのコクが口の中で見事なハーモニーを奏でる。徹夜明けの細胞の隅々にまで、栄養が染み渡っていくようだった。
「……美味しい。すごく、美味しいです」
「パンの焼き加減と具材の層が命だからな。一つでもバランスが崩れれば、ただのパンと肉の塊になってしまう」
所長も自分の分を口に運び、無糖のブラックコーヒーで流し込んだ。
徹夜明けの静かな地下室で、二人で黙々とサンドイッチを食べる。多くを語らずとも、そこには共に戦線をくぐり抜けたバディとしての、静かで確かな信頼があった。
その時、地下室に設置された最新の防犯インターホンが、柔らかな電子音を鳴らした。先日導入された強固なセキュリティシステムだ。
カメラモニターに映っているのは、パリッとした白いパンツスーツを颯爽と着こなした弁護士、藤田涼子さんの姿だった。
所長が遠隔でロックを解除すると、やがて重いスチールドアが静かに開き、涼子さんが中へ入ってきた。
「あら。徹夜明けで優雅な朝食ね」
涼子さんはサングラスを外し、美しく艶やかな黒髪をかき上げた。
「何の用だ、藤田。今日は裁判の予定はないはずだが」
所長がコーヒーカップを置き、静かに尋ねる。
「仕事の話じゃないわ。……所長さん、シャワーを浴びて着替えてきなさい。これから出かけるわよ」
「悪いが、俺はこれから寝るつもりなんだが」
「却下。これは、先日のオラクル関連の訴訟準備で貴方に無理をさせた『報酬』よ。私が特別に予約を入れた店に連れて行ってあげる。貴方のその偏屈な味覚も、少しは満足するフレンチよ」
涼子さんは所長の反論を許さず、有無を言わせぬ大人の余裕で微笑んだ。
「……わかった。少し時間をくれ」
所長は小さくため息をつきながらも、決して本気で嫌がっているわけではないことを、私は知っていた。所長は立ち上がり、仮眠室の奥にあるシャワールームへと向かっていった。
★★★★★★★★★★★
数時間後。銀座四丁目の裏通りにひっそりと佇む、完全予約制の隠れ家フレンチレストラン。
静かなジャズが流れる店内の一角で、阿部は提供された『仔羊のロースト、黒トリュフとポートワインのソース』をゆっくりと咀嚼し、ブルゴーニュの赤ワインで静かに流し込んだ。
シャワーを浴び、無精髭を整え、仕立ての良いダークネイビーのジャケットを羽織った彼の姿は、普段の薄暗い地下室にいるハッカーとは別人のように洗練されている。
「……どう? お気に召したかしら」
向かいの席で、デコルテを美しく見せるシルクのワンピースに着替えた涼子が、ワイングラスを傾けながら微笑んだ。
「見事だ。肉の火入れも完璧だが、何よりソースの乳化が素晴らしい。酸味と脂のバランスが緻密に計算されている」
阿部は素直に賞賛の言葉を口にした。美味いものを前にして、無駄な虚勢を張る必要はない。
「良かった。貴方の舌を満足させるのは、法廷で勝訴を勝ち取るより難しいからね」
涼子は楽しげに笑い、フォークを置いた。その瞳が、ふと真剣な光を帯びる。
「……昨夜も、オラクル関連の末端組織とやり合ったそうね。大家さんから聞いたわ。怪我の具合は?」
「大したことはない。仕事の範疇だ」
阿部は短く答え、肩の痛みを微塵も感じさせない優雅な所作でグラスを手にした。
「強がるのは勝手だけど、無理はしないで。……彼らオラクル財団の背後には、複数のダミー企業と、政界の影が見え隠れし始めているわ。物理的な排除に動いてきている以上、これからは法の盾だけでは防ぎきれない局面が必ず来る」
「わかっている。だからこそ、俺がデジタルの裏側から奴らの喉首にナイフを当てる必要があるんだろう」
阿部の静かな言葉に、涼子はふっと口角を上げた。
「ええ。次は法廷で私が彼らの息の根を止めるわ。貴方は引き続き、デジタル空間で私をサポートして頂戴」
「俺のサポートは安くないぞ、藤田弁護士」
「知っているわ。だからこうして、先行投資しているんじゃない」
二人は視線を交わせ、小さくグラスを合わせた。
薄暗い地下室での泥臭い戦いと、華やかな表舞台での緻密な法的闘争。生きる世界も手法も違うが、理不尽な巨悪に立ち向かうという目的において、彼らは確かに一つの線で結ばれていた。
★★★★★★★★★★★
事務所に残された私は、最後の一口のサンドイッチを頬張りながら、足元でスヤスヤと眠るチビの頭を撫でた。
騒がしくて、危険で、でも温かい。私の居場所は、やはりここしかないのだと、深く息を吐きながら微笑んだ。
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