第66話 コンシェルジュの矜持(前編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
オラクルの天才ハッカーとの熾烈な防衛戦を辛くも凌ぎ切り、阿部が振る舞った富士宮焼きそばで胃袋を満たした私たちは、泥のような疲労感と共に深い夜を迎えていた。
数時間前まで、この部屋は巨大なITカルト『オラクル財団』のハッカーとの、見えない殺し合いの舞台だった。エミリーが放ったカウンタープログラム『Maple_Syrup』が敵の侵攻を間一髪で食い止め、私たちは辛くもシステムと顧客データを守り抜いたのだ。
時刻は午前2時を回ったところだ。
メインサーバーの冷却ファンは通常の回転数に戻り、地下室には静かで規則的な駆動音だけが響いている。極度の緊張から解放された反動は大きく、激戦を戦い抜いたエミリーは、ソファに丸くなって子供のように眠りこけており、みずほも仮眠室の2段ベッドに吸い込まれていった。足元では、茶白の子猫のチビが、排熱口のそばで無防備にお腹を出して寝息を立てている。
「……石川。まだ起きてるのか」
トリプルモニターの電源を落とした所長が、キッチンのほうから声をかけてきた。いつものグレーのパーカー姿だが、その肩のラインには明らかな疲労が滲んでいる。
「はい。さっきのログのバックアップを、別ドライブに逃がしているところです。念には念を入れておきたいので」
「そうか。……なら、少し付き合え」
所長は冷蔵庫からいくつかの瓶と、白い包み紙を取り出した。
まな板の上に置かれたのは、表面に白い粉を吹いた太いサラミだった。
「トスカーナ産の『フィノッキオーナ』だ。豚の挽肉にフェンネルシードを練り込んで熟成させた、イタリアのサラミだ」
所長は不意に左肩を走る痛みにわずかに眉をひそめながらも、右手1本で器用にペティナイフを操り、サラミを透けるような薄さにスライスしていく。数時間前の戦闘で『掃除屋』のナイフをかわした際、かつて私を庇って負った古傷に相当な負担をかけていたはずだ。それでも彼は、弱音を吐くことなく、鮮やかな手つきで断面から香りを引き出していく。切り出された断面からは、常温の空気に触れた端から、豚の脂がゆっくりと溶け出し、しっとりとした艶を帯びていく。
「サラミは冷たいまま食うな。脂の融点が低いから、常温に戻すことで香りと旨味が爆発する」
テーブルに木製のカッティングボードが置かれた。そこに薄切りのサラミが無造作に、しかし美しく並べられている。
所長はさらに、ラベルの擦り切れたイタリアの赤ワインと、少し背の低いウイスキーのボトルを置いた。
「イタリアの『キャンティ・クラシコ』だ。サンジョヴェーゼ種特有の酸味とチェリーのような果実味が、サラミの脂を綺麗に洗い流す。……俺はこっちにするがな」
所長が自分のロックグラスに注いだのは、ニッカウヰスキーの『宮城峡』だった。
氷がカラン、と高い音を立てる。グラスから、りんごや洋梨を思わせる華やかで甘い香りと、柔らかな樽の香りがふわりと立ち昇った。
「お疲れ様です、所長」
私は赤ワインのグラスを手に取り、小さく乾杯の仕草をした。所長もグラスを軽く上げ、無言で口をつける。
サラミを1枚つまみ、口に入れる。
フェンネルの爽やかな香りが鼻腔を抜け、直後に豚肉の熟成された強烈な旨味と塩気が舌の上に広がった。噛むというより、体温で溶けていくような感覚だ。そこに赤ワインを流し込むと、驚くほど綺麗に脂が切れ、次の一口を欲する暴力的なループが完成する。
「……美味しい」
「だろうな」
所長は宮城峡のグラスを揺らしながら、暗い天井を見上げた。
「オラクルの『本丸』には、エミリーが警戒するレベルの化け物がいる。今日の一戦で、向こうも俺たちの手札の厄介さを正確に測ったはずだ。……次に来る時は、本気で息の根を止めに来るぞ」
「はい。……でも、私たちは逃げませんから」
私が静かに答えると、所長は鼻で笑い、宮城峡を煽った。
緊迫した状況下での、ほんの僅かな休息。
アルコールが強張っていた神経を少しずつ解きほぐしていくのを感じていた。私たちが立ち向かっている『オラクル』という組織の巨大さと、その底知れぬ悪意。戦いはまだ終わっていない。むしろ、これが始まりなのだと、冷たいキャンティ・クラシコを飲み込みながら実感していた。
その時だった。
ブルルルルルッ。
私のデスクの上に置いていたスマホが、無遠慮なバイブレーション音を鳴らした。
こんな深夜に私個人の番号にかけてくる人間は限られている。
画面に表示された名前に、私は少しだけ眉をひそめた。
『高橋 香織』
私が以前勤めていた、都内の超一流ホテルのフロントデスクで、私の直属の後輩だったコンシェルジュだ。明るく真面目な子だが、非常識な時間に連絡をしてくるようなタイプではない。
「……出ろ」
所長が促す。私はグラスを置き、通話ボタンを押した。
「もしもし、香織ちゃん? こんな深夜にどうし……」
受話器を耳に押し当てた瞬間、私の脳裏に、いつもフロントデスクで髪をきっちりと結び、制服を凛と着こなして真面目にメモを取っていた、あのひたむきな彼女の佇まいが浮かんだ。
『……彩先輩!』
電話の向こうから聞こえたのは、あの穏やかな後輩の印象とはかけ離れた、押し殺したような、それでいてパニック寸前の切実な声だった。
『ごめんなさい、こんな夜更けに……でも、もう、誰に相談していいか分からなくて……っ』
「落ち着いて。何かあったの? 今、ホテル?」
『はい、今は夜勤のシフトで……。先輩、ホテルのシステムが……全部、乗っ取られました』
「乗っ取られた?」
私は背筋を伸ばし、スマホを耳に強く押し当てた。所長がグラスを置く微かな音が聞こえた。
『1時間ほど前です。基幹サーバーが突然ダウンして……全客室のロック制御、予約システム、それから……顧客のデータベースが完全に暗号化されて、アクセスできなくなりました。画面には、英語で身代金を要求するメッセージが出ていて……』
「ランサムウェア……」
企業を狙った身代金要求型のサイバー攻撃。
ホテルのような、リアルタイムで客を抱え、信用を第一とする業種にとっては致命的な事態だ。
「情報システム部はどうしてるの? 警察には?」
『通報してません……! 支配人や役員が、警察への通報を止めてるんです』
香織ちゃんの声が震えていた。
『警察が入れば、システムが長期間止められるし、マスコミにもバレる。だから……要求されたビットコインをこっそり支払って、このまま内密にシステムを復旧させようって……』
「バカなことを」
私は思わず声を荒げた。
「身代金を払っても、データが戻る保証なんてないわ。それどころか、相手の要求がさらにエスカレートするだけよ。……それに、盗まれたデータには」
『……はい。VIPのお客様の、詳細な滞在履歴が含まれています』
香織ちゃんの言葉に、私の血の気が引いた。
私たちが勤めていたホテルは、各国の要人や有名企業の社長、著名人がお忍びで利用する場所だ。
コンシェルジュが扱う顧客データには、「誰と宿泊したか」「どのようなアレルギーや持病があるか」「個人的な趣向や、外部には絶対に知られたくない配慮」といった、表には出せない極めてセンシティブな個人情報が蓄積されている。
政治家の密会、企業のトップ同士の非公式な会合。あるいは、家族に内緒で抱えている事情。もしそれが外部に流出し、悪意を持って利用されれば、多くの人の人生が破滅しかねない。単なる個人情報漏洩という言葉では済まされない、致命的な「弱み」の塊なのだ。
『支配人は、お金で解決できるならそれでいいって言ってます。でも、本当にそれでお客様の秘密が守られるんでしょうか? もし、データがコピーされて、後から脅迫の材料に使われたら……私たちは、お客様を裏切ることになる……』
香織ちゃんの声は、泣きそうに震えていた。
ホテルの体面を守るためではなく、お客様の人生を守るためにどうすべきか。末端のコンシェルジュである彼女だけが、その本質に気づき、絶望的な孤独の中で私に助けを求めてきたのだ。
私は、コンシェルジュの制服を着ていた頃の、あの背筋が伸びるような感覚を思い出した。お客様の絶対の味方であり続けるという、私たちが分かち合った誇り。
「香織ちゃん。よく私に連絡してくれたわね」
私は、努めて冷静で、温かい声を出した。かつて、パニックになったお客様を落ち着かせる時に使っていた、あのトーンで。
「何も心配いらないわ。……貴女は、コンシェルジュとして一番正しい判断をしたのよ」
『先輩……』
「システムのことは、こちらの専門家が対応する。香織ちゃんは、自分のスマホから、その身代金要求画面の写真を撮って、今すぐ私に送って。それから、情報システム部の端末で、最後に怪しいメールを開いた人間のPCを物理的にネットから切断してちょうだい。LANケーブルを引き抜くだけでいいわ」
私が指示を出し終える前に、背後で重たい足音がした。
所長だ。彼は自分のグラスに入っていた宮城峡を一口で飲み干すと、私の手から無作法にスマホを奪い取った。
「おい、ホテルの嬢ちゃん」
『えっ? だ、誰ですか……?』
「彩の雇い主だ。……今の状況、最悪の一歩手前だぞ。身代金を払おうが払うまいが、暗号化された時点でデータはすでに抜かれていると考えるべきだ」
所長は冷徹に事実を告げる。
「俺たちが介入して、システムを力技で解錠し、データの流出経路を特定して潰す。だが、これは完全な非合法作戦になる。ホテルの経営陣には絶対に知られるな。……覚悟はあるか」
電話の向こうで、香織ちゃんが息を呑む音が聞こえた。
数秒の沈黙の後、震えの消えた、まっすぐな声が響いた。
『……やります。お客様を守るのが、私の仕事ですから』
「上等だ。彩、画面の写真が届いたら俺の端末に転送しろ。カナダを叩き起こす」
所長はスマホを私に放り投げ、痛む左腕を庇うようにしながらも、右手の神速のタイピングでメインサーバーのキーボードを叩き始めた。
休止状態だったトリプルモニターが、再び青白い光を放って起動する。
「ただの身代金目的のチンピラか、それとも……背後に見えない糸があるのか」
所長の目は、完全にハッカーのそれに戻っていた。
私は届いたばかりのランサムウェアの画面写真を所長に転送し、エミリーの眠るソファへと向かった。
深夜の緊急要請。
それは、私にとって、過去の自分の矜持を懸けた戦いの始まりだった。




