第65話 天才VS天才(後編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
極北の氷のように冷徹な「ハンター」の顔になったエミリー・ローレンスは、七色に発光するキーボードの上に両手を構えたまま、メインモニターのログの奔流を睨み据えていた。
普段の、ハグとジャンクフードを愛する陽気なカナダ人の面影はない。室内には、サーバーの重低音だけが不気味に響いている。
「……クニ。メインサーバーの冷却ファンを最大出力で固定して。それから、ルーターの物理切断スイッチに手をかけておいて。私が『今だ』と言うまで、絶対に切らないでね」
エミリーの声は、感情の起伏が完全に削ぎ落とされていた。
所長は、先ほどの乱闘で痛めた左肩を庇うように少しだけ身を屈めながら、無言でメインコンソールの前に立ち、指示通りにシステムを操作した。
「ファン出力、100%固定。キルスイッチのスタンバイ完了だ」
「Thanks」
所長がキーを叩いた直後、地下室に響いていた排熱ファンの唸り声が、一段と高く、暴力的な轟音へと変わった。
足元で威嚇の姿勢をとっていた茶白の子猫・チビが、その異常な音圧に驚き、私のデスクの下へと潜り込んで丸くなる。私はチビを落ち着かせるように、そっとその背中を撫でた。
「……来るよ」
首にかけたヘッドホンを両手で押さえ込んでいた小川みずほが、顔を強張らせて言った。
「音の波が変わった。さっきまでの不規則な振動じゃない。……すごく太くて、鋭い1本の針みたいになってる。第1層のポートを、力ずくでこじ開けに来てる!」
みずほが叫んだ瞬間、エミリーのモニターに表示されていた緑色の防壁のステータスバーが、真っ赤な警告色へと反転した。
エミリーの指先が動いた。
目にも止まらぬ速さでコマンドを打ち込み、画面上に無数の防衛スクリプトを展開しては、次々と新たな暗号の壁を再構築していく。打鍵音が土砂降りの雨のように地下室を満たした。
だが、それ以上の速度で、見えない敵のパケットが防壁を食い破っていく。
「……速いな」
所長が、額に脂汗を滲ませながら低い声で呟いた。
「オラクルの『Oracle_Engine』のような、AIによる機械的な総当たりじゃない。完全に手動だ。こちらの迎撃アルゴリズムの癖を瞬時に学習して、その裏を掻いてきている。恐ろしい処理能力だ」
「ええ。……最低で、最悪な相手ね」
エミリーはモニターから視線を一切外さずに応じた。
「カナダのアンダーグラウンドにいた頃、一度だけ手も足も出なかった相手のコードの書き方に似てる。……徹底的に論理的で、でも人間の心理の隙を突くような、傲慢なオールドスクール。自分より賢い存在はいないと信じ切っている奴のやり方よ」
「第3層、突破されました!」
私は、自分のサブモニターに表示された警告アラートを見て叫んだ。
敵の侵攻速度が異常だ。エミリーが構築した囮のルーティングも、トラップを仕込んだ偽のポートも、すべて見透かされたように最短距離で突破されている。
「エミリー、第4層が破られたらメインのデータベースに到達される。……切るぞ」
所長が、物理切断スイッチに手をかけた。ネットワークケーブルを物理的に遮断すれば、いかなる天才ハッカーでもそれ以上は侵入できない。しかし、それは同時に、敵の痕跡を追う機会も永遠に失うことを意味する。
「No! 待って!」
エミリーが鋭く制止した。
「まだよ。……もっと奥へ。もっと奥まで引き込むの」
「正気か? 相手はシステムの中枢を破壊しに来ているんだぞ」
「分かってる。でも、ここで切ったら、また別の経路から来るだけ。……本丸を叩くには、奴の『手』を完全にシステムの内側に突っ込ませる必要があるのよ」
エミリーのタイピング速度が、少しだけ落ちた。
いや、落ちたように「見せかけている」のだ。彼女は意図的に防壁の再構築を遅らせ、防御ラインにわずかな綻びを作り出している。
「……おじさん、敵のスピードが上がった」
みずほが目を閉じたまま、ヘッドホン越しの「音」を頼りに実況する。
「罠だって疑ってないの?」
「いいえ。疑った上で、その罠ごと力押しで踏み潰せると思ってるのよ。……天才特有の、致命的な傲慢さね」
エミリーの唇の端が、僅かに吊り上がった。
画面上の最後の防壁である第4層が、ガラスが割れるようなエフェクトと共に崩壊した。
敵のアクセスが、私たちのメインサーバーの深奥――顧客データと、これまでに収集したオラクル財団の解析データが眠るコア領域へと到達した。
敵が、データの全消去コマンドを送信しようとした、その刹那。
エミリーの右手の小指が、エンターキーを強く、深く押し込んだ。
「Gotcha(捕まえた)」
エミリーのメインモニターの画面が、一瞬だけ黄金色に発光したように見えた。
「……実行ファイル『Maple_Syrup』展開」
エミリーが短く呟く。
直後、敵のパケットの動きが完全に停止した。波のように押し寄せていた赤いアラートの帯が、ピタリと動きを止めている。
「何をした?」
所長が目を細める。
「粘着性の無限ループよ」
エミリーはキーボードから手を離し、椅子の背もたれに深く寄りかかった。
「奴がコア領域にアクセスした瞬間に、パケットのヘッダを書き換えて、奴自身のPCのシステム権限を逆に奪取したの。……カナダ特製のメープルシロップよ。一度踏み込んだら、甘くベタベタにまとわりついて、二度と抜け出せない」
「権限を奪って、どうする気だ」
「こうするの」
エミリーが別のキーを1つだけ叩く。
「相手のPCの冷却ファンを、ハードウェアレベルで強制停止。同時に、CPUへの供給電圧のリミッターを解除して、クロック数を限界の数倍まで跳ね上げる。無限ループの重い処理を、一切の冷却なしで全開で回し続けるの」
その言葉の意味を理解し、私は背筋が粟立つような寒気を感じた。
冷却を奪われ、限界を超えた熱を発生させ続ける精密機器がどうなるか。それはもはや、情報戦ではなく物理的な破壊工作だ。
「……音が、消えた」
みずほがヘッドホンを外し、呆然と呟いた。
「ええ。今頃、相手のマザーボードは物理的に焼き切れてるわ。コンデンサが破裂して、部屋中がプラスチックの焦げる酷い煙で満たされてるはずよ。……火事にならなきゃいいけどね。ご馳走様」
エミリーはそう言うと、極度の集中が切れたのか、ふうっと長く息を吐き出した。
その瞬間、彼女のお腹から「きゅるるるるっ」という、気の抜けるような盛大な音が鳴り響いた。
「……あー、お腹空いた。カロリー、全部使い果たしたわ……」
エミリーが机に突っ伏す。
張り詰めていた地下室の空気が、その音で一気に弛緩した。入り口付近で警戒していたアキさんと鞠さんも、ほうっと安堵の息を漏らす。
所長は、古傷の痛む左肩をゆっくりと回しながら、呆れたように鼻を鳴らした。
「……馬鹿でかい音を鳴らしやがって。仕方ない、手早く済ませるぞ。ジャンクな特効薬を作ってやる」
所長はメインコンソールから離れ、キッチンのほうへと歩き出した。
冷蔵庫から取り出したのは、大量のキャベツ、椎茸、エリンギ。そして、白いラードの塊と、茶色いそぼろのようなものだった。
「肉かすだ」
所長が中華鍋をコンロに火にかける。今日は火力が命だと言わんばかりに、炎が勢いよく立ち上がる。
「豚の背脂からラードを絞り取った後に残る、副産物だ。こいつが、圧倒的なコクとジャンクな旨味を生み出す。……今日は、富士宮焼きそばにする」
熱した中華鍋にラードを落とすと、ジュワァァッという音と共に、濃厚で甘い豚脂の香りが地下室に充満し始めた。
デスクの下に隠れていたチビが、その匂いにつられて「ミャウ」と鳴きながら顔を出す。
所長は肉かすを鍋に投入し、カリッとするまで炒める。そこに、ざく切りにした大量のキャベツと、スライスした椎茸、エリンギを放り込んだ。
ジャッ! という小気味良い音が響く。
「富士宮焼きそばの極意は、麺のコシと水分のコントロールだ。一般的な焼きそばのように水をドバドバ入れて蒸らすと、麺がふやけて台無しになる」
所長は、少し太めで黄色がかった特製の蒸し麺を野菜の上に乗せると、少量の日本酒を振りかけ、すぐに蓋をした。
「キャベツから出る水分と、少量の酒だけで蒸し焼きにする。キノコ類は、旨味成分であるグアニル酸をソースの味に重ねるための増幅器だ」
数分後、蓋を開けると、もうもうとした湯気と共に、キャベツの甘い匂いが立ち昇った。
所長はそこに、特製のウスターソースをベースにしたブレンドソースを一気に回し入れ、豪快に鍋を振る。
ソースが鍋肌で焦げる、香ばしくも暴力的な香りが、空腹の限界を迎えている私たちの胃袋を激しく刺激した。
「仕上げだ」
所長が大皿に焼きそばを山盛りに盛り付ける。
そして、その上に「イワシの削り粉」を、雪のようにたっぷりと振りかけた。
「できたぞ」
所長がテーブルに皿と取り皿、割り箸を無言で置いた。
私たちは吸い寄せられるようにテーブルを囲み、無言で箸を伸ばした。
「……っ!!」
一口食べた瞬間、エミリーが目をカッと見開いた。
コシの強い、モチモチとした太麺。それに絡みつく、濃厚で少しスパイシーなソース。
噛み締めると、キャベツの自然な甘みと、キノコから溢れ出す深い旨味が口いっぱいに広がる。
そして何より、カリカリに炒められた「肉かす」から滲み出る強烈な動物性の脂の甘みと、たっぷりとかかったイワシの削り粉の魚介の風味が、見事なまでに融合し、一つの「完璧なジャンクフード」を完成させていた。
「Oh my god……。何これ、めちゃくちゃ美味しい……! ソースと豚の脂と魚の粉が、口の中でオーケストラを奏でてるわ!」
エミリーが感動の声を上げながら、猛烈な勢いで麺を啜る。
アキさんも「うまっ! これ、お祭りとかで食べるやつより全然うまいべ!」と叫びながらかき込んでいる。
私も、一口食べるごとに失われていた体力が急速に回復していくのを感じた。強烈な旨味と炭水化物が、疲弊した体に染み渡っていく。
「……阿部ちゃん。肩、大丈夫なの」
鞠さんが、焼きそばを上品に口に運びながら、キッチンに立つ所長を見た。
「問題ない。……それに、カナダが派手に暴れてくれたおかげで、置き土産も手に入った」
所長は、自分の分の焼きそばが入った皿を片手に持ち、メインモニターの隅に表示された小さなテキストファイルを顎でしゃくった。
「奴のPCの権限を奪ったあの数秒の間に、システムログのキャッシュをぶっこ抜いておいた。……オラクルの末端にあるダミー企業群のリストだ。これで奴らの資金源と、次に狙っているターゲットの輪郭が掴める」
所長の瞳の奥に、怪我の痛みなど微塵も感じさせない、鋭い反撃の光が宿っていた。
天才同士の死闘を制し、私たちはついに、見えない敵の足跡を追うための確かな手がかりを手に入れたのだ。




