第64話 天才VS天才(前編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
重厚なスチールドアが乱暴に開き、外の冷たい空気と共に、鉄と汗の匂いが流れ込んできた。
「所長……!」
私が思わず声を上げたのは、入ってきた所長が、顔を険しく歪めて左肩を強く押さえていたからだ。
その後ろから、ヒールを脱ぎ捨ててストッキングのままのアキさんと、乱れた髪を掻き上げる鞠さんが続く。オラクルの息のかかった「掃除屋」との接触。鞠さんの救出には成功したものの、現場でのやり取りは相当に苛烈なものだったらしい。二人の表情には、先ほどまで命のやり取りをしていた者だけが持つ、ヒリヒリとした緊張感が色濃く残っていた。
「騒ぐな。古傷が痛んだだけだ」
所長は不機嫌そうに舌打ちをすると、グレーのパーカーを脱ぎ捨てた。黒いTシャツ越しでも分かるほど、左肩の筋肉が強張っている。かつて負った深い傷跡がある部位だ。無理な体勢で敵のナイフをかわしたせいで、筋肉と神経に過度な負担がかかったのだろう。オラクル側はすでに、私たちへの物理的な排除を躊躇しない段階に入っている。
「……阿部ちゃん、ごめんね。あんたの古傷が痛んだ隙を突かれた。私がもっと早く蹴り飛ばしてれば……」
「結果論だ、アキ。俺の動きが鈍かっただけのことだ。それに、この古狸を無傷で連れ戻せたんだ。上出来だろう」
所長が救急箱から湿布と鎮痛剤を取り出し、手慣れた様子で応急処置を始める。鞠さんはソファに腰を下ろし、深く息を吐きながら、まだ微かに震える指先を見つめていた。
「……借りを作ったわね、阿部ちゃん」
「請求書は後で回す。その前に……」
所長は左肩に湿布を貼り、首をゴキリと鳴らした。そのまま、無言でキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けて手早く食材を調理台に並べ始める。
その顔には痛みの色はなく、いつもの「食の探求者」の鋭い眼光が戻っていた。
「えっ? 所長、怪我の処置をしたばかりなのに、料理なんてしてる場合じゃ……」
「アドレナリンが出ている時は、カロリーとスパイスで強制的に中和する。極限の緊張状態から脳と肉体を平時に戻すには、これ以上の儀式はない。それに、これだけ動いたんだ。お前らもエネルギーが完全に枯渇しているだろう」
私の制止を聞かず、所長は中華包丁を手に取った。
その手つきに迷いは微塵もない。肩の痛みを全く感じさせないリズミカルな音で、まな板の上の野菜が等間隔に切り分けられていく。
「石川、ブロッコリーとズッキーニだ。塩分濃度は正確に1.5%に調整しろ。ブロッコリーは90秒、ズッキーニは45秒で引き上げるぞ。少しでも茹で過ぎたら水っぽくなるからな」
「は、はい!」
私は慌てて鍋に湯を沸かし、タイマーをセットする。
沸騰した湯の中に、切り分けられたブロッコリーとズッキーニを順番に投入する。秒単位での引き上げは、野菜の食感を左右する重要な工程だ。
所長は大きなステンレスボウルに氷水を用意し、私が網杓子で引き上げた茹で上がったばかりの野菜を一気に投入した。
「氷水で急速に熱を奪う。ペクチンの分解を即座に止め、細胞壁を引き締めることで、噛んだ時の破断を極限まで引き出す。……これを、クレソンのほろ苦さ、パプリカの甘み、トマトの酸味と合わせる。味付けはエキストラバージンオリーブオイルと岩塩だけで十分だ」
鮮やかな緑と赤、黄色が入り混じった色彩豊かなサラダが、あっという間に大きなガラスの器にふんわりと盛り付けられる。
それと並行して、所長は別のフライパンでメインディッシュの準備に取り掛かっていた。
「乾燥ポルチーニの戻し汁を火にかけ、水分を飛ばして旨味を限界まで凝縮させる。そこにたっぷりの生クリームを投入する。……キノコ特有のグアニル酸が、クリームの乳脂肪分と結びついて爆発的なコクを生むんだ」
地下室の空気が、ポルチーニ茸の芳醇で、どこか森の奥深くを思わせる深い香りで満たされ始める。緊張で張り詰めていた空気が、少しずつ解れていくのが分かった。
所長は隣のコンロで茹で上がった平打ち麺をフライパンに投入し、手首のスナップを利かせて豪快に煽った。ソースと麺の水分、そして油分が完璧に混ざり合い、とろりとした乳化状態に変わっていく。
「仕上げだ」
所長は火を止めた直後、薄くスライスされた最高級の生ハムを手でちぎって散らした。
「生ハムは決して煮込まない。脂の融点が低いからな。火を通せばただのしょっぱい肉の塊になる。ソースの余熱だけで脂をゆっくりと溶かし出し、クリームに塩気と熟成された肉の旨味を移すんだ」
大皿に盛り付けられたパスタには、粗挽きの黒胡椒が雪のように振りかけられた。
「ポルチーニと生ハムのクリームソース・タリアテッレだ」
私たちは無言でフォークを手にした。
パスタを巻き取り、一口啜る。
「……っ!」
濃厚なクリームの深いコクに、ポルチーニの強烈な香りが鼻腔を一気に抜ける。そして、後から追いかけてくる生ハムの程よい塩気と、とろけるような脂の甘み。それらが完璧なバランスで絡み合い、暴力的なまでの旨味が脳の芯を殴りつけた。
添えられたサラダのシャキシャキとした食感とクレソンの鮮烈な辛味が、濃厚になった口内をリセットし、再びパスタへの欲求を激しく掻き立てる。
「……悔しいけど、最高に美味しいわ。さっきまで殺されかけてたのが嘘みたい」
鞠さんが赤ワインのグラスを片手に、小さく笑みをこぼした。アキさんも無我夢中でパスタを口に運び、「美味い、美味すぎるべ」と唸りながら頬張っている。
食後。私はいつものようにコーヒー豆を挽き、ハンドドリップでコーヒーを淹れた。
「所長、マンデリンです。指示通り、88度で抽出しました」
「……蒸らしの時間が5秒足りない。豆の膨らみが頂点に達する一歩手前で湯を落とせと言ったはずだ。だが、まあ飲める」
所長はマグカップを受け取り、一口飲んで深く息をついた。
地下室に漂うコーヒーの香ばしい香り。
束の間の、穏やかな休息。
しかし、その静寂は、足元で丸くなっていた茶白の子猫・チビの異変によって破られた。
「……シャーッ!!」
チビが突然、全身の毛を逆立て、メインサーバーのラックに向かって牙を剥いたのだ。普段は排熱の温風を浴びて無防備に寝転がっているチビが、見えない敵を威嚇するように低い唸り声を上げている。
同時に。
デスクでヘッドホンを首にかけていたみずほが、顔を強張らせた。
「……おじさん。サーバーのファンの音が変」
「なんだと?」
「回転数が、指示値と全く違う。一定のリズムの裏に……すごく不規則で、気持ち悪い振動音が混じってる。誰かが……中を這い回ってるみたいな音」
所長がマグカップを置き、弾かれたように立ち上がる。左肩の痛みを気にする素振りすら見せず、メインコンソールへと向かった。
「Wait. クニは座ってて」
所長を制止したのは、カナダ人ハッカーのエミリー・ローレンスだった。
彼女は手元のモバイルワークステーションのキーボードに両手を乗せ、モニターを睨みつけた。普段の明るく陽気な表情は完全に消え去り、極北の氷のように冷徹な「ハンター」の顔になっている。
「……信じられない。第一防壁が、破られたんじゃなくて『溶かされてる』わ」
「溶かされてるだと?」
所長が背後からモニターを覗き込む。
不気味な勢いでエラーログが画面を真っ赤に塗り潰していく。
「ブルートフォースじゃない。私たちのシステムの構造を完全に理解した上で、脆弱性の隙間を縫うように侵入してきてる。……動きが人間離れしてるわ。AIの予測アルゴリズム? いや、それにしては『悪意』のベクトルが鋭すぎる」
エミリーの指がキーボードの上で弾け、怒涛のコマンドを叩き込んでいく。
「外部からの物理切断だ! LANを引き抜け!」
「ダメよ! 切断したら、内部のデータごと自爆する構造になってる。……相手は、私たちが物理切断するのを『待ってる』のよ」
エミリーの言葉に、所長が舌打ちをした。
モニターの中央に、黒い背景と白いテキストのシンプルなポップアップが表示される。
そこに刻まれていたのは、たった一つの英単語だった。
『Baal』
「……バール。ソロモン72柱の悪魔の長か。悪趣味なコードネームだ」
「オラクルの放った、暗殺者ね。……物理だけじゃなく、デジタル空間でも私たちを殺しに来たってわけ」
エミリーは薄く笑った。それは、強大な敵を前にしたハッカー特有の、闘争心に火がついた笑みだった。
「Cuteな挨拶ね。でも、土足で上がるのはマナー違反よ」
「エミリー、ポート443の通信音にノイズ!」
みずほがヘッドホンを耳に押し当てて叫ぶ。
「正規のSSL通信に偽装してるけど、中身の周波数が違う! 囮の裏に本命が隠れてる!」
「Copy that!(了解!) ルーティングテーブルを書き換えて、偽の隔離領域へ誘導するわ」
タタタタタタタタッ!!
エミリーのタイピング音が、機関銃のように地下室に鳴り響く。
「……相手のパケット展開速度、毎秒数万回。バカげてるわ。でも、アルゴリズムの『癖』は見えた」
エミリーは不敵に笑い、キーボードを強く弾いた。




