第63話 情報屋のプライド
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
換気扇が低く唸る室内で、熱を帯びた「死闘」が繰り広げられていた。
「……甘いな。ゴール前の守りが手薄だぞ」
所長の阿部邦彦が、床に這いつくばるような低い姿勢で呟いた。
彼の右手の指先には、丸めたアルミホイルの小さなボールがある。その視線の先、サーバーラックと壁の隙間に作られた幅三十センチほどの『ゴール』の前に立ちはだかっているのは、茶白の子猫・チビだ。
チビは姿勢を低くし、短い尻尾をパタパタと振りながら、所長の指先の動きを鋭い目で見据えている。普段のへそ天で眠りこけている平和な姿はどこへやら、完全に野生を取り戻したハンターの顔だ。
「行くぞ。……シュートだ」
所長が中指でアルミボールを弾く。ボールは床の微かな傾斜を拾って不規則に転がりながら、ゴールに向かって一直線に飛んだ。
「ミャッ!」
チビが弾かれたように横っ飛びする。短い前足をいっぱいに伸ばし、見事に空中でボールを叩き落とした。スーパーセーブだ。
「おおーっ! ナイスキーパー!」
私が拍手喝采すると、チビは得意げに鼻を鳴らし、弾き返したアルミボールを前足でチョイチョイと弄んだ。
「……チッ。反応速度が上がってやがる。だが、次はコースを散らす」
「所長、大人気ないですよ。三十歳のいい大人が子猫相手にマジにならないでください」
「遊びではない。動体視力の訓練だ」
所長がさらにアルミホイルを丸めようとした時、彼のデスクの上のスマートフォンが短く震えた。
所長は即座に立ち上がり、画面を一瞥した。
彼の顔から子猫と遊んでいた時の緩みが完全に消え去り、獲物を狙う猛禽のような鋭い眼光に変わった。
「……中島からか?」
所長がスマホを操作する。画面に表示されているのは、都内の地図と、点滅する赤い点。
「SOS信号だ。……あいつ、単独でオラクルの『裏』を叩きに行ったな」
「鞠さんが……!」
前回の解析で、新興のITカルト『オラクル財団』がターミナルケア施設から末期患者の死亡時の脳波データを無断収集し、さらにそれに気づいた関係者を殺害した疑いが濃厚となった。
情報屋であり、第一線の事件記者でもある中島鞠が、その特大の暗部を黙って見過ごすはずがない。彼女は独自のルートで、オラクルの資金洗浄を担うダミー会社か、施設の幹部に直接接触を試みていたはずだ。
危険な橋を渡るのは彼女の常だが、自分からSOSを発信するということは、事態は最悪のフェーズに進行している。
「……馬鹿野郎が。敵はただの詐欺集団じゃない。相手は人の命をシステムのエラー処理程度にしか考えていない、狂った連中だぞ」
所長は足元のチビをひょいと抱き上げてソファに乗せると、壁に立てかけてあった黒いジャケットを羽織った。
「石川、留守番だ。エミリーと小川には状況を共有しておけ。バックアップが必要になるかもしれん」
「所長、一人で行くんですか!?」
「いや」
所長はジャケットの内ポケットに、護身用の伸縮式特殊警棒を滑り込ませた。
「運転手を呼ぶ」
★★★★★★★★★★★
港区、海岸沿いの使われていない古い倉庫街。
潮の匂いと、錆びた鉄の臭いが混ざる薄暗い路地で、中島鞠は冷たいアスファルトの上に膝をついていた。
「……はぁっ、はぁっ……」
息が上がる。切れた唇から血が滲み、口の中が鉄の味がした。
彼女の周囲には、黒いスーツを着た四人の男たちが立っている。皆、体格が良く、感情の抜け落ちた無表情を張り付けていた。
(……やられた。完全に読まれてたわね)
鞠は奥歯を噛み締める。
オラクルと提携する施設『ゆらぎの杜』の裏帳簿を握っているという、元経理担当者。その男からのコンタクトは、彼女の記者としての性分を突いて誘い出すための、巧妙な餌だった。
指定されたこの場所に現れたのは、情報提供者ではなく、実力行使に出る「掃除屋」たちだ。
鞠もただのペンを握るだけの記者ではない。バッグに忍ばせていたスタンガンで一人を昏倒させたが、訓練されたプロの暴力の前に長くは持たなかった。
スマホはすでに奪われ、足元で無残に踏み砕かれている。
阿部に仕込んでもらっていたGPS兼用のSOS発信機を起動できたのが、唯一の救いだった。
「中島鞠。フリージャーナリスト」
リーダー格の男が、無機質な声で鞠を見下ろした。
「嗅ぎ回りすぎだ。オラクルの『ゆらぎの杜』や、ダミー会社である『クロス・インベストメント』の件を記事にする前に、お前には消えてもらう。……東京湾は広い。誰にも見つからんよ」
男が鞠の腕を乱暴に掴み、無理やり引きずり起こそうとする。
「触らないでよ、三流のチンピラが」
鞠は男の手を振り払い、鋭く睨み返した。
恐怖はない。あるのは、出し抜かれた自分への怒りと、ジャーナリストとしての強烈な矜持だけだ。
「強気だな。だが、現実を見ろ」
男が懐から注射器を取り出した。無色透明の液体が入っている。
「大人しく眠れ。苦痛はない」
男が鞠の首筋に注射器を近づけた、その瞬間。
キキィィィィィッ!!
凄まじいタイヤのスキール音が、静寂に包まれた倉庫街を引き裂いた。
黒塗りのステーションワゴン――霊柩車が、猛スピードで路地に突っ込んできたのだ。
「なっ……!?」
男たちが咄嗟に身をかわす。霊柩車は鞠と男たちの間に割り込むようにして急ブレーキをかけ、停止した。
運転席のドアが蹴り開けられる。
「……あぶねえあぶねえ。ちょっとブレーキ踏むの遅れたべ」
降りてきたのは、漆黒のパンツスーツに身を包んだ岡田アキだった。彼女の口元には、好戦的な笑みが浮かんでいる。
助手席からは、無精髭の巨漢――阿部邦彦が、無言で降り立った。
「……遅いわよ、阿部ちゃん」
鞠がふっと息を吐いて笑う。
「ギリギリだ。……怪我は?」
「かすり傷よ。私のプライドの方がよっぽど傷ついてるわ」
「なら問題ない」
阿部は右手に握った特殊警棒をシャキッと伸ばし、男たちに向き直った。
男たちは霊柩車の唐突な乱入に一瞬怯んだが、すぐに懐からナイフや警棒を取り出し、臨戦態勢に入る。
「お前たちも、あの世に送ってやる。やれ!」
リーダーの号令で、三人の男が同時に襲いかかってきた。
「アキ、左の二人は任せる。殺すなよ」
「了解だべ!」
アキがヒールを脱ぎ捨て、裸足でアスファルトを蹴った。元ヤンの喧嘩殺法に、エンバーマーとして鍛え上げた腕力。彼女の鋭い回し蹴りが、一人の男の顎を正確に撃ち抜く。
阿部は真っ直ぐに向かってきたリーダー格の男と対峙した。
男のナイフが、阿部の腹を狙って鋭く突き出される。
阿部はそれを最小限の動きでかわしたが、その顔が微かに歪んだ。先日のファントムとの死闘で負った左肩から背中にかけての重傷が、まだ完全に癒えていないのだ。
激しい痛みが走る。しかし、阿部は痛む左肩を庇いながら、右手一本で警棒を振り下ろした。
ガンッ!
骨に響く鈍い音。男が苦悶の表情を浮かべ、ナイフを取り落とす。
その隙を見逃さず、阿部の警棒が男の膝裏を薙ぎ払った。男がバランスを崩して倒れ込んだところを、阿部は容赦なくその背中を踏みつけ、背中の傷が開くのを堪えながら、男の肩の関節を極めた。
「……ぐぁっ!」
「誰の差し金だ。オラクルか」
阿部が低い声で問い詰める。
男は痛みに顔を歪めながらも、口を割ろうとしない。
「……答えなきゃ、少しずつ関節を外すぞ」
「阿部ちゃん、待って」
背後から鞠が歩み寄り、男の前にしゃがみ込んだ。
彼女の手には、一本の黒い万年筆が握られていた。
「あんたがさっき、私を引きずり起こしてベラベラと御託を並べた時、このペン型レコーダーでバッチリ録音させてもらったわ」
鞠がペンのクリップ部分を操作すると、小さなスピーカーから先ほどの男の声が再生された。
『オラクルの「ゆらぎの杜」や、ダミー会社である「クロス・インベストメント」の件を記事にする前に……』
「……なっ」
男が驚愕の声を漏らす。
「これで裏付けが取れたわ。『ゆらぎの杜』と、資金洗浄のダミー会社の名前。……ジャーナリストを舐めないでって言ったでしょ」
阿部は小さく息を吐き、男を拘束していた力を緩めた。
「……命拾いしたな」
「ええ、本当に危なかったわ。でも、ただじゃ起きないわよ」
鞠はレコーダーをコートのポケットにしまい、ウィンクをした。
アキの方も、残りの二人を完全にノックアウトし、手をパンパンと払っていた。
「ふー、準備運動にもなんねえべ。……鞠さん、無事でよかった」
「アキちゃん、かっこよかったわよ。車、傷つけてない?」
「霊柩車だもん、頑丈にできてるから平気平気」
阿部は特殊警棒を縮め、ポケットに戻した。
「帰るぞ。録音データからさらに情報を絞り込む。……オラクルの本丸に、少し近づいたな」
「ええ。最高の特ダネにしてやるわ」
鞠が誇り高く笑う。
私たちは霊柩車に乗り込み、夜の倉庫街を後にした。




