第62話 告発者の最期
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
密閉された空間に、巨大なサーバーラックの冷却ファンが放つ低い唸り声だけが響いている。
その無機質なノイズを切り裂くように、ヘッドホンを両手で強く押さえた小川みずほが、顔面を蒼白にさせて言葉を紡いだ。
「……心電図がフラットになる音。それと……たくさんの人の、微かな呼吸音。ここは……病院? いや、ホスピスみたいな場所……?」
みずほの口から発せられるのは、彼女自身の言葉ではない。
棺の底から見つかった特殊なUSBメモリ。そこに遺されていた音声ファイル『000.wav』に記録された、掠れた男の声を、絶対音感を持つ彼女がリアルタイムでトレースしていた。
所長である阿部邦彦が、無精髭を撫でながら鋭く目を細める。
「オラクルが提携しているターミナルケアの施設だな。末期患者が死亡する瞬間の脳波を……無断で収集している」
みずほが息を呑んだ。
直後、ドンッ、という鈍い打撃音が彼女の口から擬音として漏れ、そして沈黙が落ちる。
「……殺された」
みずほはゆっくりとヘッドホンを首に下ろし、震える声で言った。
「背後から、何か硬いもので頭を殴られてる。……最後に聞こえたのは、鈍い打撃音と……水が反響する、波のような音」
「波の音……? 地下施設か、それに類する巨大な水槽の近くか」
所長は素早く自身のメインマシンに目を向けた。
「エミリー。一週間前だ。オラクル財団の関連施設、あるいは海辺のデータセンター付近で発生した『事故死』の記録を洗え。警察のデータベースから該当する変死体の情報を引き抜く」
カナダ人ハッカーのエミリー・ローレンスは、真剣な眼差しで自身のモバイルワークステーションのキーボードへ指を滑らせた。高速で流れる文字列の反射光が、彼女の青緑色の瞳を照らす。
「Bingo! 生駒悟、38歳。オラクルの先進医療研究部門でチーフプログラマーをやってた男よ」
エミリーが、モニターの一つを指差す。
「でも、一週間前に死んでる。オラクルの地下データセンターの階段から転落死だって。身よりもないし、警察は過労によるただの事故として処理して終わってるわ。Crazyね……どう考えても消されたんでしょ」
その名を聞いた瞬間。
壁際で腕を組んでいた岡田アキさんが、弾かれたように顔を上げた。彼女の漆黒の喪服の袖が、かすかに震えている。
「……私が一昨日、火葬した『名もなき仏さん』だ」
アキさんの声は、怒りと悔しさでひび割れていた。
「区の委託で、行旅死亡人として回されてきた。……あんなにボロボロの遺体だったのに、私は警察の『事故死』って言葉を疑いもしなかった。ただの孤独死した可哀想な人だって……」
アキさんはギリッと奥歯を噛み締めた。
「あいつは、殺される直前までこのUSBを隠し持ってたんだべ!? 火葬の炎でも燃えないように、特注の耐火ケースに入れて……!」
所長がメインモニターから視線を外し、椅子から立ち上がった。
彼はハンガーにかけてあったグレーのパーカーを無造作に羽織り、壁際のアキさんを見た。
「葬儀屋。行くぞ」
「……え?」
「外の空気を吸う。脳が酸欠だ」
所長はそれだけ言い残し、重たいスチールドアへと向かう。
「石川、後は頼む。エミリー、引き続きデータの深層を洗え。妙なアクセス検知があればすぐに回線を物理切断しろ」
「はい」
私が返事をするよりも早く、所長はドアを開けていた。アキさんは戸惑いながらも、その大きな背中を追いかけて地下室を出て行った。
★★★★★★★★★★★
神田駅の高架下。
ひっきりなしに頭上を通過する電車の轟音と、赤提灯から漏れる炭火の煙が、狭い路地を支配している。
俺が葬儀屋――岡田アキを連れてきたのは、パイプ椅子とビールケースを裏返したテーブルが並ぶ、大衆モツ焼き屋だった。
喪服姿の長身の女と、無精髭に黒パーカーの男。周囲のサラリーマンたちが奇異の目を向けてくるが、気にするだけ無駄だ。俺は無造作にパイプ椅子を引き寄せた。
「……食え。冷めると脂が固まる」
俺は、七輪で焼かれたばかりのシロとカシラの串を、葬儀屋の前の小皿に置いた。
焦げた醤油ダレの香ばしさと、ニンニクの強烈な香りが鼻腔を突く。
葬儀屋は無言でカシラの串を手に取り、一口齧った。
カリッ、と香ばしく焼き上げられた表面が破れ、中から濃厚な肉汁が溢れ出すのが見て取れる。噛み締めるほどに肉の強い旨味と甘辛いタレが混ざり合う、暴力的なまでの「生」のエネルギー。
葬儀屋はたまらず、冷えた生ビールを喉の奥へと流し込んだ。
「……美味い」
「カシラは咀嚼筋だ。よく動かす部位だから旨味が濃い。強火の遠火で表面を焼き固めることで、中に肉汁を閉じ込める。……これが炭火焼きの基本だ」
俺は自分の分のシロにたっぷりと七味唐辛子を振り、ウーロンハイで流し込んだ。
頭上を山手線が通過し、パイプ椅子が微かに振動する。
「……阿部ちゃん」
空になったジョッキの縁を指でなぞりながら、葬儀屋が口を開いた。
「私さ、葬儀屋になってから、ずっと誇りを持ってやってきたんだ。どんな死に方をした人でも、どんな事情がある人でも……最期は綺麗に整えて、ちゃんと『その人』として見送ってやるのが私の仕事だって」
喧騒の中で、あいつの声だけが奇妙なほど輪郭を帯びて聞こえた。
「でも、あの生駒って人は……たった一人で巨大な組織の闇に気づいて、絶望の中で殺された。名前も奪われて、ただの『処理品』みたいに焼かれたんだ。……私が、焼いたんだ」
葬儀屋の目から、せき止められていた一筋の涙がこぼれ落ちた。
「弔いってのは、その人が生きた証を肯定してやることだ。でも、私はあいつの名前すら呼んでやれなかった」
俺はモツを咀嚼し、冷たいウーロンハイを煽った。
死者に寄り添うプロとしての倫理観。立派なものだが、今はそれが枷になっている。
「あいつは耐火カプセルを飲み込んだ。火葬されて骨になれば、必ず業者の目にとまると賭けてな」
「……私が、見つけることを……」
「お前が骨を拾った。あいつの作戦は成功だ。……それ以上でも以下でもない」
電車の轟音が過ぎ去り、一瞬の静寂が落ちる。
俺はジョッキを置き、葬儀屋を真っ直ぐに見据えた。
「いつまでもウジウジしてたら、骨になったあいつに笑われるな」
その言葉に、葬儀屋はハッとして目を見開いた。
同情も感傷もない、ただの事実の羅列。だが、俺に言えるのはそれだけだ。名前を呼ばれなかった悲劇よりも、あいつが命を賭けて遺した『告発』が今、確実にここにあるという事実の方が重い。
袖で乱暴に目元を拭うと、葬儀屋は不敵にニヤリと笑った。
「……相変わらず、可愛くねえ慰め方だべ」
「事実を言ったまでだ」
葬儀屋は店員に向かって、勢いよく手を挙げた。
「すいません! こっち、ガツ刺しと、熱燗二合! あと阿部ちゃんにカシラ追加で!」
★★★★★★★★★★★
二人が地下室に戻ってくると、室内の空気は先ほどよりもさらに冷え込み、張り詰めていた。
エミリーさんが、三面モニターから視線を外さずに声を上げた。
「Welcome back! モツ焼きのいい匂いがするけど、ゆっくり味わってる暇はないわよ」
所長が自分のデスクに座り、モニターに視線を向ける。
「進展はあったか」
「ええ。生駒が遺したあの膨大なリスト。ただの監視対象じゃなかったわ」
エミリーさんがウインドウを切り替えると、モニターに無数の名前と、それに紐づく波形データがスクロール表示された。
「これ、オラクルの『脳波データ収集完了リスト』よ。彼らは全国のホスピスや終末期医療施設と提携して、末期患者が死亡する瞬間の脳波を、本人の同意なしに無断で収集しているわ」
「死の瞬間の脳波……。オラクルは、そんなものを集めて何をする気なんですか?」
私が震える声で尋ねると、所長が低い声で答えた。
「……『意識のデジタル化』だ。人間の意識、記憶、魂。それを構成する電気信号のパターンを極限まで解析し、クラウド上に再現する。オラクルが標榜している『デジタル不死』を現実のものにするための、最も残酷で効率的なデータ収集法だ」
「生駒は、その非人道的なシステムに気づいて告発しようとしたのね……」
エミリーさんが画面をさらに下へとスクロールさせる。
「でも、問題はそれだけじゃないわ。リストの最下層に、厳重にロックされた別フォルダがあったの。ファイル名は『イレギュラー・ターゲット』」
画面に表示された名簿。
そこには、過去にデジタル・アーカイブス社が関わってきた人間たちの名前が並んでいた。
そして、その一番最後に。
『阿部邦彦』
『藤田涼子』
『中島鞠』
『エミリー・ローレンス』
『石川彩』
……私たちチームのメンバーの名前が、はっきりと記載されていた。
「……奴ら、俺たちが嗅ぎ回っていることに、とうの昔に気付いてやがる」
所長は不敵な笑みを浮かべ、キーボードの上に両手を置いた。
「狩られる前に、狩るぞ」
サーバーの冷却ファンが、戦闘開始のゴングのように一段と高い唸りを上げた。




