第61話 棺桶の底のUSB
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
オラクル財団という巨大な影の存在が浮き彫りになり、事務所内にはここ数日、ピリピリとした緊張感が薄皮のように張り付いていた。
サーバーの排熱ファンが低い唸りを上げ、所長の阿部邦彦とエミリー・ローレンスは、それぞれのモニターに向かって無言でキーボードを叩き続けている。
そんな重苦しい空気を、文字通り「お腹を出して」和ませている存在がいた。
「……おい石川。その毛玉をどうにかしろ。排熱口を塞いでいる」
所長が、トリプルモニターから視線を外さずに低い声で言った。
彼の足元、メインサーバーの排熱口から吹き出す温かい風を全身で受け止めるようにして、茶白の子猫・チビが完全に野生を忘れた姿で眠りこけている。
仰向けにひっくり返り、短い前足と後ろ足をバンザイするように投げ出した「へそ天」ポーズだ。ピンク色の小さな肉球が空を向き、スピースピーと規則的な寝息に合わせて、ポンポコリンの白いお腹が上下している。
「ふふっ。可愛すぎます。この無防備さ、平和の象徴ですよ」
私がしゃがみ込んでその柔らかいお腹を指先でそっと撫でると、チビは目を閉じたまま「にゃむ……」と口を動かし、前足で私の指をギュッと抱きしめてきた。たまらない。
「Oh, Kuni! そんな怖い顔しないで。チビの寝顔は最高のストレスリリーフよ。オラクルの暗号化プロトコルを睨み続けて疲れた脳みそには、オキシトシンが必要だわ」
エミリーもチェアを回転させ、チビのへそ天バンザイ姿を見て目を細めた。
所長もそれ以上は文句を言わず、忌々しげに息を吐いてコーヒーのマグカップに手を伸ばした。
その時だった。
ガンッ!
地下室の重厚なスチールドアが、遠慮のない力で押し開けられた。
チビがビクッと跳ね起き、ササッとソファの下へと潜り込む。
現れたのは、漆黒のパンツスーツに身を包んだ、葬儀プランナーの岡田アキだった。
「……所長。ちょっと、厄介なもんが出たべ」
アキさんの顔には、いつもの快活な笑顔はなかった。
透き通るような美しい顔立ちは強張り、息も少し上がっている。彼女は足早に所長のデスクに近づくと、ポケットから小さな透明の証拠品袋を取り出し、デスクの上に置いた。
「なんだ、これは」
所長が眉をひそめる。
袋の中に入っていたのは、親指ほどの大きさの、黒くて分厚い樹脂製のカプセルだった。表面は洗浄されているようだが、どこか生々しい濁りがある。
「今日、うちの葬儀社の保冷庫に安置された『身元不明遺体』から出てきたもんだ」
「……身元不明?」
「ああ。港区の裏路地で倒れていたらしい。所持品ゼロ、指紋の登録もなし。警察の検視では『急性心不全による病死』、事件性なしの行旅死亡人として処理されて、自治体負担で火葬されるまでの間、一時的にうちが預かることになった」
アキさんは、少しだけ吐き気を堪えるように喉を鳴らした。
「でも、私が納棺の前にドライアイスを交換して、お身体の清拭をしていた時に、食道から胃にかけて、不自然な硬い感触があったんだよ。……警察の検死官は外傷がないからって適当に済ませたんだろうけど、私は見落とさなかった。胃の中に、こいつが残ってた」
地下室に、重く冷ややかな沈黙が落ちた。
所長がピンセットを取り出し、袋の中から黒いカプセルを摘み上げる。
「医療用の耐酸性カプセル……いや、密輸犯が体内に薬物を隠す時に使う、テフロン加工のコンテナか」
「所長、それ、開けてみてくれねえか」
アキさんが真剣な目で言った。
「事件性なしってことで処理された人だ。無縁仏として、誰にも知られずに骨になる。……でもな、死ぬ前にこんなもん、わざわざ飲み込んでまで胃袋に隠したんだ。絶対に、誰かに伝えたかった『最期の言葉』があるはずだべ」
所長は無言でカプセルの合わせ目を観察し、精密ドライバーを差し込んでこじ開けた。
パキッという音とともにカプセルが割れ、中から小さな物体が転がり出た。
「……マイクロSDカードを変換アダプタに挿した、小型のUSBメモリか」
所長がそれを見つめる。
胃液の浸食から完璧に守られていたそれは、銀色の端子を冷たく光らせていた。
「エミリー。サンドボックス環境の確認だ。外部ネットワークへの物理切断、Wi-Fiモジュール、Bluetooth、そしてオーディオインターフェースの無効化を再確認しろ」
「Copy that! 物理的にも論理的にも完全な『密室』よ。どんな凶悪なマルウェアが飛び出してきても、このPCから外には一歩も出られないわ」
かつて法廷の魔女・涼子の元婚約者が持ち込んだ「音響通信」によるマルウェアの脱出未遂。あの教訓は、所長の警戒心を最大レベルに引き上げていた。
所長はピンセットでUSBメモリを摘み、隔離された検証用PCのポートに慎重に差し込んだ。
画面に、デバイスの認識を知らせるポップアップが出る。
「……ファイルシステムは生きている。だが、全体が強力な暗号化コンテナで覆われているな。AES-256……いや、独自のアルゴリズムか」
所長の指がキーボードの上を走り始める。
黒いコンソール画面が立ち上がり、無数のヘックスダンプが恐ろしい速度で画面を塗り潰していく。CPU温度の警告アラートが、赤く小さく点滅を始めた。
「エミリー、並列処理で総当たりをかける。ハッシュのパターンから暗号化の癖を割り出せ」
「了解。……でもクニ、これ、オラクルのサーバーで見たアルゴリズムに似てない? パケットの暗号化方式が、あのAIの生成パターンとそっくりよ」
エミリーの言葉に、所長のタイピングが一瞬だけ止まった。
「……オラクルだと?」
身元不明の遺体の胃の中から出てきたデータが、オラクル財団に繋がっている。
それは、この身元不明遺体がただの行き倒れではないことを意味していた。
「……エミリーの言う通りだ。暗号鍵の生成プロセスに、オラクルのAI特有の『揺らぎ』が混ざっている」
所長は鋭い目つきでモニターを睨み据えた。
「この揺らぎのパターンを逆算する。エミリー、お前のモバイルワークステーションの演算能力もローカルで繋げ。辞書攻撃のリストをオラクルの関連用語に絞り込み、並列で回すぞ」
「OK、GPUのフルパワーを使うわ。冷却ファン、限界まで回すからうるさくなるわよ!」
2人の凄まじいタイピング音が地下室に響き渡る。検証用PCとエミリーの端末から、悲鳴のような排熱音が上がり、室内の温度がじりじりと上昇していく。
10分、20分と経過しても、強固な暗号化コンテナは口を割らない。所長の額にじっとりと汗が滲んでいた。
「……クソッ、鍵の更新周期が早すぎる。ブロックチェーンの技術を応用してやがるな」
「クニ、焦らないで。更新の瞬間に生じる0.01秒のタイムラグ……そこに、総当たりのパケットを一極集中させるわ。タイミングを合わせて!」
「……3、2、1、今だ!」
所長がエンターキーを強く叩き込んだ。
画面上の無数のエラーメッセージがピタリと止まり、暗号化コンテナのプログレスバーが一気に100パーセントに達した。
「……解除できた。中身を展開する」
所長が荒い息を吐きながら、フォルダを開く。
画面に表示されたのは、無数の名前と文字列が並んだ、巨大な表計算データだった。
「なんだ、これは……名簿?」
私が画面を覗き込む。
名前の横には、年齢、性別、そして『適性ランク』という謎の項目と、『同期率』というパーセンテージが記されていた。
「待って。この名前……」
ソファで仮眠を取っていたみずほが、いつの間にか起きてきてモニターを指差した。
「この『佐々木 健』って人。この間、オラクルの検索エンジンからデジタルタトゥーを消してあげた、あの依頼人のお兄さんじゃない?」
みずほの記憶力に、全員が息を呑む。
所長がデータをスクロールしていくと、そこには過去に『デジタル・アーカイブス社』が関わった人物や、その周辺の人物の名前がいくつも含まれていた。
「オラクルが収集している、特定のターゲットのリストか……。だが、何のためのリストだ?」
所長がさらにフォルダの奥を漁ると、1つだけ、音声ファイルが残されていた。ファイル名は『000』。
「……小川。出番だ」
所長がオーディオジャックにヘッドホンを繋ぎ、みずほに差し出す。隔離環境のため、スピーカーからの出力は物理的にカットされている。
みずほは無言でヘッドホンを受け取り、耳に当てて目を閉じた。
「ノイズが酷いな。環境音の周波数を削るぞ」
所長がマウスでイコライザーを調整し、音声の輪郭をクリアにしていく。
みずほは眉間に皺を寄せ、神経を研ぎ澄ませて「音」の奥底を探っていく。
「……すごく、乾いた音。大きなサーバーの排熱音が反響してる。……かなり広い空間。地下……いや、壁の材質が違う」
みずほが呟く。
「声が聞こえる。……掠れた、男の人の声」
みずほは、聞こえてきた声を、そのまま自分の口でトレースするように語り始めた。
『……はぁっ……はぁ……』
荒い、異常なほど切羽詰まった息遣い。
『……逃げ……られない……薬が……』
「薬?」
みずほが顔をしかめる。
『……エリュ……シオン……は……だめだ……』
『……記憶……吸われる……みんな、脳を……』
「……うん。息も絶え絶えで、声が酷く震えてる。何を言ってるのか、ところどころ途切れてる」
みずほはさらに耳を澄ませた。
『……オラクル……とめて……。あれは、人間を……』
音声は、そこでプツンと途切れていた。
みずほがゆっくりとヘッドホンを外した。
その顔は、少しだけ青ざめていた。
「……最後に、変な音が聞こえた。何か重いものが倒れるような音と……低い、波の音?」
「波の音だと?」
「うん。微かだけど、確かに水の反響音がした」
所長は腕組みをし、鋭い視線をモニターに向けた。
「エリュシオン……。そして、記憶を吸われる、脳、か。オラクルという組織の根幹に関わる、内部告発の可能性が高い」
「所長」
アキさんが、静かに口を開いた。
「このUSBを飲み込んだ人は、オラクルに殺されたってことか?」
「急性心不全と見せかける薬物など、裏の世界にはいくらでもある。検死官の目を誤魔化せるような高度な毒を使い、身元を完全に隠滅して遺棄したんだろうな」
所長は、USBメモリをじっと見つめた。
「だが、奴らは1つだけミスを犯した。この男が、自分の胃袋に証拠を隠し、それを執念深い葬儀屋が見つけ出すというイレギュラーを予測できなかったことだ」
アキさんは持参したカプセルの入った袋をしっかりと握りしめた。ただの行き倒れとして燃やされるはずだった男の遺品。
「……所長。この人の『遺品整理』、受けてくれるか」
「依頼人は死者本人、代理人は第1発見者だな」
所長が立ち上がり、いつもの不機嫌そうな顔で、しかし確かな熱を帯びた声で言った。
「引き受けよう。……オラクルの腹の底、限界まで引っ掻き回してやる」
足元で、ソファの下から這い出してきたチビが「ミャウ」と短く鳴いた。
所長はコンソール画面のログを保存し、次なる解析の準備へと手を動かし始めた。




