第60話 忘却の権利
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
換気扇が回る低い音と、サーバーラックの規則的な駆動音が響く中、私の足元で小さな命が躍動していた。
「……こら、チビ。それはおもちゃじゃないよ」
茶白の子猫・チビは、私が落とした丸めた付箋紙を前足で器用にドリブルし、ソファの脚に隠れては飛び出すという一人遊びに夢中になっていた。短い尻尾をピンと立て、狩猟本能を丸出しにして付箋紙に飛びかかる姿はたまらなく愛らしい。
最終的に、チビは付箋紙をくわえたままトコトコと歩き出し、所長の脱ぎ捨てたスリッパの中にそれをポトリと落とし、満足げに「ミャウ」と鳴いた。
「……おい石川。俺のスリッパをゴミ箱代わりにするよう教育した覚えはないぞ」
トリプルモニターの前に座る所長が、振り返りもせずに低い声で言った。
「私じゃありません。チビなりのプレゼントですよ」
「いらん」
日常のやり取りを交わしつつも、地下室の空気はピンと張り詰めている。
ソファには、依頼人の青年・佐々木さんが身を縮めるようにして座っていた。手元の冷めた紙コップのコーヒーを見つめる彼の指先は、小刻みに震えている。
彼の過去の過ちを蒸し返し、無限に悪意の記事を自動生成し続ける検索エンジンの異常。先ほど、その背後に『オラクル財団』の影があると判明してから、所長たちは即座に解決策の構築へと動いていた。
カツ、カツ、と階段を降りてくる小気味良いヒールの音が響いた。
重厚なスチールドアが開き、情報屋の中島鞠が姿を見せる。彼女はタイトなシルエットのトレンチコートを脱ぎながら、片手に持ったタブレットを所長のデスクに滑らせた。
「お待たせ、坊やたち。オラクルの検索アルゴリズム、コアの仕様を抜いてきたわよ」
「……相変わらず、どこからそんな情報を引っ張ってくるんだ」
「企業秘密。まあ、あそこのダミー会社に出入りしてるエンジニアの弱みを少々ね」
鞠は悪びれる様子もなく微笑み、佐々木さんに軽く目配せをしてから、所長の隣に立った。
カナダ人ハッカーのエミリー・ローレンスも椅子を滑らせてモニターを覗き込む。
「オラクルのクローラーは、情報の鮮度とユーザーの滞在時間を異常なまでに重み付けしているわ」
鞠が画面を指差す。
「過去の事件のキーワードと佐々木くんの名前が結びついた記事を自動生成し、さらにボットを使ってそのページに数分間滞在させる。AIはそれを人間にとって価値のある重要な情報だと誤認して、トップページに固定し続ける仕組みよ」
「悪質なSEOの極みね。人力じゃ絶対に勝てないわ」
エミリーが舌打ちをした。
「逆に言えば」
所長がキーボードを叩き、タブレットのデータを自身のメインマシンに吸い上げた。
「その評価関数の偏りを利用すれば、AIに別の学習を強制できる」
「……どういうことですか?」
佐々木さんがおずおずと尋ねた。
所長は視線をモニターに向けたまま答える。
「逆SEOの進化版だ。通常は、見せたくない記事の順位を下げるために、別の優良なサイトを作って上位を埋める。だが、相手がAIで無限生成してくるなら、こちらもAIのルールに則って毒を盛る」
「なるほど、データポイズニングね」
エミリーが即座に意図を理解し、自身のモバイルワークステーションのコンソールを立ち上げた。
「対象の名前と、事件とは全く無関係な、AIがノイズと判断するような無意味な情報を大量に紐づけて、オラクルのクローラーに食わせるのね」
「ああ。天候データ、株価の乱数、中世ヨーロッパの農作物の収穫量。なんでもいい。佐々木の名前とそれらの文字列を結合したメタデータを、世界中のプロキシを経由してオラクルのサーバー群に叩き込む」
所長の指先が、流れるような無駄のない動きでキーボードの上を滑り始めた。複雑なスクリプトが次々と組み上げられていく。
「小川」
所長が声をかけると、奥のデスクで丸くなっていた小川みずほが顔を上げた。
「オラクルのサーバーの応答速度を監視しろ。負荷が上がりすぎれば、相手の防性AIがこちらの攻撃を遮断してくる。ギリギリのラインを維持するんだ」
「了解。音で波を拾うよ」
みずほは愛用の大型ヘッドホンを両耳にしっかりと当て、目を閉じた。彼女の絶対音感は、ネットワークのトラフィックが発する微細な電子音の乱れや、サーバーの冷却ファンの回転数の変化すらも、一つのオーケストラのように聞き分けることができる。
「……エンゲージ」
所長の合図とともに、エミリーがエンターキーを強く叩いた。
静寂な地下室の中で、目に見えない巨大なデータの奔流が放たれた。
モニター上には、オラクルの検索エンジンに対するトラフィックのグラフが表示されている。赤い線が、垂直に近い角度で跳ね上がっていく。
「パケット到達率、98%。オラクルのクローラーが食いついたわ!」エミリーが叫ぶ。
「……待って。相手のサーバー、処理速度落としてる。ファンの回転音が低くなった。防性AIが異常を検知したかも」
みずほが目を閉じたまま、鋭く指摘する。
「遮断される前に学習を完了させる。エミリー、ダミーのセッションデータを付与しろ。ノイズを価値のある情報と誤認させろ」
「やってる! でも向こうのアルゴリズム、自己書き換えで弾こうとしてるわ!」
「力で押し込め。鞠、海外のダミーIPのリスト、まだあるか」
「もちろんよ。好きなだけ使いなさい」
鞠が手元の端末を操作し、新たなルートを次々と開く。
緊迫した数十秒。
キーボードの鋭い打鍵音と、限界まで稼働するサーバーの唸り声だけが響く。
私は祈るような気持ちで、ただ息を潜めてモニターを見つめることしかできなかった。ソファの佐々木さんも、両手を固く組んで画面を凝視している。
「……ピッチが乱れた」
みずほがつぶやいた。
「AIの評価関数が揺らいでる音だ。インデックスが更新されていくよ」
所長の画面の右半分には、佐々木さんの名前で検索した結果がリアルタイムで表示されていた。
今までトップページを埋め尽くしていた過去の事件のまとめサイトが、一つ、また一つと姿を消していく。代わりに表示されるのは、何の意味も持たないランダムな文字列の羅列や、エラーページばかりだ。
「……順位、降下中。2ページ目、5ページ目……」エミリーが数値を読み上げる。
「もっと沈めろ。深海までだ」
所長がさらにコマンドを打ち込む。
やがて、みずほがヘッドホンをずらして首にかけ、深く息を吐いた。
「……終わった。オラクルのクローラーが、対象キーワードの重み付けを完全に放棄したよ。検索結果から弾かれ始めた」
「完璧ね」
鞠が小さく笑う。
所長がメインマシンのキーボードから手を離した。
「……確認しろ」
佐々木さんが、震える手で自身のスマホを取り出し、検索窓に自分の名前を打ち込んだ。
結果表示。
トップページに、あの忌まわしい過去の事件の記事はない。同姓同名の別人のSNSアカウントや、無関係な企業のページが並んでいるだけだ。
2ページ目、3ページ目とスクロールしても、彼を糾弾する言葉はどこにも見当たらなかった。
「……消えた。本当に、消えた……」
佐々木さんの両目から、せき止められていた感情が堰を切ったように溢れ出した。
彼はスマホを両手で包み込むようにして持ち、肩を震わせて嗚咽を漏らした。それは、何ヶ月も彼を縛り付けていた透明な鎖が断ち切られた瞬間の、魂の叫びだった。
「ありがとうございます……っ。これで、やっと……」
「勘違いするな」
所長の冷ややかな声が、地下室に響いた。
佐々木さんがびくっとして顔を上げる。
「データは完全に消滅したわけじゃない。オラクルの巨大なサーバーの奥底、検索エンジンの圏外……誰も見向きもしない電子の深海に沈めただけだ。悪意を持って深く潜れば、いつかまた見つかる可能性はゼロじゃない」
所長の言葉は、いつものように冷徹で、残酷な事実を容赦なく突きつける。甘い嘘で依頼人を安心させるのではなく、現実と向き合わせるのが彼のやり方だ。
佐々木さんは袖口で乱暴に涙を拭い、しっかりと所長を見た。
「……はい。分かっています。僕がやった過去の過ちは、なかったことにはならない。でも……誰も見ない場所に沈めてくれたなら。僕はもう一度、社会の中で生き直す努力ができます。今度こそ、逃げずに」
佐々木さんの声には、先ほどまでの怯えはなかった。地に足の着いた、確かな決意が宿っていた。
その時、「ミャウ」と小さな声がした。
いつの間にかチビが佐々木さんの足元に擦り寄り、スラックスの裾に頭をぐりぐりと押し付けていた。
まるで彼を労っているかのようなその仕草に、佐々木さんの口元に柔らかな笑みが浮かぶ。彼はそっとしゃがみ込み、チビの頭を撫でた。チビは気持ちよさそうに目を細めている。
所長は椅子の背もたれに深く寄りかかり、その様子を静かに見つめていた。
「……人は忘れるから前に進める」
所長がポツリと呟いた。
「デジタルの馬鹿正直な記憶力なんざ、人間の都合に合わせてバグらせておけばいい」
「……はい」
佐々木さんは立ち上がり、深く頭を下げた。
「このご恩は、一生忘れません」
「忘れていい」
所長はふんと鼻を鳴らした。
「過去と一緒に、こんな薄暗い地下室の記憶なんか、さっさと脳のゴミ箱に捨ててしまえ」
「素直じゃないわねえ、相変わらず」
鞠が肩をすくめる。
「Well done! 最高の仕事だったわよ、私たち!」
エミリーが伸びをしながら笑う。
「……あー、疲れた。おじさん、耳使ったらお腹すいた」
みずほがデスクに突っ伏す。
「石川。いつまで突っ立っている」
所長に呼ばれ、私はハッとして背筋を伸ばした。
「あ、はい!」
「客が帰るぞ。地上まで見送ってこい」
「かしこまりました」
私はドアを開け、佐々木さんを促した。
「どうぞ、こちらへ」
「石川さん、皆さん……本当に、ありがとうございました」
佐々木さんの顔は、この事務所に来た時の暗い絶望から抜け出し、晴れやかなものに変わっていた。
階段を上り、神保町の路地裏に出る。
外はすっかり日が昇り、穏やかな昼下がりの空気が流れていた。
佐々木さんの背中が見えなくなるまで見送ってから、私は再び地下への階段を降りた。
重たいスチールドアを開けると、そこにはいつも通りの、少し騒がしくて温かい空間が広がっていた。
「おい石川。豆を挽け」
所長が、キッチンのカウンターでエスプレッソマシンの電源を入れながら指示を飛ばす。
「今日は深煎りのフレンチローストだ。湯の温度は92度。一滴の雑味も許さんぞ」
「はいはい、わかってますよ」
私はエプロンを締め、コーヒーミルを手にした。
ゴリゴリと豆を挽く小気味良い音と、鼻腔をくすぐる深く芳醇な香りが、地下室に満ちていく。
足元では、チビが私のエプロンの紐にじゃれついていた。




