第59話 消せないデジタルタトゥー
表参道でのジェラートによる「息抜き」から一夜明けた、神保町の地下『デジタル・アーカイブス社』。
昨夜、涼子さんの元婚約者・高遠が持ち込んだマルウェアの「音響通信による脱出」を間一髪で阻止した直後のピリピリとした熱気は、いくらか落ち着きを取り戻していた。
無機質なコンクリートの壁に囲まれた室内には、サーバーラックの冷却ファンの低い唸り声と、キーボードを叩く軽快な音だけが響いている。
カナダ人ハッカーのエミリー・ローレンスは、ネットワークから完全に物理切断された隔離用PCの前に座り、マルウェアの残骸のコードを一行ずつ解剖するように解析し続けていた。
「……しぶといわね。自己書き換えを伴う高度な難読化がかかってる」
エミリーが大きく背伸びをして、疲れたように息を吐いた。
「物理切断された瞬間に、コアのアルゴリズムが自身を暗号化してロックをかけたみたい。ダミーコードが迷路みたいに絡み合ってて、これ以上奥に進むには、かなり時間がかかりそう」
「ああ。だが、奴らが『音』を媒介にしてまで俺たちのシステムに侵入しようとした意図は確認できた。……ひとまず、隔離領域に封じ込めたままでいい」
所長がトリプルモニターから視線を外し、椅子を後ろに蹴って立ち上がった。目の下には深いクマが刻まれているが、纏う空気は少しだけ普段の落ち着きを取り戻している。昨夜のみずほちゃんとの外出が、彼なりのクールダウンになったのかもしれない。当のみずほちゃんは、今ソファの隅で丸くなり、ヘッドホンを首にかけたまま茶白の子猫・チビとじゃれ合っている。
「……腹が減った。飯にするぞ」
所長がキッチンに向かい、袖をまくり上げた。
「石川、サラダの準備だ。冷蔵庫にあるサラダ菜、茹でたブロッコリー、トマト、ホワイトアスパラを大皿に盛れ。水気は完璧に切るんだぞ。生ハムはイタリア産のプロシュートと、スペイン産のハモン・セラーノの二種類だ」
「はい、すぐやります」
私はエプロンを掛け、色鮮やかな野菜たちを水切り器にかけた。透けるように薄い二種類の生ハムを、花びらのようにふんわりと添えていく。
その間、所長は手早くスパゲッティのソースに取り掛かっていた。彼は何も言わずに、ただ黙々と手を動かしている。
みじん切りにした玉ねぎ、セロリ、人参を、たっぷりのオリーブオイルでじっくりと炒める。甘く香ばしい匂いが立ち上ってきたところで、別のフライパンに牛と豚の合い挽き肉が投入された。
所長は、肉をすぐにはかき混ぜない。木べらを使って、肉をフライパンの鍋肌に力強く押し付けたまま、しばらく放置している。肉の表面にしっかりとした焦げ目をつけて、メイラード反応による野性的な香ばしさを最大限に引き出しているのだ。
肉に十分な焼き色がつき、脂が滲み出たところで、ようやく先ほどの野菜と合わせた。そして、キッチンの隅に置いてあった飲みかけの安い赤ワインのボトルを掴むと、豪快にフライパンへ注ぎ込んだ。
ジュワァァッ! という爆発的な音とともに、アルコールが蒸発し、芳醇な香りが地下室を包み込む。
そこにホールトマトを加え、所長は手で無骨に握り潰しながらソースに馴染ませていく。あとは火を弱め、時折鍋を揺らしながら塩と黒胡椒だけで味を調えていく。コンソメもケチャップも使わない、素材の力だけで勝負するプロ顔負けの調理の手際を、私はただ見惚れるように観察していた。
「……相変わらず、ここは古本屋の地下とは思えない匂いがするわね」
コツ、コツ、と小気味良いヒールの音を響かせて、大家の後藤かほりさんが階段を降りてきた。その手には、ホコリを被った古めかしいワインボトルが抱えられている。
「大家、なんだそれは」
所長が手を止めずに尋ねる。
「実家の蔵の整理を業者に頼んだら、親父の代から放置されてた古い木箱が出てきてね。どうせ一人じゃ開けられないし、下からいい匂いがしてきたから持ってきたのよ」
かほりさんがテーブルに置いたボトルのラベルを見て、書類仕事をしていた涼子さんが小さく声を上げた。
「ちょっと大家さん、それ『シャトー・マルゴー』の1981年じゃない! ボルドーの女王よ」
「あら、そうなの? 保管状態は悪くないと思うけど。せっかくだから、そのミートソースに合わせて開けましょうよ」
かほりさんはソムリエナイフを取り出し、崩れやすくなった古いコルクを慎重に抜き取った。
コルクが抜かれた瞬間、眠りから覚めた芳醇な香りが、スパイスの匂いを優しく包み込んだ。カシス、腐葉土、シダーウッド、そして微かな葉巻の香り。何十年もの深い眠りから覚めた複雑で官能的な香りが、ミートソースの力強い匂いと不思議なほど調和していく。
「……茹で上がった。食え」
所長が、深皿に山盛りにしたミートソース・スパゲッティをテーブルに運んできた。
私たちはフォークを手に取った。アルデンテのパスタに、肉の強烈な旨味とトマトの酸味が絡みつく。噛み締めるほどに、野菜の甘みと赤ワインのコクが押し寄せてくる。
そこに、シャトー・マルゴーの滑らかで優雅な渋みが流れ込む。重厚な肉の脂を、数十年の時を経たワインが優しく包み込み、流していく。完璧なマリアージュだった。
食後は、所長が丁寧にハンドドリップで淹れた深煎りのコーヒーが振る舞われた。カップから立ち上る香ばしい苦味が、ワインと食事の余韻を静かに引き締めてくれる。
だが、その穏やかな時間は、控えめなノックの音によって破られた。
私が重いスチールドアを開けると、そこに立っていたのは、酷く憔悴した様子の20代後半の青年だった。
目の下には濃いクマができ、シャツの襟元はヨレている。まるで何日も眠っていないような、追い詰められた目。
「あの……こちらで、ネットの情報を完全に消してくれると聞いて……」
依頼人の青年は、佐々木さんといった。
彼はソファに座るなり、震える手で自身のスマートフォンをテーブルに置いた。
「……消えないんです。何度消しても、甦ってくる」
佐々木さんが語ったのは、過去の過ちだった。
5年前の学生時代。彼は仲間との飲み会で度を越し、不適切な悪ふざけの動画をSNSに投稿してしまった。いわゆる「バイトテロ」に近い炎上事件。彼はすぐに特定され、猛烈なバッシングを受けた。大学は停学になり、多額の賠償金も払い、謝罪してアカウントも消去した。深い反省と共に、彼は社会の片隅で静かに生き直そうとしていた。
「専門の削除業者に高いお金を払って、まとめサイトや掲示板のログも可能な限り消してもらいました。……でも、先月から突然、また僕の名前が検索エンジンのトップに出始めたんです。しかも……」
佐々木さんは顔を覆った。
「決まりかけていた再就職の面接で、内定を取り消されました。どんなに消しても、新しい記事が勝手に作られて、検索の1ページ目に固定されるんです。僕は一生、あの過去から逃げられないんでしょうか……」
所長が無言でPCに向かい、佐々木さんの名前を検索エンジンに入力した。
即座に、数百万件のヒットが表示される。トップページを埋め尽くしているのは、佐々木さんの過去の事件を糾弾する無数のまとめサイトやニュースブログだった。
「エミリー、このサイト群の更新履歴とトラフィックを洗ってくれ」
所長の指示に、エミリーが自分のモバイルワークステーションのキーボードを軽快に叩き始める。
「……異常ね。このサイト群、ドメインもサーバーの所在地もバラバラだけど、記事の生成速度が人間じゃないわ。文脈を微妙に変えて、SEO対策を完璧に施した上で、AIが全自動で無限にバリエーションを作ってる」
「ああ。単なるコピペサイトの量産じゃない」
所長も自らのメインマシンのキーボードを叩き、いくつかの異なる検索クエリを投げては、順位の変動を確認していく。その眉間には、深い皺が刻まれていた。
「だが、それだけで検索トップをこれほど短期間で独占できるはずがない。被リンクの偽装か? ……いや、違う。従来のSEOスパムの手法なら、検索エンジンのスパムフィルターで弾かれているはずだ」
所長の指が止まり、画面のコードの羅列をじっと睨みつける。地下室に、重たい沈黙が降りた。
数分の試行錯誤の後、所長は低く唸るような声を漏らした。
「……検索エンジンのクローラ自体が騙されている。いや、違うな。ランキングの評価アルゴリズム自体が、外部から干渉を受けているんだ」
「Wait...」
エミリーの顔から血の気が引いた。
「アルゴリズムに直接干渉してるっていうの? あり得ないわ。世界最大シェアのインフラよ?」
「物理的な侵入じゃない。AI同士のAPI連携の隙を突いた『データポイズニング』だ。評価テーブルの学習データそのものを、外部から意図的に汚染している」
所長はモニターの青白い光を浴びながら、冷徹な視線を宙に向けた。
「……こんな大規模なシステム干渉を、足跡を残さずにやれる連中は、今のところ一つしか思い浮かばん。先日、俺たちのデータを狙ってきた奴らだ」
「オラクル財団……」
涼子さんが、険しい顔で呟いた。
「あいつらが、検索エンジンを背後から操っているの?」
「一度貼られたレッテルを、システムを使って半永久的に拡散し続ける。……おそらく、こいつは奴らの新しいアルゴリズムのテストケースにされたんだ」
人間の手による私刑ではない。アルゴリズムという感情を持たない機械が、永遠に人間を裁き続けるシステム。
「僕は……どうすれば……」
佐々木さんが、絶望に押し潰されたようにうなだれた。
私は彼にかける言葉を見つけられず、ただゆっくりと立ち上がり、キッチンで温かいほうじ茶を淹れて、彼の震える手の前にそっと置くことしかできなかった。
所長は、画面上で増殖し続ける佐々木さんのデジタルの傷跡を静かに睨みつけると、再び自分のキーボードの上に、ゆっくりと両手を置いた。




