第58話 魔女の元カレ(後編)
プツン、という小さな音と共に検証用PCの画面が暗転し、地下室に耳鳴りがするほどの静寂が降りてきた。
私が咄嗟にコンセントから電源ケーブルを引き抜いたことで、スピーカーから発せられようとしていた高周波――エアギャップを越えて外部と接続しようとする音響通信は、間一髪で未遂に終わった。
「……ナイス判断だ、石川」
所長の阿部邦彦が、這うような低い声で言った。
彼は立ち上がると、無言のまま検証用PCのケースを開け、デスクの引き出しから精密ドライバーとニッパーを取り出した。そして、マザーボード上のオーディオチップ周辺の配線を躊躇いなく切断し、スピーカーモジュールとマイク端子を物理的に破壊して取り除いた。
「Wi-Fiモジュールはすでにハードウェアレベルで無効化してあるが、念には念を入れる。これで音の入出力経路も完全に死んだ。……完全な密室だ。どんな凶悪なマルウェアだろうと、物理的に脱出経路を絶たれた今は、ただ空回りを続けるだけのジャンクコードだ」
所長は切断した細いケーブルの残骸を払い落とし、再び電源ケーブルをコンセントに挿し直してPCを起動した。
OSが立ち上がると同時に、冷却ファンが再び悲鳴のような爆音を上げ始める。隔離環境のステータスモニターの数値が、異常な速度で跳ね上がった。
「……CPU使用率100%。完全にリソースを食い潰してるわね」
隣の分析用PCからステータスを確認していたカナダ人ハッカーのエミリー・ローレンスが、呆れたように肩をすくめた。
所長は動じることなくキーボードを叩き、フリーズ寸前の検証用PCからログデータだけを安全な領域へと抽出していく。
「行儀の悪いプログラムね」
「ああ。PDFを開いた瞬間にバックグラウンドで実行され、ローカルのファイルディレクトリをスキャンしている。そして、集めたデータを外部のサーバーに送信しようとして……出口が見つからず、接続試行の無限ループに陥ってCPUを無駄に回している状態だ」
所長は抽出したパケットログをメインモニターに展開した。
無数の文字列が滝のように流れる。
「スパイウェアね」
腕を組んでモニターを見つめていた弁護士の藤田涼子さんが、不快そうに眉をひそめた。
「しかも、ただの既製品じゃない。ターゲットの環境に合わせてカスタマイズされた、かなり悪質な代物だ。……エミリー、この迷子になっているパケットの宛先IPアドレスを割り出せるか」
「Easyよ」
エミリーは一瞬で三面モニターのログを視線で薙ぎ払い、迷いなく特定のIPを弾き出した。数秒後、画面に一つのIPアドレスと、それに紐づくサーバー情報が表示される。
「ビンゴ。……クニ、このIP、どこのサーバー?」
所長がさらに検索スクリプトを走らせ、プロバイダの情報を照会する。
「某大手クラウドサービスのレンタルサーバーだ。だが、ダミーを経由していない。契約者の足跡は簡単に追えるぞ。……ドメインの登録者情報は」
「……嘘でしょ」
画面に表示された登録者名を見て、涼子さんが絶句した。
そこにあったのは、先ほどまでこの部屋にいた元婚約者の男――高遠が所属する、大手法律事務所の関連会社の名前だった。
「……彼が自分で用意したのかしら。だとしたら、あまりにもお粗末ね」
「ハッキングの素人が、業者から買ったツールをそのまま使ったんだろうな。痕跡を消す技術も知識もない」
所長は無表情のまま冷酷に事実を告げた。
「だが、確実に法には触れる。不正指令電磁的記録供用罪、ならびに不正アクセス禁止法違反未遂だ。……涼子、このデータ、どう使う?」
涼子さんは口角だけで薄く笑い、声のトーンをさらに一段落とした。
「決まってるわ。……完璧な反撃のカードよ」
★★★★★★★★★★★
翌日の午後。
涼子さんは自分の法律事務所ではなく、デジアカの地下室でスマートフォンを耳に当てていた。スピーカーホンに設定された端末から、コール音が数回鳴った後、聞き覚えのある男の声が響いた。
相手はもちろん、元婚約者の高遠だ。
「もしもし。私よ」
涼子さんの声は、ひどく落ち着いていた。怒りも、落胆も、そこにはない。ただ、事実を確認するだけの冷徹なトーン。
『……ああ、涼子。昨日の和解案、見てくれたかな? 君にとっても悪い話じゃないはずだ』
電話越しに聞こえる男の声は、どこか見下したような、薄っぺらい余裕に満ちていた。
「ええ、拝見したわ。とても興味深い内容だった。特に、PDFファイルに隠されていた『追伸』がね」
『……追伸? 何のことだ?』
「とぼけなくていいわ。貴方が置いていったUSBメモリ、うちの専属エンジニアが徹底的に解析させてもらったの」
涼子さんは手元にある、所長が作成した分厚い解析レポートの表紙を指先でなぞった。
「ファイル名『和解合意書.pdf』。開くと同時に展開されるトロイの木馬型のスパイウェアよ」
電話の向こうで、高遠の浅い呼吸音だけが微かに聞こえた。
『な、何を言っている。誰かが勝手に……!』
「IPの宛先は貴方の事務所のサーバー。ソースコードには貴方の事務所の独自のスクリプト。そして何より、このUSBメモリを直接手渡した防犯カメラの映像が残っている。言い逃れは無用よ」
反論の隙を与えず、涼子さんは淡々と事実で退路を断っていく。沈黙が落ちた電話越しに、相手の激しい動揺が手に取るように伝わってきた。
『待て、涼子! それは……!』
「条件を伝えるわ」
涼子さんは、かつて愛した男の情けない声を無慈悲に遮った。
「貴方が担当している、うちのクライアントに対する不当な訴訟。あれを今すぐ全て取り下げなさい。そして二度と、私の前に姿を現さないこと」
『……』
「少しでも妙な動きを見せたら、懲戒委員会と警察にこのデータを送るわ。……返事は?」
長い、張り詰めた沈黙。
やがて、絞り出すような擦れた声で『……分かった』とだけ聞こえ、涼子さんは静かに通話を切った。
「……終わったようだな」
所長がキッチンのコンロに火をつけながら言った。
涼子さんはスマホをテーブルに放り投げ、ソファに深く腰掛けた。
「ええ。完全勝利よ。……でも、ちっとも嬉しくないわね。あんな程度の低い罠を仕掛けてくる男と結婚しようとしていたなんて、自分の見る目のなさに呆れるわ」
「……」
所長は何も答えず、ただ無言でフライパンにたっぷりのオリーブオイルを注いだ。
包丁の腹で潰した大粒のニンニクと、小口切りにした大量の赤唐辛子が投入される。ジューッという音とともに、ニンニクの香ばしい匂いと、唐辛子の暴力的な刺激臭が地下室に充満し始めた。
焦がさないよう弱火でじっくりと辛味と香りをオイルに移し、そこにトマトホール缶を潰しながら入れる。
ソースが跳ねる音。トマトの酸味が熱によって深い旨味へと変わっていく。
別鍋で茹で上がったペンネをフライパンに投入し、ソースと素早く絡める。
皿に盛り付け、仕上げにパルミジャーノ・レッジャーノをすりおろした。
「腹が減っただろ。飯にするぞ」
所長は手早く完成させた一皿を、涼子さんの前に置いた。
「アラビアータだ。食え」
涼子さんはフォークを手に取り、真っ赤なペンネを口に運んだ。
「……っ、辛い!」
涼子さんが目を丸くする。突き抜けるような辛さが舌を刺す。しかし、そのすぐ後に、トマトの濃厚な旨味とニンニクの風味が押し寄せてくる。
「……辛いけど、美味しい。バカみたいに後を引くわね」
「カラブリア産の唐辛子を使っている。刺激の奥にフルーツのような甘みがあるのが特徴だ」
涼子さんは無言でパスタを食べ進めた。辛さのせいか、あるいは別の理由か、彼女の目尻にはうっすらと涙が滲んでいた。
しかし、食べ終えてグラスの水を飲み干す頃には、彼女の表情から憑き物が落ちたように、スッキリとしたものになっていた。
★★★★★★★★★★★
「はー、辛かった。でもなんかスッキリしたわ」
涼子さんがふうと息をつき、ナプキンで口元を拭う。
その横で、ずっとヘッドホンをして作業をしていたアルバイトの小川みずほちゃんが、くるりと椅子を回転させた。
「ねえ、おじさん」
みずほちゃんは、いつもの少しだるそうな、でもどこか期待を含んだ声で所長を呼んだ。
「なんだ」
所長がフライパンを洗いながら振り返る。
「激辛の後はさ、冷たくて甘いものが食べたくならない?」
みずほちゃんの言葉に、所長の手の動きがピタリと止まった。警戒するような目でみずほちゃんを見る。
「……嫌な予感がするな。冷蔵庫にアイスはないぞ。さっきカナダが全部食った」
「Oh, sorry! チョコミント、美味しかったわ!」
奥のデスクからエミリーが陽気に手を振る。
みずほちゃんはふふっと笑い、スマホの画面を所長に向けた。
「表参道にね、新しくできたジェラート屋さんがあるんだ。ピスタチオとダークチェリーのダブルが絶品なんだって。でも、一人で並ぶの寂しいし……」
みずほちゃんは首を傾げ、小動物のような瞳で所長を見上げた。
「デート、付き合ってよ。おじさん」
「……断る。俺は神保町から出ない主義だ。それに、若者の集まる表参道など、俺の行く場所じゃない」
所長が即座に拒否するが、みずほちゃんは引き下がらない。
「えー? じゃあ、涼子さんから聞いた、おじさんが学生時代に書いたっていう恥ずかしいポエム集のデータがある場所、エミリーと一緒に総当たりで探しちゃおっかなー」
「……貴様ら、俺のクラウドをなんだと思ってるんだ」
所長が深く溜め息をつく。涼子さんが横からくすくすと笑った。
「いいじゃない。たまには若い女の子のエスコートでもしてきなさいよ。それとも、ハッキングはできても、女の子の扱いはからっきしなのかしら?」
「……チッ。勝手にしろ」
所長はエプロンを外し、ハンガーにかかっていたジャケットを乱暴に掴んだ。
「やった! 行こ行こ!」
みずほちゃんが嬉しそうに立ち上がり、所長の腕を引っ張る。
「……歩くのが遅かったら置いていくからな」
「はいはい、分かってるってば」
渋々といった様子で階段を上っていく所長と、楽しそうにその後を追うみずほちゃん。
私は、涼子さんとエミリーさんと一緒に、その背中を見送った。
「……あの偏屈男を連れ出すなんて、みずほちゃんも大したものね」
涼子さんがパスタの余韻を楽しみながら呟いた。
私が淹れた食後のコーヒーの香りが、残っていたスパイスの匂いと混ざり合いながら、地下室にゆっくりと広がっていった。




