第57話 魔女の元カレ(前編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
徹夜での防衛ラインの構築とデータ解析を終え、泥のように仮眠を取った私たちが目を覚ましたのは、昼過ぎのことだった。
「……起きろ。昼飯だ」
所長の低い声が響く。
私は目をこすりながら起き上がった。換気扇がフル稼働しているが、地下室には花椒と唐辛子の刺激的な香りが充満している。昨夜、所長が戦いの儀式として炒めていたスパイスの香りだ。
足元では、茶白の子猫のチビが「ご飯!」とばかりに私のスリッパに噛み付いてアピールしていた。
「昨夜仕込んでおいた、特製麻婆豆腐の余りだ」
所長がテーブルに並べたのは、小ぶりな丼だった。
真っ赤なラー油が浮かぶ麻婆豆腐が、炊きたての白いご飯の上にたっぷりと乗せられている。
「一晩寝かせたことで、豆腐から程よく水分が抜け、挽肉と豆板醤、そしてクミンやカルダモンといったベーススパイスの旨味が極限まで凝縮されている。……これを一気にかき込む『麻婆ミニ丼』だ」
その横には、色鮮やかな副菜と汁物が添えられていた。
「小鉢は、京野菜の『みぶ菜』のおひたしだ。特有のピリッとした辛味とシャキシャキとした食感を殺さないよう、サッと湯通しして氷水で急冷した。味付けは一番出汁と薄口醤油のみ。隣は、数種類の海藻を水で戻した海藻サラダだ。自家製の塩昆布ドレッシングで和えてある。ミネラルと食物繊維の塊だ」
さらに、湯気を立てるお椀が配られる。
「大根の味噌汁だ。水からじっくりと煮込んで大根の芯まで甘みを引き出し、赤と白の合わせ味噌でコクを出した。……麻婆豆腐の暴力的な辛さと脂を、これらの副菜が完璧にリセットし、胃腸の働きを正常化させる。食え」
所長の号令で、私たちは一斉に箸を持った。
「いただきます!」
まずは麻婆ミニ丼を口に運ぶ。
ガツン! と来る強烈な辛味と痺れ。しかし、一晩寝かせたことでスパイスの角が取れ、奥深いコクと肉の旨味が口いっぱいに広がる。ご飯が進んで止まらない。
すかさず、みぶ菜のおひたしを食べる。
シャキッとした心地よい歯ごたえと、上品な出汁の風味が、麻婆豆腐の熱をスッと冷ましてくれる。海藻サラダの磯の香りと塩昆布の旨味も絶妙だ。
そして、大根の味噌汁を啜る。
「……はぁ。お出汁が染み渡る……」
私が思わず息を吐くと、隣で小川みずほが大きく頷いた。
「おじさん、この組み合わせ神だね。辛いのとしょっぱいのと優しいの、無限ループできる」
「Yummy! 目がバッチリ覚めたわ!」
エミリー・ローレンスも、箸を上手に使いこなしながら丼を空にしている。
「……相変わらず、理屈っぽくて美味しいわね」
弁護士の藤田涼子も、優雅な手つきでみぶ菜をつまんでいた。彼女は昨夜からずっと事務所に残り、法的な防衛線の構築を手伝ってくれていた。
極上の昼食で体力を回復させていた、その時だった。
ピンポーン、と控えめだがハッキリとした電子音が、静かな地下室に響いた。
導入されたばかりの最新の防犯インターホンだ。
私はモニターを確認し、首を傾げた。
「……スーツ姿の男性です。アポイントは入っていませんが」
「開けろ。どうせろくな客じゃない」
情報屋の中島鞠がスプーンを置く傍らで、所長が麻婆丼を置き、警戒の色を浮かべる。
私が電子ロックを解除して重たいスチールドアを開けると、金属の杖で床を突くような、正確で冷徹な足音が迫ってきた。
「――相変わらず、カビ臭い地下室だな」
入り口に立っていたのは、高級なオーダーメイドのスーツを隙なく着こなした、30代半ばの男性だった。
髪は一糸乱れず撫でつけられ、腕には高級時計が光っている。その整った顔立ちには、この部屋の空気や私たちを見下すような、冷酷な嘲笑が浮かんでいた。
「……高遠」
涼子が、地を這うような低い声でその名を呼んだ。
普段の余裕に満ちた彼女からは想像もつかないほど、その声には明確な嫌悪と敵意が込められていた。
「やあ、涼子。元気そうで何よりだ」
高遠と呼ばれた男は、土足のまま部屋の中央へと歩み寄ってきた。
所長が目を細め、立ち上がる。
「誰だ、あんたは。ここは土足厳禁だぞ」
「君がここの所長か。私は高遠。企業法務を専門とする弁護士だ」
高遠は懐から名刺を取り出し、テーブルの上に無造作に投げた。
「昨夜、君たちが不正アクセスを行った企業の、代理人を務めている」
「……」
所長の顔色が変わった。
昨夜のスマート家電のログ解析。発信元を完全に偽装したはずだが、相手はプロのハッカー集団を抱えるオラクル財団だ。強引にこちらのIPを辿ってきたのだろう。
「オラクルの犬が、何の用よ。わざわざ挨拶に来るなんて、随分と暇なエリート弁護士なのね」
涼子が腕を組み、冷ややかな視線で高遠を射抜く。
「君のその子供じみた正義感には、昔から呆れていたよ、涼子。相変わらず、こんな底辺の連中とつるんで正義の味方ごっこをしているのか」
「底辺で悪かったな、エリート気取り。……用件を言え」
所長が凄むが、高遠は全く動じず、涼子だけを見据えていた。
「私のクライアントは、極めて寛大だ。昨夜の不正アクセスについて、君たちを刑事告発する準備はできているが……穏便に済ませてやってもいいと言っている」
「和解案の提示? 笑わせるわね。殺人企業を弁護して、貴方の薄っぺらいプライドは痛まないの?」
「法律は感情で動くものじゃない。事実と証拠で動くんだよ、涼子」
高遠はポケットから、銀色に光る小さなUSBメモリを取り出した。
「この中に、和解合意書のデータが入っている。これに君の電子署名をし、手元にあるログデータを全て破棄するなら、今回の件は不問にしてやろう」
「……断ったら?」
「君の事務所にも、クライアントから内容証明を送らせてもらった。……これ以上嗅ぎ回るなら、君の弁護士資格を剥奪するよう、弁護士会に圧力をかける。私のコネクションを使えば、造作もないことだ」
明確な脅迫。
いや、宣戦布告だ。
「私を脅す気? ……高遠、貴方は昔から、自分の権力で他人をコントロールできると勘違いしているわね」
「勘違いじゃない。現実だ」
高遠は鼻で笑った。
「涼子。君が私のプロポーズを断って、こんな裏路地のドブさらいみたいな仕事を選んだ時はどうなるかと思ったが……今からでも遅くない。私の横にいれば、今頃は最高のステータスを得られていたのに」
――プロポーズ?
私は驚いて涼子さんを見た。
この嫌味なエリート弁護士は、涼子さんの元婚約者だというのか。
「貴方のその陳腐なステータスなんて、古びた判例以下の価値しかないわ」
涼子は冷たく言い放ち、手元の箸をことりと置いた。
「さっさと帰りなさい。そのUSBごと、ゴミ箱に捨ててやるから」
「強がるのは勝手だが、明日の昼までに返答がなければ、容赦はしない」
高遠はUSBメモリをテーブルにコトリと置き、踵を返した。
「また会おう、涼子。君が泣いて助けを求めてくる日を楽しみにしているよ」
再び規則的な足音を残し、高遠は階段を上がって消えていった。
地下室に、重苦しい沈黙が落ちた。
チビが空気を読んでソファの下に隠れている。
「……あいつ、何なの!? 感じ悪いにもほどがあるわよ!」
エミリーが怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。
「元婚約者だなんて信じられないわ。涼子さん、なんであんな奴と付き合ってたの?」
「……若気の至りよ。法科大学院の同期だったの。当時は少しはマシな男だったんだけど、権力と金に憑りつかれて腐ったわ」
涼子は忌々しげに吐き捨てた。
その顔には、先ほどの冷静な態度とは裏腹に、隠しきれない怒りと焦りが滲んでいた。
「でも、厄介なことになったわね」
鞠さんが冷静に口を挟んだ。
「オラクル系列の顧問をしているってことは、あいつは法的な『盾』よ。私たちがハッキングで証拠を掴んでも、あいつが法の抜け道を使って全部無効化してくる」
「ええ。それに、弁護士会への圧力はハッタリじゃないわ。高遠の背後には政財界のフィクサーがいる。……本気で私を潰しに来るつもりよ」
涼子がギリッと奥歯を噛み締めた。
法廷の魔女と呼ばれる彼女でさえ、真っ向から権力で叩き潰されれば、弁護士生命を絶たれてしまう。
「……おい、藤田」
ずっと黙っていた所長が、テーブルの上に置かれた銀色のUSBメモリを、ピンセットで慎重に摘み上げた。
「……和解合意書なんて、PDFかメールで送れば済む話だ。なぜわざわざ、元婚約者が直接出向いて、物理デバイスを置いていったと思う?」
所長の目が、ハッカーのそれに変わっていた。
「罠、ってこと?」
「ああ。単なる誓約書じゃない。……どんなマルウェアが仕込まれているか、解析してやる価値はある」
所長は、メインマシンのネットワークを完全に物理切断し、隔離された検証用パソコンにそのUSBメモリを接続した。
「……エミリー、小川。バックアップの準備だ。どんな攻撃が来てもいいように防壁を固めろ」
「Copy that!」
「りょーかい」
所長が検証用パソコンでショートカットキーを弾いた。
画面に、USBの中身が表示される。
ファイル名は『和解合意書.pdf』。ただ一つだけ。
「……開くぞ」
クリックした瞬間。
画面がフリーズし、マウスカーソルが動かなくなった。
「なんだ……?」
「クニ! 隔離領域のCPU使用率が異常な速度で跳ね上がってるわ!」
エミリーが叫んだ。
所長の検証用PCの冷却ファンが、悲鳴のような爆音を上げ始める。
「……PDFの拡張子を偽装した実行ファイルだ。マクロウイルスか」
所長がキーボードを叩いて強制終了を試みるが、システムは一切のコマンドを受け付けない。
さらに、画面に黒いコマンドプロンプトが勝手に立ち上がり、不気味な文字列が自動で入力され始めた。
『Deleting all local files...』
「……データ破壊プログラムか!」
「待って、クニ! それだけじゃない!」
エミリーの顔が青ざめた。
「ウイルスの実行コードが、検証用PCのスピーカーから特定の高周波を発信してる! エアギャップを越えて、メインサーバーのマイクで受信させる気よ!」
「音響通信か……!」
所長が叫び、私は咄嗟に検証用PCの電源ケーブルをコンセントから引き抜いた。
プツン、と画面が暗転し、ファンの爆音が止まる。
間一髪だった。
「……あぶねえ。電源抜くのがあと数秒遅れてたら、ウチのサーバーごと全部消去されてたべ」
アキさんが冷や汗を拭う。
所長は電源の落ちたPCを睨みつけたまま、静かに言った。
「……和解する気など、最初からない。奴らはこのUSBを使って、俺たちのシステムを内側から完全に破壊するつもりだったんだ」
涼子の顔が怒りで怒髪天を衝くように歪んだ。
「高遠……! どこまで腐りきっているの……!」
「法的な宣戦布告に見せかけた、サイバー攻撃だ。……オラクルのやり口は、徹頭徹尾、相手の隙を突いて殺しに来る」
所長はピンセットでUSBメモリを引き抜き、ジップロックに封印した。
「相手はエリート弁護士だが、やっていることはマフィアと同じだ。……売られた喧嘩だ。法廷でも、ネットワークでも、あいつらの息の根を完全に止めてやる」
「……ええ。絶対に潰すわ。あいつのその薄ら笑い、二度とできないようにしてやる」
涼子の瞳に、魔女の炎が燃え上がった。
彼女は自分のスマートフォンを取り出し、画面を鋭く睨みつけた。
静寂を取り戻した地下室で、反撃の火蓋が切って落とされようとしていた。




