第56話 ハッキングされた殺意
初夏の刺すような日差しが、秋葉原の雑踏を容赦なく照りつけている。
コンクリートの照り返しでむっとするような熱気の中、私、石川彩は、大量の紙袋を両手に提げて歩いていた。
「おい、カナダ。歩くのが早すぎるぞ。少しは石川のペースに合わせろ」
「Come on, Kuni! だから運動不足だって言ってるじゃない。アヤももっと体力つけなきゃダメよ! ほら、あそこのパーツ屋、まだ見てないわ!」
カナダ人ハッカーのエミリー・ローレンスは、タンクトップにデニムのショートパンツという真夏のような格好で、人混みを軽快にすり抜けていく。振り返って私たちを急かすその顔には、疲労の影は微塵もない。
昨夜、スマート家電の密室殺人のログを解析し、その背後に『オラクル財団』が潜んでいることを突き止めた私たちは、ほとんど一睡もしていなかった。
「なんでこんな一刻を争う時に、買い出しなんですか……」
私が重い紙袋を持ち直しながら愚痴をこぼすと、所長の阿部邦彦は不機嫌そうに額の汗を拭った。
「昨夜の解析で分かっただろう。オラクルのダミーサーバー群の壁は、俺たちの想像以上に分厚い。今のうちのサーバーの処理能力では、本丸の尻尾を掴む前に逆探知されて終わる。……こちらから本格的な反撃に出るための、物理的な演算能力が至急必要なんだ」
ただのデートや趣味の買い物ではない。見えない巨大な敵を出し抜くための、切実な装備拡充なのだ。
店を出て、私たちは大通り沿いのベンチで短い休憩を取った。
エミリーが買ってきたホットドッグを無造作に頬張る。
「……美味しい。クニも食べる?」
「いらん。マスタードが多すぎる」
「素直じゃないわねえ。……ねえ」
エミリーはホットドッグを飲み込み、遠くのビルの上に視線を向けた。
その横顔から、いつもの陽気さが消えていた。
「パノプティコンの時も思ったけど、あいつらのやり方、人間を人間として見てないわよね。ただのデータ、処理すべきエラーとしか思ってない。……殺意が、あまりにもシステム化されすぎてるわ」
「それが技術の行き着く先の一つだ。効率化と最適化。そこに倫理のストッパーがなければ、命はただの数字になる」
「……嫌な世界ね」
エミリーは短く呟き、残りのホットドッグを口に放り込んだ。
「でも、だからこそ私たちがいるんでしょ? その数字の中に隠された、本当の声を拾い上げるために」
彼女はいつもの明るい笑顔を見せた。その屈託のない強さに、私は少しだけ救われた気がした。
「……行くぞ。休んでる暇はない」
阿部が立ち上がり、私も慌てて紙袋を拾い上げた。
★★★★★★★★★★★
神保町の地下事務所に戻ると、すでに情報屋の中島鞠さんが来ていた。
彼女はソファに深く腰掛け、ノートPCを膝に乗せている。
「遅いわよ。買い出しという名のデートは楽しかった?」
鞠さんが呆れたように言う。
「ただの運搬作業だ。……で、亡くなった社長の会社と、オラクル財団との接点は出たか」
阿部が尋ねると、鞠さんは画面をこちらに向けた。
「ええ。真っ黒よ」
画面には、複雑な企業間の取引経路を示す図が表示されていた。
「亡くなった篠原さんの婚約者……彼のIT企業は、オラクル財団が設立したダミーのデータ解析会社から、数億円規模の業務委託を受けていたわ。内容は、スマート家電から収集した音声データの『アノテーション』とパターン解析」
「音声データの収集……」
エミリーが眉をひそめる。
「建前はAIの学習用でしょうね。でも、社長は最近、その契約を解除しようと動いていた形跡があるわ。会社の顧問弁護士に、契約解除の違約金について相談していたみたい」
「なぜだ?」
「さあ。でも、想像はつくでしょ。彼が扱うデータの中に、オラクルの『本当の目的』に関わるヤバいものが混ざっていた。それに気づいて手を引こうとした……だから、消された」
鞠さんの言葉に、地下室の空気が重くなった。
「……小川。エミリー。作業に戻るぞ」
阿部が自分のデスクに向かい、買ってきたばかりのパーツを組み込み始めた。
「りょーかい」
小川みずほちゃんがヘッドホンを装着し、エミリーも自分のPCを開く。
「あの夜のログ、もう一度洗い直したんだけど……部屋の『気圧』がおかしいの。換気システムのログを出してみて」
みずほちゃんの指示で、エミリーが即座にタイピングを始めた。
「……換気システム。24時間換気の稼働ログね。……本当だわ。深夜2時15分、寝室の給気口のダンパーが完全に閉じられている」
「排気ファンはどうなっている?」
「設定上限を超えて、最大出力で稼働し続けてる。……ちょっと待って。これって」
エミリーが息を呑んだ。
「室内の空気を強制的に排出しながら、外気の流入を遮断している。……密閉性の高いタワーマンションの寝室でこれをやれば、室内は急激な『負圧』状態になるわ」
「気圧の低下か」
阿部は画面の数値を追った。
「温度16度、湿度90%以上。そこに急激な気圧低下が加わる。血管が収縮した状態で気圧が下がれば、心臓にかかる負担は跳ね上がる。……これが、あの密室を完全な処刑室に変えた最後のトリガーだ」
「……悪魔の所業ね」
壁際で資料を読んでいた弁護士の藤田涼子さんが、静かに言った。
「これで、完全な他殺であることが証明されたわね。でも、これだけの環境操作を行っておきながら、法的に相手を追い詰める証拠が足りないのが厄介だわ」
その時、ドアのインターホンが鳴った。
依頼人の篠原さんだ。
私がドアを開け、彼女を中に招き入れた。
昨日、オラクル財団の不正アクセスによる環境操作が死因であることを知った彼女の顔には、少しだけ事実を受け止めた落ち着きがあったが、疲労の色は濃かった。
「……あの後、警察にもう一度話をしに行きました。でも、取り合ってもらえませんでした。ただのシステムエラーか、偶然が重なった事故だろうって……」
篠原さんはソファに座るなり、震える声で訴えた。
「当然だ。実行犯である『Oracle_Engine』のバックドアは、海外のボットネットを何十も経由して送信されている。オラクル財団の関与を警察に突きつけても、法的な証拠としては弱い」
阿部は冷徹に事実を突きつけた。
「相手は巨大な資金力と技術力を持った組織だ。中途半端な攻撃では、逆に揉み消されるだけだ」
篠原さんの表情が絶望に染まる。
「じゃあ……彼は殺され損だって言うんですか? 泣き寝入りするしかないんですか……!」
「そうは言っていない」
阿部は真っ直ぐに彼女の目を見た。
その声には、不器用だが確かな力がこもっていた。
「彼の会社は、オラクルの危険なデータに気づき、手を引こうとしていた。彼は正義感から殺されたんだ」
「……」
「システムが残した痕跡は、俺たちの手元に確保した。今はまだ、奴らの本体に繋がる糸が細すぎるだけだ。……必ず、元を辿って本丸を引きずり出してやる」
阿部の決意に満ちた言葉に、篠原さんは涙をこぼし、深く、深く頭を下げた。
「……お願いします。彼の無念を……どうか……」
篠原さんが帰った後、地下室には重い沈黙が残った。
オラクル財団。
死者のデータを弄ぶだけでなく、都合の悪い真実に気づいた生者の命さえも平然と奪う。ファントムとはまた違う、底知れぬ狂気を孕んだ組織。
「……胸糞悪い連中だべ」
葬儀屋の岡田アキさんが吐き捨てるように言った。
「ええ。でも、尻尾は掴んだわ。あとはどうやって本丸に迫るかよ」
涼子さんが腕を組む。
私たちは無意識に、阿部の方を見た。
阿部は何も言わなかった。
彼はゆっくりと立ち上がると、まっすぐにキッチンへ向かい、戸棚からフライパンを取り出した。
そして、無言のまま、スパイスの小瓶を次々とカウンターに並べていく。
クミン、コリアンダー、カルダモン。
フライパンで熱せられたスパイスの香りが、少しずつ地下室の重い空気を塗り替えていく。
それは、戦いの前の儀式だった。
阿部の広く頼もしい背中は、見えない敵への怒りと、これから始まる戦いへの静かな闘志を物語っていた。
戦いはまだ始まったばかりだ。
見えない敵の輪郭が、少しずつ、だが確実に浮かび上がってきていた。




