第55話 スマート家電の密室
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
迷惑系配信者・大輝さんの遺した想いを届け、アカウントを完全に消去したあの徹夜作業から数時間後。
仮眠室やソファで泥のように眠っていた私たちは、強烈な空腹と、地下室に漂う芳醇な出汁の香りで目を覚ました。
「……起きろ、お前ら。朝飯だ」
所長の阿部邦彦が、キッチンから低い声で号令をかけた。
時計を見ると、すでにお昼に近い時間だった。しかし、徹夜明けの私たちにとっては、これが一日の始まりの食事だ。
「んん……。なんか、すごくいい匂いするべ……」
葬儀屋の岡田アキさんが、目をこすりながら身を起こす。
彼女の足元には、秋田の実家から届いたばかりの巨大な発泡スチロールの箱が開け放たれていた。中には、ご両親が送ってくれたという地元の食材がぎっしりと詰まっている。
阿部はそれらの食材と、冷蔵庫の残り物を見事に組み合わせ、朝から料亭顔負けの豪華な和定食を作り上げていた。
「昨夜、エミリーたちがナポリタンの材料を買いにドンキへ走った時、ついでに買わせて仕込んでおいた牛丼のアタマの余りだ。一晩寝かせたことで、牛肉と玉ねぎに甘辛いタレが限界まで染み込んでいる。これを小鉢に盛って『牛皿』にする」
阿部は手際よく小鉢を並べていく。なるほど、あの極限状態の中でも、翌日の朝食の仕込みは忘れていなかったらしい。
「味噌汁は、同じく昨日買わせておいたもやしの余りだ。もやしは煮込みすぎると食感が死ぬ。一度取り出して汁だけを温め直し、最後に合わせ味噌を溶いて、もやしを戻す。これでシャキシャキ感が復活する」
さらに、阿部の包丁がリズミカルな音を立てる。
みずみずしい白菜をざく切りにし、塩昆布と柚子皮、少量の鷹の爪で浅漬けにする。
「ここからは、アキの実家からの支給品だ。……雪解けの遅い高山で採れた遅摘みの『たらの芽』。サッと塩茹でにして氷水で色止めし、すりたての白ごまと少しの醤油で和える。ほろ苦さとごまの甘みが、胃袋を優しく刺激する」
阿部の手元には、さらに色鮮やかな小鉢が並んでいく。
「『山牛蒡』の醤油漬けは、細かく刻んで叩いた梅肉と和える。コリコリとした食感と梅の酸味で、ご飯が無限に進む。……そして、アキの実家の冷凍庫の奥で眠っていた秘蔵のストック。東北の冬の保存食『飯鮨』だ」
阿部が切り分けたのは、鮭と秋刀魚を、米と麹、野菜と一緒に乳酸発酵させた郷土料理だった。
発酵食品特有のツンとした酸味のある香りが漂う。
「解凍の手間は省けた。初夏に味わう乳酸発酵の深い旨味と酸味は、最高のおかずであり、酒の肴にもなる。……最後は、これだ」
阿部がどんぶりに炊きたての銀シャリをふんわりと盛る。
そして、アキさんの実家から送られてきた特大のタッパーを開けた。
中には、醤油漬けにされたルビーのように輝く『いくら』が、これでもかと詰まっていた。
「うおおお! 母ちゃんの特製いくら漬け! 冷凍で送ってくれたんだべ!」
「これを、白飯が見えなくなるまで乗せる。……究極の痛風定食だ」
阿部がテーブルに並べたのは、牛皿、もやしの味噌汁、白菜の浅漬け、たらの芽の胡麻和え、山牛蒡の梅和え、鮭と秋刀魚の飯鮨、そして、山盛りのいくらご飯。
徹夜明けの疲れた身体に、塩分とタンパク質、そして発酵食品の旨味がこれでもかと押し寄せる最強の和食膳だ。
「……飲み物はこれにする」
阿部がピッチャーからグラスに注いだのは、少し黄色みがかった、麦茶のような色のお茶だった。
「焙煎したゴーヤー茶だ」
「えっ、ゴーヤー? 苦くないんですか?」
私が尋ねると、阿部はグラスを私の前に置いた。
「焙煎することで苦味は飛び、香ばしさが前面に出る。ゴーヤーのカリウムとビタミンCが、塩分の強い和食の食後感をスッキリと洗い流してくれる。……食え。細胞に沁み込ませろ」
私たちは一斉に手を合わせた。
「いただきます!」
まずは、いくらご飯をかき込む。
プチッ、プチッと口の中で弾ける濃厚な旨味。それが炊きたての熱々ご飯と絡み合い、幸福感で脳がショートしそうになる。
そこへ、一晩寝かせた牛皿の甘辛い肉を放り込む。
濃い味の連続を、白菜の浅漬けと、たらの芽のほろ苦さがリセットしてくれる。
そして、飯鮨。鮭と秋刀魚の熟成された旨味と麹の自然な甘酸っぱさが、徹夜明けの重い胃袋にスッと馴染んでいく。
「Yummy! 最高ね。日本の朝ごはんは芸術だわ!」
エミリー・ローレンスが、箸を器用に使いこなしながら歓喜の声を上げる。
小川みずほも無言で牛皿といくらを交互に頬張り、アキさんは「やっぱ実家の味が一番だべ」と飯鮨を噛み締めている。
「ニャァ……」
足元では、茶白の子猫のチビが、「私にも美味しいものをよこせ」とばかりに私の足首にすりすりとおでこを擦り付けていた。
阿部さんが無言で、味付けをしていない茹でた鮭の切れ端を小皿に乗せて床に置くと、チビは嬉しそうにそれに飛びついた。
濃厚な和食を堪能した後、温かいゴーヤー茶を飲む。
麦茶のような香ばしさの奥に、ほんの微かにゴーヤー特有の青々しい苦味がある。それが、口の中に残ったいくらや牛肉の脂を、魔法のようにスッキリと洗い流してくれた。
「……はぁ、生き返るわね」
情報屋の中島鞠が、ゴーヤー茶のグラスを置いて艶やかに息を吐いた。
誰もが極上の満腹感と、心地よい疲労感に包まれていた。
このまま二度寝をしてしまいたい。
そう思った、その時だった。
カツ、カツ、カツ。
階段を降りてくる小気味良いヒールの音が響いた。弁護士の藤田涼子だ。
「あら、いい匂いね。出遅れちゃったけど、私の分も残ってるんでしょうね?」
「冷蔵庫にラップしてある。自分で温めろ」
阿部がぶっきらぼうに返した直後。
カラン、と入り口のドアが開いた。
予約の客だ。
私は急いで立ち上がり、制服のシワを伸ばして出迎えた。
「いらっしゃいませ。デジタル・アーカイブス社へようこそ」
入ってきたのは、黒いワンピースを着た、私と同じ年頃の女性だった。
顔立ちは端正だが、その表情は能面のように強張り、目の焦点がどこか虚ろだった。
手には、一台の丸い円筒形のデバイス――最新型のスマートスピーカー――が握られている。
「……予約していた、篠原です」
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
篠原さんはソファに座ると、テーブルの上にドン、とそのスマートスピーカーを置いた。
「ご依頼の品は、それですか?」
阿部がエプロンを外し、冷徹な所長の顔に戻って尋ねた。
「はい。……私の婚約者の、遺品です」
篠原さんは、震える声で口を開いた。
「彼は、IT企業の若手社長でした。……一週間前、自宅のタワーマンションの寝室で、突然死しました」
「死因は?」
「警察の検視では、急性心不全とのことでした。……事件性はないと」
そこまで言って、篠原さんは両手で顔を覆った。
「でも、おかしいんです! 彼はまだ28歳で、健康そのものでした。タバコも吸わないし、定期健診でも何の異常もなかった。それが、たった一晩で心不全で死ぬなんて……!」
「若年層の突然死は、決して珍しいことではない。隠れた疾患があった可能性もある」
阿部が冷静に事実を告げる。
「いいえ! 彼は……殺されたんです!」
篠原さんが顔を上げ、血走った目でスマートスピーカーを指差した。
「彼の部屋は、最先端のスマートホームでした。エアコン、照明、鍵、お風呂のお湯まで、すべてこのAIが音声と自動プログラムで管理していました。……そして、彼が死んだ夜、寝室は内側から電子ロックがかけられた完全な『密室』だったんです」
「密室……」
「警察は『中から鍵がかかっていたから事件性はない』と言いました。でも、逆に考えてください。彼以外の誰も部屋に入れなかったのなら……彼を殺せたのは、その部屋を管理していた『AI』だけです!」
篠原さんの主張に、地下室の空気が一変した。
AIが人間を殺した。
SF映画のような話だが、すべての家電がネットワークに繋がった現代のスマートホームにおいては、物理的な干渉によって住人を死に至らしめることは、理論上は可能だ。
「……阿部さん。お願いです」
篠原さんが、すがるように頭を下げた。
「このスマートスピーカーのログを解析して、彼が死んだ夜に『部屋の中で何が起きていたのか』を調べてください。……彼が、機械なんかに殺されたなんて、私、信じたくないんです……っ」
悲痛な叫び。
阿部は腕を組み、テーブルの上の黒い円筒形デバイスを鋭く見つめた。
「……依頼は受理した。だが、ログを抽出するには、このデバイスを管理しているクラウドのアカウント権限が必要だ」
「パスワードなら分かります。彼、IT企業の社長でしたからセキュリティには厳格でしたが、万が一の時のために、パスワード管理アプリのマスターキーだけは私に共有してくれていたんです」
篠原さんが、スマホを取り出してキーの文字列を見せる。
阿部は即座に自分のメインマシンにデバイスを接続し、専用の解析ツールを立ち上げた。
「石川、コーヒーだ。……カナダ、小川。仕事だ」
「Copy that!(了解よ!)」
「りょーかい」
先ほどまでご飯を食べていたエミリーとみずほが、一瞬でハッカーと音響解析士の顔になり、それぞれのPCを開いた。
阿部のモニターに、システムログが凄まじい速度で展開され、画面を緑色のテキストが埋め尽くしていく。
「……アカウントへのログイン成功。デバイスのローカルログと、クラウド上の同期データを照合する」
阿部の指が、流れるようなタイピングでプロトコルの壁を一枚ずつ剥がしていく。
スマート家電のログには、温度、湿度、照明のオンオフ、音声コマンドの履歴など、生活のすべてが記録されている。
「……死亡推定時刻は、深夜の2時から4時の間ね」
エミリーが隣でデータをフィルタリングしながら言った。
「クニ、見て。この時間帯のエアコンと……スマートバスのログ。明らかにおかしいわ」
「どういうことだ」
「深夜2時、お風呂の湯温設定が『45度』の高温に固定されているわ。そして彼が風呂から上がって寝室に入った直後……エアコンの設定温度が、急激に『16度』に下がってる。しかも、風量マックス」
「45度の熱湯から、16度の極寒の部屋へ……?」
アキさんが顔をしかめる。
阿部がさらにログを深掘りする。
「……それだけじゃない。寝室のスマートロックがすべて施錠され、音声コマンドでも手動でも開かないようロックされている。加湿器の出力も最大で、湿度は90%を超えているぞ」
「人工的な『ヒートショック』ね……」
弁護士の藤田涼子が、眉をひそめて呟いた。
「高温の湯船で血管を拡張させた直後に、極寒で高湿度の密室へ閉じ込める。急激な温度変化で血圧を乱高下させれば、健康な若者の心臓でも強制的に悲鳴を上げるわ。……悪魔のような環境操作よ」
「でも、なんで彼が自分でそんな設定に? 寝ぼけて音声コマンドを間違えたの?」
私が尋ねると、みずほがヘッドホンを耳に当てながら答えた。
「ううん。違うよ」
みずほの顔が、険しいものになっていた。
「音声コマンドの録音データ、全部聞いたけど……深夜2時以降、彼の声は一切入ってない。つまり、彼が声で指示を出したわけじゃない」
「なら、自動のスケジューリング機能か?」
「それも違うわ」
エミリーがキーボードを叩き、あるコードの断片を表示させた。
「ログに不自然な欠落があるの。コマンドの発信元が書き換えられてる。……これ、外部からの『不正アクセス』の痕跡よ」
「外部から……!」
篠原さんが息を呑む。
つまり、誰かがネット越しに社長の自宅のスマートホームをハッキングし、意図的に室内の環境を「死の環境」へと操作したということだ。
完全な密室殺人。凶器は、お風呂とエアコン、そして加湿器。
「……Shit! IPのトレースを試みてるけど、相手はかなり手慣れてるわ。ダミーのサーバーをいくつも経由して、足跡を完全に消してる」
エミリーが舌打ちをする。
阿部はモニターを睨みつけながら、ある一点に目を留めた。
「……待て。ハッキングの痕跡は消せても、デバイスの『ファームウェアの更新履歴』までは消しきれていない」
阿部がコードの一部分をハイライトする。
「死亡した日の夕方、このスマートスピーカーに、メーカー非公式のパッチが自動で当てられている。……このパッチの署名に見覚えはないか、カナダ」
エミリーが画面を覗き込み、そして、ハッと目を見開いた。
「……嘘でしょ。これ……」
「ああ」
阿部の瞳に、氷のような冷たい怒りが宿った。
「『Oracle_Engine』のバックドア・モジュールだ」
オラクル。
その言葉が出た瞬間、地下室の空気が凍りついた。
先日、偽の遺言動画の件で暗躍していた、あの新興ITカルト組織。
まさか、こんなところで再びその名を聞くことになるとは。
「……おい、中島」
阿部が、後ろで控えていた情報屋に声をかけた。
「亡くなった社長の会社について、裏を取れ。……オラクル財団との接点があるはずだ」
「了解よ。すぐに洗うわ」
鞠さんが即座にスマホを取り出し、連絡を取り始める。
阿部は、モニターに映る『Oracle_Engine』の文字列を忌々しげに睨みつけた。
「……AIが殺したんじゃない。AIを操った『人間』が殺したんだ。……しかも、とびきりタチの悪い連中がな」
篠原さんは、恐怖と混乱で震えていた。
密室の突然死に隠された、巨大なカルト組織の影。
パノプティコンの残党か、それとも新たな脅威か。
ゴーヤー茶の爽やかな後味はとうに消え去り、私たちは再び、底知れぬ闇の入り口に立たされていた。




