第54話 素顔とナポリタン
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
初夏の夜、迷惑系動画配信者『デス・ストリーマーZ』として事故死した青年・大輝さんのスマホから、驚愕の事実が浮かび上がった。
彼が悪意のマネタイズで稼いだ収益のほぼ全額が、難病を患う妹・さくらさんのための「小児難病支援基金」へ匿名で送金されていたのだ。
「そんな……大輝が、さくらのために……?」
父親の鈴木さんが、信じられないというようにモニターを見つめた。母親も口元を両手で覆い、呆然としている。
実家と縁を切り、世間から憎悪を一身に浴びる「化け物」を演じながら、妹の命を救うために金を送り続けていた。それが、炎上系YouTuberの隠された素顔だった。
「……阿部さん。大輝さんのスマホに、他に何か残っていませんか?」
私が尋ねると、阿部さんは無精髭を撫でながら首を鳴らした。
「隠しフォルダの暗号化レベルが想定以上に高い。解除して中身の全容を洗い出すには、もう少し時間がかかる」
「……」
「腹が減った。石川、冷蔵庫を見ろ。何か食材はあるか」
阿部さんが顎でキッチンをしゃくった。
私は急いで業務用の大型冷蔵庫を開けたが、中は見事にすっからかんだった。
「すみません所長、空っぽです。留守番中にエミリーさんたちが食べ尽くしたみたいで、あるのは調味料と飲み物くらいで……」
「チッ、食欲魔人どもめ。……仕方ない、あるもので済ませる」
阿部さんはエプロンを締め、乾物用のストッカーを漁り始めた。
取り出したのは、常温保存の「讃岐うどん」の乾麺と、沖縄産の塩蔵もずく。冷蔵庫に肉や野菜がなくても、阿部の頭脳は瞬時に最善のレシピを構築する。
「……もずく入り讃岐うどんだ」
阿部さんは鍋にたっぷりの湯を沸かし、乾麺を放射状に投入した。
別の小鍋には、水出ししておいた羅臼昆布の出汁を張り、火にかける。沸騰直前に昆布を引き上げ、いりこの粉末を加えて濃厚な旨味をプラスする。味付けは薄口醤油と本みりんのみ。透き通った黄金色の出汁が完成した。
次に、塩蔵もずくを流水で丁寧に揉み洗いし、塩気を完全に抜く。
「具材がない時は、薬味で香りのレイヤーを作る」
阿部さんは小さなフライパンを取り出し、白ごまを乾煎りし始めた。
パチパチという音と共に、ごまの香ばしい匂いが弾ける。煎り立てのごまをすり鉢で軽く擦り、香りを最大限に引き出す。
茹で上がったうどんを冷水でキュッと締め、再び熱湯にくぐらせて温め直す。どんぶりにうどんを盛り、熱々の出汁を注ぎ、その上にたっぷりのもずくを乗せた。
最後に、すりたての煎りごまと、京都特産の『黒七味』を振りかける。山椒やケシの実がブレンドされた黒七味の鮮烈な香りが、鼻腔をくすぐった。
「食え。プロ顔負けの、究極の素うどんだ」
阿部さんは、エミリーとみずほ、そして自分の前にうどんのどんぶりを置いた。
「あ、あの……私たちは……」
鈴木夫妻が戸惑ったように尋ねると、阿部さんは彼らの方へ温かいお茶の入った急須を押しやった。
「あんたたちは無理に食う必要はない。疲労とショックで、胃が受け付けないだろう。温かい茶でも飲んでろ」
ぶっきらぼうな言い草だが、そこには阿部さんなりの確かな気遣いがあった。
鈴木夫妻は静かにうなずき、湯気を立てるお茶の入った湯呑みを両手で包み込んだ。
「……美味しい……」
自分の分のうどんを口にした私が、思わず声を漏らす。
乾麺とは思えない強いコシと、なめらかな喉越し。そこに、もずくのつるんとした食感と磯の香りが絶妙に絡み合う。
何より薬味が素晴らしい。煎り立てのごまの甘みと、黒七味のピリッとした山椒の刺激が、シンプルな出汁の輪郭をくっきりと際立たせている。冷蔵庫が空っぽでも、一切の手抜きがない極上の一杯だった。
「ニャァ……」
その時、足元で優しい鳴き声がした。
茶白の子猫、チビだ。
チビは鈴木夫妻の足元に近づくと、静かに香箱座りをして、張り詰めた様子の二人を見守るようにじっとしていた。
そのささやかな温もりに、母親が目頭を押さえ、少しだけ強張っていた肩の力を抜くのが分かった。
「……ビンゴだ。暗号化を突破したぞ」
阿部さんがどんぶりを置き、エンターキーを叩いた。
メインモニターに、大輝さんの隠しフォルダの最深部が表示される。
そこに残されていたのは、彼が誰にも見せるつもりで作ったわけではない、個人的な『日記アプリ』のデータだった。
『○月×日。今日の配信で、また炎上した。アンチからのDMが一日で一万件。……吐き気がする。でも、これで今月のサロンの会費目標は達成できそうだ。さくらの手術代まで、あと三百万円』
『△月○日。実家の住所が特定されかけた。親父とお袋に迷惑はかけられない。……俺は、最低のクズになりきらなきゃいけない。誰からも同情されない、同情してはいけない本物のゴミに。そうすれば、親も俺を完全に見放してくれるだろう』
そこには、世間から憎まれるための「キャラ」を必死に演じ続け、心をすり減らしていく二十二歳の青年の、血を吐くような苦悩が綴られていた。
両親は、モニターを見つめながら嗚咽を漏らした。
『×月△日。さくらの主治医のブログを見た。匿名の寄付金のおかげで、ついに海外での移植手術が決まったらしい。……よかった。本当によかった。俺が地獄に落ちる価値は、十分にあった』
そして、最後の日記。
それは、彼がバイク事故を起こして亡くなる、わずか数時間前に書かれたものだった。
『手術が成功したら、もうこのバカな配信はやめよう。誰も知らない街に行って、まともな仕事を探すんだ。
……腹が減ったな。
俺が死んだら、何が食べたいだろう。高級なフレンチでも、回らない寿司でもない。
……もう一度だけ、実家で、母さんの作ったナポリタンが食べたい。ピーマンと玉ねぎがたっぷりで、シャツに赤いシミが飛ぶような、昔ながらのナポリタンが。
……でも、もう俺は、あの家の敷居は跨げない。
父さん、母さん。親不孝な息子で、本当にごめん』
日記はそこで終わっていた。
地下室に、鈴木夫妻の号泣が響き渡った。
息子は、ネットの数字に取り憑かれた化け物などではなかった。
ただ不器用に、自己犠牲という最悪の方法でしか家族を守れなかった、心優しい青年のままだったのだ。
「大輝……っ、馬鹿な子……! 一人で抱え込んで……っ!」
母親が泣き崩れ、父親も顔を覆って泣いている。
チビが心配そうに「ミャー」と鳴きながら、今度は母親の手に小さな頭をこすりつけていた。
「……おい、エミリー。小川」
阿部さんが、低い声で二人のアルバイトを呼んだ。
「ドンキに行ってこい。パスタの乾麺と、玉ねぎ、ピーマン、ソーセージ、マッシュルームの水煮、それにケチャップと粉チーズだ。……走って急いで買ってこい」
「Copy that!(了解!)」
「任せて!」
エミリーとみずほが、弾かれたように事務所を飛び出していく。
阿部さんはキッチンに立ち、無言でフライパンを取り出した。
何を作ろうとしているのか、私にはすぐに分かった。
しばらくして。
エミリーたちが息を切らして買ってきた食材を前に、阿部さんは包丁を握った。
リズミカルな音が厨房に響き渡る。玉ねぎとピーマンを少し太めにスライスし、ソーセージを斜め切りにする。
たっぷりの湯でスパゲッティを茹で始めると同時に、フライパンにバターを落とし、具材を炒め始めた。
「……ナポリタンの極意は、具材を炒めた後に、麺を入れる『前』にケチャップを入れることだ」
阿部さんはフライパンの端に具材を寄せ、空いたスペースに大量のケチャップを絞り出した。
そして、ケチャップだけをフライパンの熱でしっかりと炒め始める。
「ケチャップの水分と強すぎる酸味を、高温で飛ばす。そうすることで、トマト本来の深い甘みとコクが凝縮される。……ここに、少量の牛乳を加えてまろやかさを足し、茹で上がった麺を一気に絡める」
ジュワァァッ!
フライパンの中で、真っ赤なソースと太めのパスタが躍る。
ケチャップの甘酸っぱく、どこか懐かしい香りが地下室いっぱいに広がった。
阿部さんは銀色のステンレス皿にナポリタンを山盛りに盛り付け、粉チーズをたっぷりと雪のように振りかけた。
「……食え。昔ながらのナポリタンだ」
阿部さんは、泣き崩れている母親の前に、そっと銀色の皿を置いた。
「……阿部さん……」
「息子の願いだ。……あんたたちが代わりに食ってやってくれ」
母親は震える手でフォークを持ち、ナポリタンを一口食べた。
その瞬間、彼女の目から再び大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……あの子の、好きな味です。……ピーマンがシャキシャキしてて、ケチャップが甘くて……大輝が、いつも口の周りを真っ赤にして食べてた、あのナポリタンと、同じ味……」
父親も一口食べ、静かに涙を流した。
私は、そっと鈴木夫妻のそばに寄り添った。
「……お母さん。お父さん」
私は、ありったけの優しさを込めて語りかけた。
「大輝さんが残したアカウントは、確かに呪いの鎖だったかもしれません。でも、一番奥底に残されていたのは、妹さんをご両親を想う、不器用で深い『愛』でした」
私は、モニターに映し出された大輝さんの最後の日記を見つめた。
「アカウントは、ご依頼通り、ネットの海から完全に消去します。……でも、大輝さんの本当の想いと、このナポリタンの記憶だけは、どうか消さずに、お二人の心の中に残してあげてください。……彼は化け物なんかじゃありません。ずっと、お二人の優しい息子さんのままだったんですから」
両親は、私の言葉に何度も何度も頷きながら、涙と一緒にナポリタンを飲み込んでいった。
阿部さんは何も言わず、ただ静かにその光景を見守っている。
「……所長。削除の準備、完了しました」
エミリーが、PCのエンターキーに指を置いて言った。
「ああ。……実行しろ」
「Yes, sir」
ッターン!
エミリーがキーを叩く。
画面に並んでいた『デス・ストリーマーZ』のYouTubeチャンネルも、Xのアカウントも、数千件の誹謗中傷のコメントも。
すべてが、まるで最初から存在しなかったかのように、電子の海から完全に消え去った。
残ったのは、妹を救った事実と、両親の心の中にある温かい記憶だけ。
空っぽになった冷蔵庫と、空っぽになった心。
そこに、美味しい料理と本当の真実を詰め込んで、アップデートしていく。
それが、私たちデジタル・アーカイブス社の仕事なのだ。
初夏の夜明け前。地下室には、ナポリタンの甘い香りと、チビの穏やかな寝息だけが残されていた。




