第53話 迷惑系配信者の残した鎖
初夏の夜風が、神楽坂の石畳を優しく撫でていく。
路地裏にひっそりと佇む高級割烹の個室で、所長の阿部邦彦は不機嫌そうに腕を組んでいた。
「……おい、古狸。情報交換なら事務所の地下で十分だろ。わざわざこんな敷居の高い店に呼び出しやがって」
「相変わらず色気のない男ね、阿部ちゃん。たまには大人の女とデートして、英気を養いなさいよ。それとも、私が相手じゃご不満かしら?」
向かいの席に座る情報屋の中島鞠は、手酌で冷酒を注ぎながら妖艶にくすりと笑った。
今日の彼女は、淡い藤色の着物姿だった。涼しげな絽の生地が、彼女の知的な美貌と大人の余裕をさらに引き立てている。
テーブルには、初鰹のタタキや、若鮎の塩焼きといった初夏の味覚が並んでいた。
「……で、オラクル財団の件はどうなってる」
阿部は出汁巻き卵を箸でつまみながら、本題を急いだ。
前回の依頼で明らかになった、死者のデータを弄ぶ新興のITカルト組織。
「調べてるわ。でも、あそこは完全に『壁』が高い。表向きは社会貢献を謳うクリーンなNPO法人だけど、資金の出所が複雑にダミー会社を経由してマネーロンダリングされてる。……ただの詐欺集団じゃないわね」
「だろうな。死者のデータを使ってディープフェイクの遺言を作るような連中だ」
「ええ。それに、彼らの教義……『肉体を捨てた魂の救済』とか『永遠の記憶』っていうキャッチコピー、どうもネットの深層でかなり狂信的な信者を集めてるみたい。気を付けることね。相手は論理じゃなくて、信仰で動いてる部分があるわ」
鞠は冷酒をくいっと飲み干し、ふう、と小さく息を吐いた。
その横顔には、歴戦のジャーナリストとしての鋭い警戒心が浮かんでいる。
「忠告感謝する。……で、会計はあんただろうな」
「もちろんよ。その代わり、帰り道は駅までちゃんとエスコートしなさいよ。着物で坂道を歩くのは大変なんだから」
阿部は舌打ちをしながらも、店を出ると鞠の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。
少しだけ汗ばむ初夏の夜。オレンジ色の街灯に照らされた二人の影が、石畳の上に寄り添うように伸びていた。
憎まれ口を叩き合いながらも、絶対的な信頼で結ばれたパートナー。それは紛れもなく、大人のデートの時間だった。
★★★★★★★★★★★
「おかえりなさい、所長、鞠さん。……あら、鞠さんお着物素敵ですね」
二人が神保町の地下事務所『デジタル・アーカイブス社』に戻ると、留守番をしていた私、石川彩が出迎えた。
「ありがとう、彩ちゃん。この坊やには猫に小判だったみたいだけどね」
鞠さんがクスクスと笑いながらソファに座る。
その足元では、茶白の子猫『チビ』が、カナダ人ハッカーのエミリーのデスクの上で大興奮していた。
エミリーの特注キーボードは、七色に光るLEDバックライトが波打つように点滅する仕様なのだが、チビはその光を「獲物」だと思い込んでいるのだ。
右から左へ流れる光の帯を追って、チビは短い前足を懸命に伸ばし、ペチッ! ペチッ! と一生懸命にキーボードを叩いている。
「ミャウッ! ニャッ!」
「Oh, no! チビ、私の美しいコードを破壊しないで! 勝手にバックスペースキーを押さないでぇ!」
エミリーが悲鳴を上げているが、その顔は完全にデレデレに緩んでいた。
光を捕まえようとして空振りし、キーボードの上にコロンと転がるチビの不器用な姿に、事務所の空気がほっこりと和む。
「……おい猫、仕事の邪魔をするな」
阿部さんがチビの首根っこをひょいとつまみ上げ、段ボールハウスの中に強制送還した。チビは不満そうに「ニャー(まだ遊ぶー)」と鳴いている。
その平和な日常の空気を切り裂くように、入り口のインターホンが鳴った。
「……予約の客だ」
阿部さんが表情を引き締め、ジャケットを脱いでデスクに向かった。
私が重たいスチールドアを開けると、そこに立っていたのは、五十代半ばの夫婦だった。
二人とも、ひどく憔悴しきっていた。目の下には真っ黒な隈があり、周囲の物音に過敏に反応してビクビクと肩を震わせている。まるで、見えない何かにずっと怯え続けているような異様な雰囲気だった。
「いらっしゃいませ。……ご予約の鈴木様ですね。どうぞ、こちらへ」
私がソファへ案内し、温かい緑茶をお出ししても、二人はカップに触れようともしなかった。
「……息子の大輝が、先日亡くなりました」
父親である鈴木さんが、絞り出すような声で口を開いた。
「バイクの単独事故でした。まだ、二十二歳でした」
「……ご愁傷様です。ご依頼の品は、大輝さんのスマホですか?」
阿部さんが淡々と尋ねると、母親が震える手でバッグから一台のスマホを取り出した。
画面には無数のヒビが入り、事故の衝撃を物語っている。
「これのロックを解除して……あの子がネット上に持っているアカウントを、すべて、一つ残らず完全に消去していただきたいんです」
全アカウントの削除。
遺品整理においてデータの削除依頼は珍しくないが、「すべてを消し去ってほしい」という強い語気には、ただならぬ理由を感じた。
「なぜだ。遺品として写真や友人とのやり取りのデータを残したいと考える遺族は多いが」
「残したくないんです! あの子の……あの汚れた記録なんて!」
母親が突然、顔を両手で覆って泣き出した。
鈴木さんが、妻の肩を抱き寄せながら、苦しげに目を伏せた。
「……息子の大輝は、ネットの世界で『デス・ストリーマーZ』と名乗っていました。……いわゆる、迷惑系動画配信者です」
「迷惑系、ですか」
その言葉に、奥で作業していたみずほがピクリと反応し、ヘッドホンをずらした。
「飲食店で注文した料理をわざとこぼして店員を怒らせたり、心霊スポットで大騒ぎしたり……他人の不幸や怒りを煽って、反感を買うような最低の動画ばかりアップしていました。私たちは何度もやめろと叱ったんですが、大輝は聞く耳を持たず……ついには自ら戸籍を抜き、私たちと完全に絶縁して家を出ていきました」
鈴木さんの拳が、膝の上で白くなるほど強く握りしめられていた。
「あの子なりに、親に火の粉が及ばないように縁を切ったつもりだったのでしょう。……でも、息子が事故で死んだことがニュースになると、執念深いネットの連中に実家の住所を特定されてしまいました。あの子に対する凄まじいバッシングが、私たち親にも向けられたんです。『自業自得だ』『社会のゴミを育てた親の顔が見たい』と……」
「……」
「毎日、昼夜を問わず無言電話がかかってくる。頼んでもいない葬儀屋のパンフレットや、大量の出前が代金引換で家に届く。家の外壁には『クズの親』とスプレーで落書きされました。……私たち夫婦は、仕事も休職に追い込まれました。夜も眠れず、外に出るのも怖い。……もう限界なんです」
鈴木さんの声が震え、涙声に変わっていく。
「あの子が残したYouTubeのチャンネルも、Xのアカウントも、私たちではパスワードがわからず消すことができない。それが残っている限り、ネットの連中はそこを拠点にして、私たちを攻撃し続ける。……どうか、お願いです。ネットの海から、大輝の存在を完全に消し去ってください。あの子が繋いでしまったこの呪いの鎖を、断ち切りたいんです……!」
迷惑系配信者の親というだけで、終わらない私刑を受けている両親。
ネットの匿名性が生み出す、正義感という名の狂気。
私は胸が締め付けられる思いで、鈴木さん夫婦を見つめた。息子を亡くした悲しみに浸る時間すら、彼らには許されていないのだ。
「……依頼は受理した」
阿部さんが、冷徹な声でスマホを受け取った。
「だが、何度も言っているが、俺たちはデータの中身を確認せずに消すことはしない。それがどんなクズのデータであれ、消去する前に中身を洗い出すのが俺のやり方だ」
「……構いません。どうせ、ろくなものじゃない。あの子は、ネットの数字に取り憑かれた化け物だったんですから」
母親が、吐き捨てるように言った。実の親にそこまで言わせてしまうほど、大輝さんが残した爪痕は深かったのだ。
「石川、コーヒーだ。……少し濃いめに淹れろ」
「はい」
阿部さんがスマホをケーブルで自分のPCに接続する。
解析ツールが起動し、解析ログが恐ろしい速度で画面を塗り潰していく。
「……迷惑系配信者なら、承認欲求の塊だ。エゴサーチを頻繁にし、自分を大きく見せる数字を好む。パスワードのバイアスは『万』や『億』といった再生回数の目標値か、あるいは自分を神格化するようなワードだ」
阿部はプロファイリングに基づき、いくつかの文字列を組み合わせてキーボードを叩いた。
カチッ。
わずか数分後、ロック解除の音が地下室に響いた。
「開いたぞ。……中身を見る」
モニターに、亡くなった大輝さんのスマホのホーム画面がミラーリングされた。
そこには、動画編集アプリや、複数のSNS管理ツールが並んでいた。
阿部がSNSアプリを開くと、そこはまさに地獄絵図だった。
事故死のニュースに対するリプライやDMは、数千件にも及び、そのすべてが目を覆いたくなるような罵詈雑言で埋め尽くされている。
『やっと死んだかゴミ』
『ざまぁwww』
『地獄で反省しろ』
「……Wow。これは酷いわね。人間の悪意の煮凝りみたい」
エミリーが顔をしかめる。
「こんなの毎日見てたら、普通病むよ……。鋼のメンタルっていうか、感覚が麻痺してたんだろうね」
みずほも腕をさすって嫌悪感を露わにした。
両親の言う通り、これは一刻も早く消し去るべき「汚れた記録」に他ならない。
「さあ、所長。アカウントの削除手続きを……」
「……待て」
私が言いかけると、阿部さんは画面をスクロールする手を止め、眉間に深い皺を寄せた。
その目は、SNSの悪意の言葉ではなく、端末の「裏側」のデータ構造に向けられていた。
「……おかしいな」
「何がですか、所長?」
「こいつの収益データだ」
阿部さんは、収益管理アプリのダッシュボードを表示した。
「迷惑系や過激な配信は、プラットフォームの規約違反ですぐに広告が剥がされるか、アカウントをBANされる。広告収益で安定して稼ぐことなどシステム上不可能なはずだ。だが、この口座には毎月、かなりの額の金が振り込まれ続けていた形跡がある」
「えっ? じゃあ、広告以外の方法で稼いでいたってことですか?」
「ああ。こいつの収益源は、アンチからの嫌がらせの『投げ銭』や、炎上を面白がる層をクローズドな有料サロンに誘導して会費を取るという、悪意を直接金に換える特殊なスキームだ。……だが、不自然なのはそこじゃない」
阿部の指が高速で動き、スマホのシステム領域の奥深くへと潜っていく。
ハッカーとしての「違和感」が、彼を突き動かしていた。
「動画の中では高級車に乗ったりブランド物を買い漁ったりしていたようだが、それらはすべて『レンタル』か『見栄』だ。……実際の資金は、どこかへ消えている」
「……見つけたぞ。隠しフォルダだ」
阿部が展開したのは、暗号化されて保存されていた一つのテキストファイルと、ネットバンキングの送金履歴だった。
「……こいつは、派手に遊び歩いているように見せかけて、裏では毎月、決まった口座に自分の収益のほぼ全額を定期送金していた」
「送金……? 誰にですか?」
鈴木夫妻も、戸惑ったようにモニターを見つめている。
阿部が、その送金先の口座名義を読み上げた。
「……『国立高度医療研究センター 小児難病支援基金』。……そして、送金時の摘要欄には、すべて同じ名前が記されている」
阿部は、ゆっくりと両親の方へ視線を向けた。
「……『鈴木 さくら』。……あんたたちの、娘さんの名前じゃないのか?」
その名前が出た瞬間、鈴木夫妻の顔から血の気が引いた。
「さくら……!? でも、さくらの難病の治療費は、匿名の篤志家の方が設立した財団からの寄付で……! まさか、大輝が……!?」
「……この『デス・ストリーマーZ』という男。……ただのクズじゃないかもしれないな」
阿部が低く呟いた。
迷惑系配信者という最低の仮面の下に隠されていた、両親にも内緒の不自然な資金の使い道。
自ら戸籍を抜いて憎まれ役を演じながら、妹のために稼いだ金を匿名で送り続けていた不器用な兄。
パンドラの箱の底から見え隠れする、全く別の「素顔」の片鱗。
初夏の夜の地下室に、新たな真実の扉が開こうとしていた。




