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死者からの検索履歴、削除しますか? ~デジタル遺品整理室の暗号解読~  作者: 伊達ジン
第二章:黒い履歴と白い嘘

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第51話 偽りの遺言(前編)

 ゴールデンウィークを目前に控えた、春も深まる頃。

 吹き抜ける風にはすでに初夏の匂いが混じり始め、日差しは少しだけ汗ばむほどの熱を帯びていた。


「……所長、歩くのが早すぎます。もうちょっとゆっくり歩いてください」


 私は、谷中銀座商店街の入り口に続く「夕やけだんだん」の階段で、息を切らしながら前の男に文句を言った。

 所長の阿部邦彦は、階段の途中で立ち止まり、忌々しげに私を見下ろした。

 今日はいつものグレーのパーカーではなく、薄手の黒いシャツにジャケットという、少しだけ小綺麗な格好をしている。


「お前が遅いんだ、石川。ホテルマン時代に鍛えた足腰はどうした」

「ホテルは階段を猛ダッシュしたりしません。それに、今日は休みの日じゃないですか。なんで私が所長の買い出しに付き合わされてるんですか」

「荷物持ちが必要だと言ったはずだ。それに……」


 阿部は視線を逸らし、ボソリと付け加えた。


「たまには、太陽の光を浴びないとカビが生える。大家に『引きこもり』と嫌味を言われたからな」

「それって……」


 つまり、これは阿部さんなりの「お出かけの誘い」なのだろうか。

 ファントム事件という巨大な闇との戦いを終え、私が超一流ホテルからの引き抜きオファーを断って『デジタル・アーカイブス社』に残ることを決めてから、私たち二人の距離感は少しだけ変わった気がする。

 相変わらず口は悪いし、人使いも荒い。でも、こうして休日に私だけを呼び出して、わざわざ下町の商店街を歩いているこの時間は……世間一般では「デート」と呼ぶのではないだろうか。


「……ニヤニヤするな、気持ち悪い。行くぞ」


 阿部が背を向けて歩き出す。耳が少し赤いのは、きっと日差しのせいだろう。

 私は足取りも軽く、彼を追いかけた。


 谷中銀座は、コロッケや焼き鳥、メンチカツなどを売る総菜屋や、昔ながらの八百屋が軒を連ねる活気あふれる商店街だ。

 阿部の目的は、ここにある老舗の製麺所と、乾物屋だった。


「……気温が20度を超えた。そろそろアレの出番だ」

「アレって?」

「冷やし中華だ」


 阿部は乾物屋の店先で、真剣な顔で干しシイタケと高級な金華ハムを吟味している。


「冷やし中華のタレは、醤油と酢と砂糖を混ぜるだけの単純なものだと思われがちだ。だが、極上の冷やし中華は『スープ』が命だ。金華ハムと干しシイタケ、鶏ガラで取った上質なスープをベースにしなければ、酸味のカドは取れない」


 阿部は店主に「この金華ハムのブロックをくれ」と注文し、私に紙袋を持たせた。

 次に訪れた製麺所では、特注の細縮れ麺を大量に購入する。


「かんすいの匂いが強すぎない、喉越しの良い麺だ。茹でた後に氷水で極限まで締めることで、奇跡のコシが生まれる」


 買い物を終え、私たちは商店街の端にある小さなカフェのテラス席で一息ついた。

 阿部はアイスコーヒー、私はレモネード。

 春の風が心地よく、私たちの間をすり抜けていく。


「……所長。今日、誘ってくれて嬉しかったです」


 私がグラスのストローをストライプに揺らしながら言うと、阿部は「フン」と鼻を鳴らした。


「勘違いするな。お前の分の給料を払うための労働だ。……お前がホテルに戻っていれば、今頃はエアコンの効いたラウンジで優雅に指示を出していただろうにな」

「後悔なんてしてませんよ。私は、あの地下室が好きですから」


 私が微笑むと、阿部も少しだけ口角を上げた。

 平和だ。あの命がけの戦いが嘘のように、穏やかな時間が流れている。

 ずっと、こんな日が続けばいいのに。


 しかし、私たちの日常は、いつも突然の来訪者によって破られる。

 阿部のスマホが、無機質な振動音を立てた。

 表示されたのは、事務所の固定電話からの着信だった。


「……もしもし。阿部だ」


 阿部が電話に出る。相手は、事務所でお留守番をしているカナダ人ハッカー、エミリー・ローレンスらしい。


『Hey, Kuni! デートの邪魔して悪いんだけど、お客さんよ。結構シリアスな顔してるわ』

「客? 今日は予約を入れてないはずだが」

『飛び込みよ。泣きそうな顔の女の子。……早く帰ってきてあげて』

「……分かった」


 阿部が電話を切り、残りのアイスコーヒーを一気に飲み干した。


「帰るぞ、石川。休憩は終わりだ」

「はい!」


 私たちの束の間の春のデートは、あっけなく幕を閉じた。

 でも、不思議と不満はなかった。

 彼と一緒に「仕事」に戻ることが、今の私にとって一番の喜びだからだ。


★★★★★★★★★★★


 神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。

 ドアを開けると、ソファに一人の若い女性が座っていた。

 年齢は私と同じくらいだろうか。紺色のカーディガンに白いブラウスという清楚な服装だが、その顔は青ざめ、目の下には隈ができている。

 エミリーが温かい紅茶を出し、みずほが少し離れた席でヘッドホンをして気を遣っていた。


「……お待たせしました。所長の阿部です」

「あ、あの……! 突然お伺いして申し訳ありません!」


 女性は慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。


「藤堂麻衣と申します。……ネットの掲示板で、ここならどんなデータでも解析してくれる裏の業者だと噂を聞いて……すがる思いで探し当てたんです。父の遺言のことで、どうしても調べていただきたいことがあって……」

「遺言、ですか」


 阿部が向かいのソファに座り、私も隣に控えた。


「はい。父は、先週……心不全で亡くなりました。父は小さな不動産会社を経営しており、母はすでに他界しているため、一人娘である私が会社と財産を相続するはずでした。……でも」


 麻衣さんは震える手で、自分のスマホを取り出した。


「お葬式が終わった翌日、父の顧問弁護士から、この『動画データ』を渡されたんです。父が亡くなる数日前に、弁護士宛にメールで送られてきたものだと……」

「動画の遺言ですか。珍しいですね」


 私が言うと、麻衣さんは泣きそうな顔で首を横に振った。


「珍しいどころじゃありません。内容が……あり得ないんです。父が、そんなこと言うはずがないんです!」


 阿部がスマホを受け取り、画面の再生ボタンを押した。

 モニターにミラーリングさせる。

 画面に映し出されたのは、書斎のような場所でカメラに向かって語りかける、初老の男性の姿だった。


『……私は藤堂健一。この動画を私の正式な遺言とする』


 男性の声は少し掠れていたが、はっきりとしていた。


『私は長年、自分の利益だけを追求して生きてきた。だが、死を目前にして気づいたのだ。個人の富など虚しいものだと。……人類が真の救済を得るためには、肉体という殻を捨て、永遠の記憶の集合体へと進化しなければならない』


 その言葉の異様さに、私は背筋が寒くなるのを感じた。

 遺言にしては、あまりにも宗教的というか、狂信的な匂いがする。


『よって、私の全財産――会社の株式、不動産、および預貯金の全てを、『オラクル財団』に寄付する。娘の麻衣には、遺留分も一切残さない。これも、彼女を物質的な執着から解放するためだ』


 動画はそこで終わっていた。

 沈黙が降りた地下室。


「……オラクル財団?」


 阿部が眉をひそめた。


「はい。聞いたこともない名前の団体です。調べても、実態のよく分からないNPO法人としか出てきません」


 麻衣さんが涙を拭いながら訴える。


「父は、そんな怪しい宗教みたいな団体に関わるような人じゃありませんでした! 堅物で、現実主義で……それに、私を物質的な執着から解放するだなんて、そんな冷たいこと言うはずがないんです! 父は、私の結婚資金のためにずっと定期預金を残してくれていたくらい、家族思いだったのに……!」


 麻衣さんの声が裏返る。


「あの動画は偽物です! 絶対に、誰かが父を脅して言わせたか、捏造したに決まってます! どうか、それを証明してください……!」


 全財産を謎の財団に寄付する動画。

 娘の言う通り、あまりにも不自然だ。

 阿部は腕を組み、動画が映し出されたままのモニターを鋭い目つきで睨んだ。


「……法的な裏付けは魔女に確認しないと分からんが、動画だけの遺言なんて普通は無効だろう。だが、弁護士が絡んでいるとなると、公証役場での手続きも並行して進められている危険があるな」

「だから急ぎたいんです! 財産を奪われるのも悔しいですが、それ以上に……父の最期の言葉が、あんな狂ったものだったと信じたくないんです!」


 麻衣さんの祈るような言葉。

 阿部は静かに息を吐き、立ち上がった。


「……依頼、受理した。料金は完全成功報酬だ。偽造の証拠を叩き出せばいいんだな」

「はい……! ありがとうございます!」


 阿部は麻衣さんから動画のオリジナルデータを受け取ると、自分のメインマシンに転送した。


「石川、エミリー、小川。仕事だ」

「Copy that!」

「ん、りょーかい」


 いつものように、地下室に解析のスイッチが入る。

 しかし、阿部はすぐにキーボードを叩き始めるわけではなかった。

 彼はエプロンを締め、キッチンへと向かった。


「……所長? 解析は?」

「重い処理を回す。結果が出るまで時間がかかる。……その間に、脳のガソリンを補充する」


 阿部が取り出したのは、先ほど谷中銀座で買ってきたばかりの特注の細縮れ麺と、金華ハム、そして色とりどりの具材だった。


「初夏の陽気だ。冷やし中華を始めるぞ」


 阿部は手際よく鍋に湯を沸かし、隣のコンロで金華ハムと干しシイタケの出汁を引き始めた。

 キッチンから、芳醇で上品な出汁の香りが立ち上る。


「冷やし中華の具材は、すべて同じ細さに切り揃える。これが口の中で一体感を生む極意だ」


 キュウリ、錦糸卵、チャーシュー、そしてクラゲ。

 阿部の包丁が、機械のような正確さで具材を千切りにしていく。

 トントントントンッ、という小気味良い音が地下室に響く。


「麺はたっぷりの湯で泳がせるように茹で、すぐに氷水で一気に締める。デンプンの糊化を急速に止めることで、弾けるようなコシを出す」


 氷水でキュッと締められた麺が、ガラスの器に高く盛り付けられる。

 その周囲を彩るように、完璧に切り揃えられた具材が放射状に配置された。

 そして最後に、金華ハムの出汁をベースにした、黄金色の特製醤油ダレがたっぷりとかけられた。


「……完成だ。特製・五目冷やし中華だ。食え」


 阿部は麻衣さんの前にも、その美しい冷やし中華を置いた。


「あ、あの……私、食欲が……」

「嘘をつけ。腹の虫が鳴いていたぞ。……美味いものを食わないと、戦う気力は湧かない」


 阿部のぶっきらぼうだが確かな優しさに押され、麻衣さんは割り箸を割った。

 私も、自分の分の冷やし中華をいただく。


「……っ! 美味しい……!」


 麻衣さんが目を見開いた。

 酸っぱすぎない、奥深い旨味のあるタレ。それが極細の縮れ麺に完璧に絡みつき、ツルッとした喉越しと共に胃袋に落ちていく。

 クラゲのコリコリした食感と、キュウリの清涼感。

 冷たい麺料理が、初夏の少し汗ばんだ体を芯から冷やし、同時に脳を覚醒させてくれる。


「……すごい。こんな美味しい冷やし中華、初めて食べました」


 麻衣さんの顔に、少しだけ血色が戻る。


「……当然だ。俺の料理は完璧なアルゴリズムでできているからな」


 阿部も豪快に麺をすする。

 その時だった。


「ねえクニ、あんたのソフトが結果を出す前に、もう映像の矛盾見つけちゃったわよ」


 エミリーが、箸を持ったまま得意げに言った。


「音声の継ぎ目もね。……これ、生身の人間が一息で喋ってる音じゃない」


 みずほも冷やし中華を咀嚼しながら、ヘッドホンをずらして同調する。


「Bingo! 顔の輪郭部分のピクセルを極限まで拡大して解析したわ。……瞬きの瞬間のまぶたの落ち方と、首の筋肉の動きに、わずかなフレームのズレが生じてる」


 エミリーがモニターに解析結果の赤い警告マークを表示させた。

 阿部の瞳に、冷酷な理知の光が宿った。彼は箸を置き、モニターを睨みつける。


「……つまり、この動画は偽物だ。……最新のAIを使って作られた、完璧な『ディープフェイク』映像だ」

「ディープフェイク……!」


 麻衣さんが息を呑む。

 亡くなった人間の顔と声をAIで合成し、言ってもいない言葉を喋らせる。

 そんな恐ろしい技術が、遺産の強奪に使われているというのか。


「……親父さんの生前の映像データや音声データを大量に学習させ、AIに喋らせたんだろう。素人の目には絶対に見抜けないレベルの代物だ」


 阿部はモニターに表示された『オラクル財団』という文字を睨みつけた。


「……ファントムが消えたと思ったら、今度はAIを使った新興のITカルトか」


 阿部の呟きに、地下室の空気が再び重く冷たいものに変わった。

 パノプティコンという国家の闇は消え去った。

 しかし、テクノロジーの進化は止まらない。死者のデータを弄び、生者を騙す新たな敵が、すでに暗躍を始めているのだ。


「……オラクル財団。……このふざけた偽造動画を作った奴らを、地獄の底まで追い詰めてやる」


 阿部がエンターキーを強く叩き込んだ。

 冷やし中華の爽やかな余韻をかき消すように、新たな戦いの火蓋が切って落とされた。



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