第50話 未来へのログイン
東京、神保町。
路地裏の雑居ビル『三島ビル』の地下へと続く階段には、柔らかな春の陽気が差し込んでいた。
しかし、地下室『デジタル・アーカイブス社』の室内は、平和な朝とは程遠い、カオスな光景が広がっていた。
床に転がった数本のワインの空き瓶。その横で、茶白の子猫・チビが丸くなり、「スピースピー」と小さなイビキをかいて眠っている。昨夜の狂乱の余波で、猫もすっかりお疲れのようだ。その無防備な寝顔がなんとも愛らしい。
昨夜は、私が超一流ホテルからのオファーを断って事務所に残留したことと、みずほちゃんの復学&帰還を祝して、全員で盛大な宴会が開かれたのだ。
その結果が、この惨状である。
「……んー、このピノ・ノワール、朝から飲むには少し重かったかしら」
情報屋の中島鞠が、ソファに優雅に足を組みながら、朝の10時だというのに赤ワインのグラスを揺らしている。
「ちょっと鞠、それ私がシャンパン開けた後に勝手に抜栓したやつでしょ。……ああ、頭痛い」
その隣で、弁護士の藤田涼子が、毛布にくるまって仮眠から目を覚まし、恨めしそうに鞠を睨んでいる。彼女の目元には、法廷の魔女らしからぬ隈があった。
「あはは! 魔女先生も酒には勝てねえべ! ほら、昨日の残りの特上イクラ軍艦食うか? ちょっと海苔がシナッとしてっけど」
葬儀屋の岡田アキが、昨夜の宴会で持ち込んだ高級寿司の折詰を突き出す。
「朝からイクラなんて食べられないわよ。胃がもたれるわ」
「Hey, guys! 朝はしっかり動かないとダメよ! ワン、ツー!」
カナダ人ハッカーのエミリー・ローレンスは、一人だけ元気いっぱいに巨大なバランスボールに乗り、ポヨンポヨンと弾みながら体幹を鍛えている。
「エミリー姉ちゃん、ちょっとテンポずれてる。私のビートに合わせてよ」
そして、アルバイトの小川みずほは、いつものデスクに機材を広げ、ゼミの課題で作ったという複雑な環境音のミックスを大音量でテストしていた。ヘッドホンを片耳に当て、真剣な顔でフェーダーをいじっている。
「うるさいわねぇ。せっかくのマラルメの詩集が頭に入ってこないじゃない」
大家の後藤かほりさんが、奥のロッキングチェアで本を開きながら、呆れたようにため息をつく。
私は、散らかった空き瓶やグラスを片付けながら、苦笑いするしかなかった。先日、コンシェルジュへの引き抜きオファーを断った時は少しだけ迷いもあったが、今はこの騒がしい日常が、何よりも愛おしかった。
「……おい。お前ら、いつまで俺の城でくつろいでいる気だ」
不機嫌な低音が、キッチンの方から響いた。
所長の阿部邦彦だ。
彼はパーカーの袖をまくり、無精髭の顔をしかめながら、まな板に向かっていた。
「文句言わないの。家賃をまけてやってる大家が寛いでるのよ」
「修繕費は毎月の依頼料からきっちり天引きされてるだろ」
阿部は毒づきながらも、その手は寸分違わぬ正確さで動いていた。
「石川、ザルを出せ。冷やご飯を蒸す」
「はいっ!」
阿部の前には、昨夜炊いて余ったご飯が、ボウルに入っていた。
彼はそれを電子レンジに入れるような無粋な真似はしない。蒸し器に濡れ布巾を敷き、その上に冷やご飯を広げた。
「レンジの電磁波は水分子を強引に振動させるため、米のデンプンが破壊され、ベチャッとしたり一部が硬くなったりする。蒸し器の穏やかな対流熱と水蒸気で温め直すことで、米粒は炊きたてのような『立った』状態に蘇るんだ」
湯気が上がり、米の甘い香りが漂い始める。
阿部は隣のコンロで、網を使って紅鮭の切り身を焼き始めた。
皮に焦げ目がつき、脂がジューシーに弾ける。焼き上がった鮭をボウルに移し、骨を丁寧に毛抜きで抜き取りながら、身を粗くほぐしていく。
「鮭は細かくしすぎない。肉感を残す。……次に、じゃこだ」
フライパンにごま油を薄く引き、ちりめんじゃこを投入する。
パチパチという軽快な音と共に、じゃこがキツネ色に色づき、香ばしい海とごまの香りが地下室の空気を一変させた。先ほどまでの酒臭さが、一気に「極上の朝の匂い」へと上書きされる。
「……なんだべ、すっげえいい匂いしてきた」
アキさんが寿司を置き、キッチンを覗き込む。
涼子さんも毛布から這い出してきた。
「蒸し上がったご飯に、ほぐした鮭、炒ったじゃこ、そして白ごまを切るようにして混ぜ合わせる。……米粒を潰すなよ」
阿部はボウルの中で具材を均等に混ぜると、両手を冷水で濡らし、掌に粗塩をすり込んだ。
そして、適量のご飯を手に取ると、まるでプロの寿司職人がシャリを握るかのように、ふんわりと、空気を包み込むようにして三角形に結んでいく。
力を入れるのは、表面を整える一瞬だけ。
あっという間に、見た目も美しい「鮭とちりめんじゃこのおにぎり」が竹ざるの上に山のように並べられた。
「……まだだ。昨日の刺身の余りがあったな」
阿部が取り出したのは、アキさんが差し入れてくれた高級お造りの余り、銀色に光る小さな魚――キビナゴだった。
「鮮度が落ちかけているから生食は避ける。軽く塩を当てて臭みを抜き、片栗粉を薄くはたいて、少量の油で揚げ焼きにする」
ジュワァァッ!
油の音と共に、キビナゴが反り返り、表面がサクッと揚がっていく。
バットに上げ、スダチを添える。
「次は汁物だ」
阿部は、あらかじめ水出ししておいた真昆布の出汁を火にかけ、沸騰直前に血合い抜きの本枯れ節をたっぷりと投入した。
数秒で火を止め、静かに濾す。
黄金色に輝く、澄み切った一番出汁。その高貴な香りに、みずほが環境音のボリュームを落とした。
「ここに、沖縄産の生の太もずくを入れる。味付けは薄口醤油と塩のみ。もずくの磯の香りと食感を主役にするため、余計な調味料は一切入れない。……最後に、針生姜を落として香りを引き締める」
「……所長、あの……これも忘れないでください」
私が小皿に盛り付けて差し出したのは、紀州南高梅の最高級はちみつ梅だった。
「ただ添えるだけじゃない」
阿部は梅干しの種を取り、包丁で細かく叩いてペースト状にした。そこに、ほんの少しの味醂と、細かい糸削りの鰹節を和える。
「酸味の角を取り、旨味の相乗効果を狙う『梅肉の叩き』だ。これで完成だ」
阿部がテーブルに料理を並べた。
湯気を立てるもずくの澄まし汁。
サクサクに揚がったキビナゴ。
鰹節を纏った艶やかな梅肉。
そして、具材がたっぷりと混ざり合った、完璧な三角形のおにぎり。
余り物で作ったとは思えない、高級旅館の朝食のような見事な御膳だった。
「……食え。二日酔いの胃袋を浄化しろ」
阿部のぶっきらぼうな号令と共に、私たちは一斉に手を合わせた。
「いただきます!」
私はおにぎりを両手で持ち、一口かじった。
ホロッ……。
口に入れた瞬間、米粒が優しくほどけ、中から鮭の濃厚な脂と、ごま油で炒められたじゃこのカリッとした食感が弾けた。
塩加減が絶妙だ。強すぎず、弱すぎず、具材の旨味を最大限に引き出している。
「……なにこれ、美味しすぎる……!」
「昨日の特上寿司より、こっちの方がずっと美味いべ!」
アキさんが目を丸くして、あっという間に一個目を平らげる。
「おじさん、魔法使い? 冷やご飯がこんなにふっくらするなんて」
「レンジの怠慢に慣れきった現代人の味覚がバグってるだけだ」
阿部が鼻で笑う。
そして、もずくの澄まし汁を啜る。
私も一口飲んで、思わず深いため息をついた。
……五臓六腑に染み渡る。
一番出汁の極上の旨味と、もずくのつるんとした喉越し。針生姜のピリッとした刺激が、アルコールで疲れた肝臓を優しく叩き起こしてくれる。
「……悔しいけど、シャブリにも合いそうね」
鞠さんがキビナゴの揚げ焼きにスダチを絞り、サクッと音を立てて齧った。
「朝からワインはやめなさいよ。……でも、この梅肉、絶品ね。酸っぱいだけじゃない、深い甘みがあるわ」
涼子さんも、すっかり魔女の顔から「美味しいものを食べる幸せな女性」の顔に戻っていた。
「Yummy! 日本のブレックファスト、最高ね!」
エミリーもおにぎりを頬張りながら、親指を立てている。かほりさんも、文庫本を伏せて無言で汁を啜り、満足げに目を細めていた。
美味しいご飯と、みんなの笑顔。
なんてことのない、余り物の朝食。
でも、それがこんなにも美味しくて、愛おしい。
私は、おにぎりを噛み締めながら、心の中で姉に語りかけた。
(お姉ちゃん。私、ここに残って本当によかったよ。……ここには、私の守りたい日常があるから)
姉の死の真相を暴き、国家の闇を打ち砕いた、壮絶な戦い。
でも、私たちが本当に守りたかったのは、こういう「ただの朝ごはん」を笑って食べられる、当たり前の日々だったのだ。
その時だった。
ピンポーン。
入り口のインターホンが、静かな朝の空気を震わせた。
「……あら、お客さん?」
「こんな朝早くから? 予約は入ってないはずだけど」
私が首を傾げていると、阿部がスッとおにぎりを置き、いつもの不機嫌そうな所長の顔に戻った。
「……石川。出迎えろ」
「はい!」
私はジャケットのシワを伸ばし、急いで重たいスチールドアを開けた。
そこに立っていたのは、一人の初老の男性だった。
よれたスーツを着て、手には古い風呂敷包みを抱えている。その表情は不安に満ちており、どこか途方に暮れているようだった。
かつて、この事務所に初めて訪れた日の、長谷川里美さんと、どこか重なる姿。
「あ、あの……。ここは、パソコンの……パスワードを開けてくれるという……?」
男性が、震える声で尋ねる。
「先日亡くなった、妻のパソコンなんですが……どうしても、開けられなくて。……妻が、最期に何を考えていたのか、知りたくて……」
風呂敷を抱きしめるその手には、妻への深い愛情と、遺された者の深い悲しみが握られていた。
デジタルタトゥー、裏アカウント、隠しフォルダ。
データの奥底には、見たくない真実が隠されているかもしれない。
それでも、知りたいと願うのが人間なのだ。
私は背筋を伸ばし、かつてホテルマンだった頃と同じ、最高に温かい笑顔を作った。
「いらっしゃいませ。……デジタル・アーカイブス社へようこそ」
私が男性をソファへ案内すると、後ろに控えていたメンバーたちも、それぞれの「仕事の顔」へと切り替わっていた。
アキさんがサッとテーブルの食器を片付け、みずほがBGMを静かなジャズに切り替える。
エミリーが自分のPCを立ち上げ、涼子さんが依頼内容を精査するためのメモ帳を開く。
鞠さんがそっと温かいお茶を用意し、かほりさんが静かに本を閉じて見守る。
そして。
所長の阿部邦彦が、無精髭を撫でながら、ゆっくりと椅子を回転させた。
「……俺たちはデータ屋だ。依頼人の望み通り、ロックはこじ開ける」
阿部の鋭い眼光が、男性の抱える古いパソコンを射抜いた。
「だが、覚えておけ。データは0と1だ。そこに感情はない。出てきた真実が、あんたにとって残酷なものだったとしても、俺たちは一切の責任を負わない」
いつもの、冷たくて突き放すような口上。
でも、私は知っている。その冷たい言葉の裏に、死者の尊厳を守り、生者の背中を押し出すための、途方もない優しさが隠されていることを。
「……それでも、開けるか? そのパンドラの箱を」
男性は、ゴクリと唾を飲み込み、そして力強く頷いた。
「はい。……お願いします」
阿部がニヤリと笑い、キーボードに手を置く。
カタカタカタ、ッターン!
軽快な打鍵音が、今日も神保町の地下室に響き渡る。
死者の残した検索履歴、削除しますか?
それとも、未来のために「ログイン」しますか?
私たちの仕事は終わらない。
誰かが遺した「パスワード」という名の祈りを解き明かし、想いを繋ぐために。
最強で、少し変わった8人のスペシャリストたちの、騒がしくて愛おしい日常は、これからもずっとずっと、続いていくのだ。




