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死者からの検索履歴、削除しますか? ~デジタル遺品整理室の暗号解読~  作者: 伊達ジン
第二章:黒い履歴と白い嘘

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第49話 それぞれの道

 神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。

 地上では満開の桜が風に舞う、春の陽気。地下室の換気口からも、どこか甘く、柔らかい春の空気が流れ込んできている。


「……ミャァ。ニャッ」


 換気口から差し込む四角い日だまりの中で、茶白の子猫・チビが一人遊びに夢中になっていた。

 風に乗って換気口から迷い込んできた、一枚の薄紅色の桜の花びら。

 チビはそれを「未知の獲物」と認識したのか、お尻を高く上げて狙いを定め、ピョンッと短い足で飛びかかった。

 しかし、花びらはひらりと空気を掴んで逃げてしまう。チビは空振りして床にコロンと転がり、すぐに起き上がって「ニャ?(消えた?)」と不思議そうにキョロキョロと首を傾げた。

 そして再び花びらを見つけると、今度は両手でパチン! と挟み込むように捕まえた。そっと肉球を開いて中を確認し、花びらが入っているのを見ると、誇らしげに胸を張り、私の方を向いて「ミャウ(捕まえたよ)」と鳴いた。

 その一連の動作があまりにも愛らしくて、私は経理の計算の手を止め、ふふっと笑ってしまった。


「チビ、すごいね。春を捕まえたんだね」

「……仕事中に猫と会話するな、石川。計算が合わなくなるぞ」


 メインデスクから、所長の阿部邦彦が呆れたように言った。

 彼の表情は、先日の『デトックス』以来、どこか憑き物が落ちたように穏やかだ。相変わらず口は悪いが、目元の険しさは消えている。


「すみません。でも、チビがあまりにも可愛くて」

「フン。その毛玉は最近太り気味だ。キャットフードのカロリー計算も見直す必要があるな」


 阿部がキーボードを叩いていると、入り口の重たいドアが開いた。


「おはようございまーす」


 入ってきたのは、アルバイトの小川みずほだった。

 いつものオーバーサイズのパーカー姿だが、首に掛かっているヘッドホンが新調されている。

 彼女はソファにバッグを置くと、少し改まった顔で阿部の前に立った。


「……おじさん。ちょっと、話があるんだけど」

「なんだ。給料の前借りなら却下だぞ」

「違うよ。……私、このバイト、今月で辞めようと思うんだ」


 みずほの言葉に、私は思わず立ち上がった。

 阿部もキーボードを叩く手を止めた。


「辞めるって……どうして?」


 私が尋ねると、みずほは少し照れくさそうに髪をいじった。


「私さ、大学の単位、無事に取れて進級できたでしょ? でね、新学期から本格的にゼミの研究が始まるんだよね。教授のスタジオに籠もりっきりになるし、就活も視野に入れてポートフォリオ作んなきゃいけなくて」

「……そうか」


 阿部は静かに頷いた。


「もともと、幽霊の声の事件から転がり込んできただけの居候だ。お前の本来の居場所は、学校だ。……引き止める理由は俺にはない」

「うん。……おじさん、彩お姉ちゃん。今まで、いろいろありがとね」


 みずほは、地下室の機材や、防音材が貼られた壁を見回した。


「私、家出して、行き場がなくて……ここで拾ってもらって、本当に助かった。……ここの『音』、すごく好きだったよ」

「みずほちゃん……」


 ツンデレな彼女なりの、最大限の感謝の言葉。

 私は涙ぐみそうになった。

 彼女の絶対音感には何度も助けられた。妹のように可愛かった彼女が、夢に向かってここを巣立っていく。寂しいけれど、喜ばしいことだ。


「……じゃあ、そういうことで。残りのシフトはちゃんと出るから」


 みずほは少し寂しそうに笑うと、自分のデスクの片付けを始めた。


 別れの季節、春。

 その波は、みずほだけでなく、私にも押し寄せていた。


 数日後。

 私は、都内にある超一流ホテルのラウンジにいた。

 目の前に座っているのは、ビシッとしたスーツを着た初老の男性。私がかつてコンシェルジュとして働いていたホテルの、総支配人だった。


「……お久しぶりです、石川くん。元気そうだな」

「ご無沙汰しております、支配人。本日はどのようなご用件でしょうか」


 私が背筋を伸ばして尋ねると、支配人は分厚い封筒をテーブルに置いた。


「単刀直入に言おう。……君に、戻ってきてほしいんだ」

「え……?」

「君が退職した後、うちのコンシェルジュ部門はクレームが増えてね。君のような、お客様の心に寄り添う本物のホスピタリティを持った人材が不足している。……そこで、君をチーフ・コンシェルジュとして迎え入れたい」


 支配人が提示した条件は、破格のものだった。

 給与は以前の倍以上。待遇も申し分ない。

 何より、私がかつて夢見て、そして姉の死のショックで諦めてしまった「最高のホテルマンになる」という夢の舞台が、再び用意されたのだ。


「お姉さんのことは、本当に気の毒だった。……だが、君の人生はまだこれからだ。あんな地下の怪しげなデータ復旧業者で、君の才能を腐らせる必要はないだろう?」

「……」

「返事は急がない。一週間、待とう」


 その夜。

 私は事務所に戻り、一人でため息をついていた。

 机の上には、支配人から渡されたオファーの書類が置かれている。

 素晴らしい条件だ。本来なら、迷わず飛びつくべき話なのだろう。

 でも、私の心は晴れなかった。


「……ため息をつくと、幸せが逃げるわよ」


 階段を降りてきたのは、大家の後藤かほりさんだった。

 彼女は私の机の上の書類を一瞥し、すぐに状況を察したようだった。


「引き抜きの話? ……まあ、石川さんくらい優秀なら、当然あるわよね」

「かほりさん……」

「迷ってるの?」

「……はい。前のホテルは、私の夢だったんです。でも……」


 私が言葉を濁すと、かほりさんはフンと鼻を鳴らし、腕を組んだ。


「別に、止める権利は私にはないわ。ここは来る者拒まず、去る者追わずの吹き溜まりだもの」

「……」

「でもね、石川さん。……もしあんたが出て行くなら、この事務所の敷金は絶対に返さないわよって、阿部くんに伝えておきなさい」

「えっ? 所長の敷金を、ですか?」


 私は驚いて聞き返した。雇われているだけの私が辞めることで、なぜ阿部さんの敷金が没収されるのだろうか。


「当然でしょ。あの男の暴走を止めるストッパーがいなくなったら、ビルの修繕費がいくらかかるか分かったもんじゃないわ。……連帯責任よ」


 かほりさんは、いつものように理不尽な憎まれ口を叩いた。

 でも、その眼鏡の奥の瞳は、どこか寂しそうに揺れていた。

 彼女なりの、強がりで不器用な「引き留め」の言葉なのだと、すぐに分かった。


「……大家さん」

「私は、本さえ読めればそれでいいの。……でも、最近はこの地下から聞こえてくる騒がしい声も、悪くないBGMだと思い始めてたところだったのよ。……まあ、あんたの人生だわ。好きになさい」


 かほりさんはそれだけ言うと、少し肩を落として、自分の店へと戻っていった。

 大家さん。

 いつも強がっているけれど、本当は誰よりもこの場所と、ここに集まる人たちを愛しているんだ。


 カチャッ。

 キッチンの方から、微かな物音がした。

 見ると、阿部さんがコンロの前に立っていた。


「……所長。いつからそこに?」

「大家が来る前からだ。腹が減ったからな」


 阿部さんは振り返らずに、フライパンにオリーブオイルとニンニクを入れた。

 ジューッという音と共に、香ばしい匂いが立ち上る。


「……春キャベツと桜エビのペペロンチーノだ。春キャベツは柔らかく甘みが強い。桜エビの香ばしい旨味と合わせることで、季節感と完璧な塩味のバランスを生む」


 阿部さんはパスタを茹でながら、淡々と言った。


「……オファー、受けるのか」

「所長……」

「俺は止めん。お前の人生だ、好きにしろ。コンシェルジュはお前の天職だろうしな」


 阿部さんの口調は冷たかった。

 でも、フライパンを振るその手は、いつもより少しだけ乱暴に見えた。


「……所長は、私が辞めても平気ですか?」

「平気だ。経理の仕事は俺のAIで自動化できる。掃除はルンバを買えばいい」

「……そうですか」


 私は、テーブルに運ばれてきたパスタを見つめた。

 鮮やかな緑の春キャベツと、ピンク色の桜エビ。

 一口食べる。

 キャベツの甘みと、エビの濃厚な旨味が、ニンニクと唐辛子のオイルに見事に絡み合っている。春の息吹を感じる、優しくて、でもパンチのある味だ。


 この料理も、もう食べられなくなるのだろうか。

 そう思った瞬間。

 私の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。


「……っ」

「おい。しょっぱくなるだろうが」

「だって……」


 私は箸を置き、書類を手に取った。

 そして、それをビリビリと破り捨てた。


「……石川?」

「私、辞めません」


 私は涙を拭い、阿部さんを真っ直ぐに見据えた。


「チーフ・コンシェルジュの肩書きも、高いお給料も魅力的です。……でも、私は、ここで働きたいんです」

「……」

「姉の死の真実を教えてくれたのは、阿部さんです。ここで出会った皆さんは、私の家族みたいに温かい。……どんな高級ホテルよりも、私はこのスパイスの匂いがする地下室が、私の『居場所』だって気づいたんです」


 阿部さんは、破られた書類の残骸と、私を交互に見た。

 そして、深いため息をつき、頭をかきむしった。


「……バグだらけの女だ。わざわざ安月給のブラック企業に残るなんてな」

「いいじゃないですか。……それに、私がいないと、誰もこの美味しいまかないの食レポをしてくれないでしょ?」


 私が笑って言うと、阿部さんはフンと鼻を鳴らした。

 でも、その口元は、確かに少しだけ緩んでいた。


「……勝手にしろ。その代わり、明日はトイレ掃除だ」

「はいっ!」


 私は残りのパスタを、心から美味しいと感じながら平らげた。


 翌日の夕方。

 私が上機嫌で経理の仕事をしていると、重たいドアが開いた。

 入ってきたのは、小川みずほだった。


「……あれ? みずほちゃん? バイトは先週で終わりじゃ……」

「……いや、それがさ」


 みずほはバツが悪そうに頭を掻いた。

 その手には、大量の機材が入ったバッグが握られている。


「大学のスタジオの機材、古くて使い物にならないんだよね。ノイズ乗りまくりだし。……おじさんの組んだサーバーと、ここのモニター環境の方が、百倍作業しやすい」

「えっ、じゃあ……」

「というわけで、ゼミの課題、ここでやらせて。……あ、もちろん家賃代わりに、今まで通りSNSの運用とかノイズ除去のバイトもするからさ」


 みずほはツンとそっぽを向きながら、自分のデスクに機材を広げ始めた。

 結局、彼女はこの事務所の「音」と「居心地の良さ」から離れられなかったのだ。


「……勝手にしろ。ただし、冷蔵庫のプリンを無断で食ったら即刻クビだ」


 阿部さんがモニター越しに言う。


「分かってるってば! あ、彩お姉ちゃん! お茶淹れてー!」

「はいはい、今淹れるね」


 私は嬉しくて、満面の笑みで給湯室へ向かった。

 足元では、チビがみずほのリュックの紐にじゃれついている。


 春の別れと、そして変わらない日常。

 それぞれの道を選び、それでもまた、この場所に集まってくる。

 デジタル・アーカイブス社は、そんな引力を持った不思議な場所なのだ。


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