第48話 邦彦のデトックス
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
地上では桜が咲き始める春の陽気だというのに、この地下室には奇妙なくらいどんよりとした、そして少しだけ「間の抜けた」時間が流れていた。
「……ミャァ。ミャッ」
床の上では、茶白の子猫・チビが、丸めたレシートを前足でドリブルして遊んでいる。
私は自分のデスクで、溜まっていた経理の帳簿打ちに精を出していた。
最近、所長の阿部邦彦はおかしい。
巨大な国家の闇『ファントム』との死闘を制し、先日は余命半年の青年の未完成ゲームをアップデートするという大仕事を終えた。
普通なら「激辛の何か」を作って一人で勝手に打ち上げをしているか、新たなセキュリティの脆弱性探しに没頭しているはずだ。
しかし、今の阿部さんは違った。
「……」
阿部さんは、PCのモニターの電源を落としたまま、椅子の背もたれに深く寄りかかり、ただぼんやりと天井の染みを見つめていた。
無精髭はいつも以上に伸び放題で、目には生気がない。
まるで、燃料が完全に尽きてしまったエンジンのようだ。
「……所長。コーヒー淹れましょうか」
私が声をかけても、阿部さんは「いらん」と短く呟くだけだった。
「どこかお加減でも悪いんですか? 左肩の傷が痛むとか……」
「傷は塞がった。……ただ、少しダルいだけだ」
阿部さんは短くため息をついた。
それは肉体的な疲労というより、精神的な虚脱感のように見えた。
無理もない。彼はこの5年間、自分を陥れた警察組織と『ファントム』への復讐だけを原動力にして生きてきたのだ。
その最大の敵が崩壊し、人生の目的を達成してしまった今。彼の中に、ポッカリと巨大な穴が空いてしまったのだろう。いわゆる「燃え尽き症候群」だ。
私がどう声をかけるべきか迷っていた、その時だった。
カツ、カツ、カツ。
階段を降りてくる足音。そして、ノックもなしにドアが開かれた。
「ちょっと、そこの廃人」
現れたのは、大家の後藤かほりさんだった。
彼女は淡いベージュのスプリングコートに身を包み、首元には軽やかなシルクのストールを巻いている。普段の「本屋の店番」スタイルよりも、ずっと洗練された、お出かけ用の装いだった。
「……大家。なんだ」
阿部さんが気怠げに首だけを向ける。
「なんだ、じゃないわよ。家賃はチャラにしてあげたけど、だからって地下でナメクジみたいに腐っていいとは言ってないわ。……出かけるわよ」
「断る。俺は忙し……」
「何もしてないじゃない。モニターも真っ暗だし」
かほりさんは阿部さんの言い訳をバッサリと切り捨てると、彼がいつも着ているグレーのパーカーの後ろ首を掴んで、無理やり立ち上がらせた。
「ほら、さっさと上着を着なさい。……石川さん、この男、半日ほど借りていくわよ」
「えっ? あ、はい。いってらっしゃいませ……」
私は呆気にとられながら、二人を見送った。
抵抗しつつも、結局はかほりさんの強い引力に逆らえない阿部さんの背中が、なんだか少し滑稽で、私は小さく笑ってしまった。
★★★★★★★★★★★
外に出ると、春とはいえ「花冷え」と呼ばれる肌寒い風が二人の間を吹き抜けた。
阿部とかほりは、神保町から少し離れた、根津や谷中が連なる下町エリアを歩いていた。
細い路地には、古い日本家屋を改装したカフェや、昔ながらの豆腐屋、こぢんまりとしたギャラリーが立ち並んでいる。
「……で? 俺をこんな所に連れ出して、何のつもりだ」
阿部がポケットに手を突っ込んだまま、不機嫌そうに尋ねる。
「デートよ」
かほりは前を向いたまま、平然と答えた。
「……俺はそういうガラじゃない。それに、あんたの荷物持ちなら中島にでも頼め」
「荷物なんかないわ。純粋に、貴方と二人で出かけたかっただけよ」
「……」
阿部は言葉を失い、かほりの横顔を見た。
彼女の表情はいつも通り涼しげだが、その言葉には嘘がないように聞こえた。
「……あんた、5年前もそうだったわね」
かほりが、ふと思い出したように言った。
「5年前?」
「私がこの街の路地裏で、行き倒れていたあんたを拾った日のことよ。……あの日は土砂降りの中で、死んだような目をして座り込んでいた」
「……思い出したくもない」
「あの時のあんたの顔は、復讐の炎だけで辛うじて形を保っている、亡霊みたいな顔だった。だから私は、あんたに『モンテ・クリスト伯』を読ませた。復讐を遂げるための物語をね」
かほりは立ち止まり、阿部を真っ直ぐに見上げた。
「でも、その復讐は終わった。ファントムは崩壊し、あんたの無実を証明する事実も、世間には出ないまでも、知るべき人間の耳には入ったわ。……今のあんたの目は、復讐の炎が消えて、ただの灰になった『抜け殻』よ」
図星を突かれ、阿部は顔をしかめた。
「……悪いか。目的を失えば、人間はこうなるもんだ」
「悪くないわ。だからこそ、今日は『デトックス』が必要だと思ったのよ」
「デトックス?」
「体に溜まった毒……過去への執着や、復讐という重い呪縛を、一度綺麗に洗い流すの。そうしないと、あんたは新しい物語を始められないわ」
かほりはそう言うと、路地の奥にある一軒の古い料亭の暖簾をくぐった。
『根津・豆腐室』と書かれた、歴史を感じさせる看板。
案内されたのは、手入れの行き届いた中庭が見える、静かな個室だった。中庭には、春の訪れを告げる沈丁花が咲いている。
「……豆腐か」
「そう。今日はあんたの作るような、胃袋を殴りつける激辛料理も、カロリー爆弾も禁止。……疲れた内臓と心を休ませるための、究極の引き算の料理よ」
かほりが注文すると、程なくしてテーブルの中央に、美しい木製の湯豆腐鍋が運ばれてきた。
花冷えの今日のような日には、鍋から立ち上る湯気が何よりのご馳走に見える。
昆布の出汁が張られた鍋の中で、真っ白な絹ごし豆腐が、静かに揺れている。
薬味は、九条ネギ、もみじおろし、そして削りたての鰹節のみ。
「……いただきます」
かほりが静かに手を合わせ、豆腐を小鉢に取り分けた。
阿部もそれに倣う。
自家製のポン酢を少しだけかけ、熱々の豆腐を口に運ぶ。
「……」
阿部の目が、微かに見開かれた。
大豆の圧倒的な甘みと、滑らかな喉越し。昆布の滋味深い出汁の香りが、鼻腔へと抜けていく。
余計な味が一切しない。
それは、普段彼が作っている計算し尽くされた足し算のスパイス料理とは真逆の、極限まで研ぎ澄まされた「無」の味だった。
「……美味いだろ?」
「……ああ。五臓六腑に染み渡る」
阿部は小さく息を吐き、もう一口、豆腐を味わった。
尖っていた神経が、温かい出汁の温度と共に、ゆっくりと解れていくのが分かる。
「お酒も頼んだわ。……『菊姫』のぬる燗よ」
仲居が持ってきた徳利から、かほりが阿部のお猪口に酒を注ぐ。
ふわりと広がる、米の芳醇な香り。
阿部はそれを一息に飲み干した。
アルコールの熱が喉を焼き、胃の奥でぽかぽかと温まる。
「……大家。あんたには、敵わんな」
阿部が自嘲気味に笑った。
「家賃をチャラにしてもらったばかりか、ファントムの暗号解読で命まで救われた。……挙句の果てに、こんなメンタルケアまで受けている。俺は、あんたにどれだけ借りを重ねれば気が済むんだ」
「気にしなくていいわよ」
かほりは自分のお猪口にも酒を注ぎ、優雅に口をつけた。
「私はただ、自分が拾った猫が、野垂れ死ぬのを見たくないだけ。……それに、あんたのそのハッキング技術は、これからも私の古書店の防犯システムとして役に立ってもらわなきゃ困るしね」
「……人使いの荒い大家だ」
二人は、静かな中庭の景色を眺めながら、ゆっくりと湯豆腐をつつき、酒を酌み交わした。
何も喋らなくても、気まずさはない。
5年という月日が培った、言葉以上の理解と信頼がそこにはあった。
「……阿部くん」
ふと、かほりが静かな声で言った。
「復讐が終わって、空っぽになった気分はどう?」
「……最悪だ。明日から何を目標にタイピングすればいいのか、自分でも分からない。……ただの『遺品整理屋』として、他人のパスワードをこじ開けるだけの毎日に、戻れる気がしない」
「戻らなくていいのよ」
かほりは、徳利を置いて阿部を見つめた。
「あんたはもう、5年前の孤独な亡霊じゃない。……今のあんたには、彩ちゃんがいる。みずほちゃんがいる。アキちゃんや、エミリーや、鞠や、涼子もいるわ。……そして、私もね」
「……」
「あんたは自分の過去を清算するために、私たちを巻き込んだかもしれない。でも、私たちはあんたの復讐の道具じゃないわ。……私たちは、一緒に美味しいものを食べて、理不尽な世界に文句を言って、誰かの想いを守るために戦う『チーム』よ」
かほりの言葉が、阿部の胸の奥深くに、ゆっくりと染み込んでいく。
湯豆腐の温かい出汁のように。
「過去への執着という『毒』は、もう抜けきったはずよ。……これからは、自分のために、そしてあんたの周りにいる騒がしい連中のために、その腕と料理の才能を使いなさい」
かほりは微笑み、最後のお猪口を差し出した。
阿部はそれを受け取り、ゆっくりと飲み干した。
不思議なほど、心が軽かった。
背負っていた重い鎧が、いつの間にか外れ落ちていた。
「……あんたには、一生頭が上がらないな」
「当然よ。家主には絶対服従。それが『デジタル・アーカイブス社』の規約でしょ?」
かほりは悪戯っぽく笑い、会計の伝票を手に取った。
しかし、阿部がそれをサッと奪い取った。
「ここは俺が払う」
「あら。いいの?」
「デートだと言ったのはあんただろ。……たまには、男に格好をつけさせろ」
阿部は少しだけ耳を赤くして、立ち上がった。
かほりは嬉しそうに目を細め、「ごちそうさま」と小さく呟いた。
★★★★★★★★★★★
夕暮れの神保町。
古書店の街灯が、一つ、また一つと点り始める。
事務所へと続く階段を降りる二人の足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。
「ただいま戻りました」
かほりがドアを開けると、中からは強烈なニンニクと醤油の香りが漂ってきた。
「あ、おかえりなさい! 所長、大家さん!」
私が迎えると、デスクの奥では、みずほがカップラーメンにお湯を注ぎ、エミリーが大量のポテトチップスを広げていた。
「クニ、遅いわよ! お腹空きすぎてジャンクフードのパーティー始まっちゃったじゃない!」
「そうだよおじさん! 今日の夕飯なに!?」
相変わらずの、カオスで騒がしい日常。
阿部は呆れたようにため息をついたが、その表情には、もう先ほどまでの虚脱感はなかった。
「……仕方ない。ジャンクな胃袋を浄化する、最高の中華粥を作ってやる。石川、干し貝柱を戻せ」
「はいっ!」
阿部がエプロンを締め、キッチンに立つ。
中華包丁がまな板を叩く、小気味良い音が地下室に響き始めた。
かほりはソファに座り、その背中を満足げに見つめている。足元では、チビが「ミャー」と鳴いて、阿部のスリッパにじゃれついていた。
過去の呪縛からのデトックス。
空っぽになった彼の心には、すでに新しい「日常」という名の具材が、たっぷりと詰め込まれ始めているようだった。




