第47話 最後の依頼人(後編)〜未来へのアップデート〜
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
結城さんの遺したゲームデータを「完成させる」という前代未聞の規約違反が決議されてから、丸二日の月日が流れていた。
結城さんのスマホに送信した生存確認アラートの無応答期間は、まもなく「3日間」という契約上のタイムリミットを迎えようとしている。
この二昼夜、地下室は凄まじい熱気と、極限の疲労感に包まれていた。
「……ミャァ!」
徹夜続きで血走った目をした阿部さんたちの後ろで、私が書類の整理をしていると、足元から元気な鳴き声がした。
見下ろすと、茶白の子猫・チビが、自分の体と同じくらいあるネズミのぬいぐるみをくわえて、私の足元にぽとりと落とした。
「……遊んでほしいの?」
私がぬいぐるみを拾い上げ、部屋の奥に向かって「えいっ」と投げると、チビはダダダッと短い足で猛ダッシュした。
そして、見事にぬいぐるみを捕まえると、誇らしげな顔でくわえ、再び私の足元へとトコトコ戻ってくる。
ぽとり。
「……ミャウ(もう一回)」
「ふふっ、犬みたいだね」
私がもう一度投げると、チビはまた弾丸のように走っていき、しっぽをピンと立てて戻ってくる。
何度投げても、飽きることなく繰り返す。その一生懸命な姿が愛らしくて、私はつい作業の手を止めてチビとの遊びに夢中になってしまった。
張り詰めた空気の中、チビの存在だけが唯一の癒やしだった。
「……おい石川。遊んでる暇があるなら、コーヒーを淹れろ。カフェインが切れた」
メインデスクから、所長の阿部邦彦が低く掠れた声で言った。
彼は三面モニターを睨みつけながら、猛烈な速度でキーボードを叩いている。その目の下には、くっきりと濃い隈が刻まれていた。
「あ、すみません! すぐ淹れます!」
「チビ、こっちおいで。お姉さんが遊んであげるわよ……と言いたいところだけど、手が離せないわ」
エミリー・ローレンスも、エナジードリンクの空き缶の山に囲まれながら、キーボードの上で残像を残すほど高速で指を動かしていた。
「クニ、後半のマップデータのコリジョンのバグ、修正終わったわよ! 次はイベントフラグの修復ね。……タイムリミットまであと数時間よ!」
「ああ。だが、ラストダンジョンのボス戦のルーチンが完全に抜け落ちている。俺がゼロからAIを組む。エミリー、お前はグラフィックのレンダリング最適化を頼む」
「Copy that!(了解!)」
二人の天才ハッカーは、この二日間、仮眠もそこそこに結城さんが遺したゲームのソースコードを読み解き、未完成だった部分を驚異的な速度で補完し続けていた。
結城さんのプログラムの癖、思考回路、そして彼がこのゲームで表現したかった「世界観」。阿部とエミリーは、コードを通して結城さんと対話しているかのようだった。
「……音、できたよ」
ヘッドホンを外した小川みずほが、大きく伸びをした。彼女もまた、フラフラの状態だ。
「未完成だったラストバトルのBGMと、エンディングテーマ。結城さんの残したモチーフをベースに、ストリングスとピアノで補完した。……絶対、泣けるやつだよ」
「よくやった。データをサーバーに上げろ。組み込むぞ」
阿部が指示を飛ばす。
デジタル班がゲームの完成に向けて死闘を繰り広げている一方、アナログ班も極限の戦いを続けていた。
バンッ!
入り口のドアが開き、情報屋の中島鞠と、葬儀屋の岡田アキが飛び込んできた。
二人とも、雨に降られたのかコートが濡れ、髪が乱れている。
「見つけたわよ! 丸二日かかったけど、結城くんの『親友』!」
鞠が息を切らせて叫ぶ。
「名前は遠野達也。今は小さなシステム開発会社でプログラマーをやってるわ」
「アキさんたちが足で探したんですか?」
「おう! 結城くんの昔のSNSの繋がりから、それっぽい奴をしらみつぶしに当たったんだ! もう足が棒だべ!」
アキが親指を立てる。
その背後から、戸惑ったような顔をした同年代の青年が姿を現した。
「あ、あの……結城が、倒れたって……本当ですか?」
「ええ。現在、大学病院のICUに入っています。……タイムリミットまで、もう時間がありません」
私は達也さんを真っ直ぐに見つめて言った。
「彼が、貴方に遺したものがあります。……どうか、一緒に病院へ来てください」
大学病院のICU(集中治療室)。
結城さんは、深い眠りの中にいた。
心電図のモニターは、かろうじて彼が生きていることを示しているが、その波形は弱く、いつ平坦になってもおかしくない状態だった。
私たちデジタル・アーカイブス社のメンバーと、達也さんは、特別に許可をもらって病室に入った。
達也さんは、変わり果てた親友の姿を見て、言葉を失っていた。
「……結城。おい、嘘だろ……」
達也さんが震える手で、結城さんの細い腕に触れる。
「あんな喧嘩したまま……ふざけんなよ。俺、ずっと……お前とまたゲーム作るの、待ってたのに……」
「……遠野達也さん」
阿部が、一台のノートPCをベッドの脇のテーブルに置いた。
それは、結城さんから預かった、あの古いパソコンだ。
「結城は、このパソコンの中のデータを『自分が死んだら消してくれ』と俺たちに依頼した。……だが、消す前に、あんたにこれを見届ける義務がある」
阿部がエンターキーを叩く。
画面が明るくなり、タイトルロゴが表示された。
『クロノス・ソナタ』。
「……これ、俺たちが学生の頃から作ってたやつだ。でも、結城が体を壊して、俺と喧嘩になって……お蔵入りになったはずじゃ……」
「結城は、一人で作り続けていた。……そして、俺たちがこの二日間で少しだけ『手伝い』をさせてもらった」
阿部はゲームパッドを達也さんに差し出した。
「プレイしろ。……結城が最後に残したメッセージだ」
達也さんは涙を拭い、震える手でゲームパッドを受け取った。
ゲームが始まる。
洗練されたドット絵、滑らかなアニメーション、そしてみずほが完成させた切なくも力強いBGMが、病室に静かに響く。
達也さんは、プログラマーとしての知識を持つからこそ、すぐに理解した。
このゲームに込められた、途方もない執念と才能を。
そして、一人では到底完成させられないはずのこのシステムが、完璧に動作していることに。
「……すごい。結城、お前……こんなコード書けるようになってたのかよ……」
物語は終盤、ラストダンジョンへと進んでいく。
主人公の少年と、相棒の剣士。
二人は世界の崩壊を止めるため、最後の敵に挑む。
阿部とエミリーが徹夜で組み上げたAIによる、熾烈なボス戦。
達也さんは無我夢中でコントローラーを操作し、ついにボスを打ち倒した。
画面が白くフェードアウトし、エンディングが始まる。
静かなピアノの旋律の中、エピローグが語られる。
相棒の剣士は、世界を救うために自らの命を犠牲にした。
残された主人公は、一人で生きていくことを決意する。
そして、スタッフロールの後。
画面が真っ暗になり、あの『隠しステージ』のテキストウィンドウが表示された。
『……ごめん。最後まで一緒に走れなくて』
ゲームのキャラクターではない、結城さん自身の言葉。
達也さんの肩が、大きく跳ねた。
『お前とゲームを作っていた時間は、俺の人生で一番楽しかった。
俺が病気になった時、お前は「俺が何とかする」って言ってくれたけど。
俺は、お前の才能に嫉妬してたんだと思う。
だから、ひどい言葉をぶつけて、お前を追い出した』
病室に、達也さんの嗚咽が響く。
『本当は、二人で完成させたかった。
でも、俺にはもう時間がない。
このゲームは、お前との思い出の墓標だ。
だから、俺の死と一緒に、完全に消し去ることにした』
『……ありがとう。そして、ごめんな』
メッセージの最後。
そこに、阿部たちが「アップデート」した、新しい数行が付け加えられていた。
『――追記』
『このゲームは、お前の手を離れた後、見ず知らずのお節介な連中の手によって「完成」してしまったらしい』
『俺の失敗作を、勝手に名作にしやがって。……本当に腹が立つ』
『達也。……俺の負けだ。
俺のデータは消える。でも、この完成したゲームは、お前に託す。
俺の死に縛られるな。
お前は、最高のゲームを作って、世界中を驚かせてくれ。
……ずっと、親友だ』
「……結城っ……!!」
達也さんはゲームパッドを抱きしめ、ベッドに突っ伏して号泣した。
「バカ野郎……! お前のコード、最高だったよ……! 世界一のゲームだよ……っ!!」
その泣き声を聞いていたかのように。
心電図のモニターの波形が、ゆっくりと、ゆっくりと穏やかになり――。
やがて、フラットな直線へと変わった。
ピーーーーーーッ。
長い警告音が、結城さんの旅立ちを告げた。
苦しむこともなく、本当に安らかな、眠るような最期だった。
彼はきっと、達也さんが自分の想いを受け取ってくれたことを、魂で感じ取っていたのだ。
阿部は静かにPCを閉じ、深く一礼した。
私も、エミリーも、みずほも、アキさんも、鞠さんも、全員が黙って頭を下げた。
その直後、阿部のスマートフォンが短く振動した。
「……阿部さん」
達也さんが、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「このデータ……本当に、消えちゃうんですか?」
「……結城との契約だからな」
阿部がスマホの画面を確認する。
「彼が指定したクラウド上の『未完成データ』は、たった今、3日間の応答がないという条件を満たした。デッドマンズ・スイッチが発動し、クラウド上のオリジナルデータは完全に消去された」
「……」
「だが」
阿部は、先ほど達也さんがプレイしていたノートPCとは別の、小さなUSBメモリをポケットから取り出し、達也さんに手渡した。
「俺たちがこの二日間、ローカル環境で勝手に組み上げ、完成させた『別のゲーム』のデータは、ここにある。……受け取れ。これは、あんたへの遺品だ」
「阿部さん……」
「世に出すかどうかは、あんたが決めろ。……彼の遺した魂を、継承してやってくれ」
達也さんはUSBメモリを両手で包み込み、深く、深く頭を下げた。
死後削除の予約。
それは、単なるデータの抹消ではなかった。
未完成の想いを一度終わらせ、残された者の手で「新しい未来」へとアップデートするための、壮大な儀式だったのだ。
深夜の事務所。
喪服を着替える気力もなく、私たちは地下室のソファに沈み込んでいた。
結城さんの葬儀が終わり、全てが片付いた後だ。
連日の徹夜と、深い疲労感、そして言葉にならない余韻が、空気を重くしている。
「……おい、起きろ」
阿部の声が響いた。
彼がテーブルに置いたのは、大きな土鍋だった。
「……何、これ」
みずほが目をこすりながら覗き込む。
土鍋の中には、真っ白で、トロトロに煮込まれたお粥が入っていた。
「中華風の鶏粥だ。……丸鶏を一羽、生姜とネギ、少量の干し貝柱と一緒に弱火で4時間煮込んだスープ。そこに生米を入れ、米の花が咲くまで徹底的に炊き上げた」
阿部はお玉で熱々のお粥をすくい、小さな器によそっていく。
トッピングは、細かく裂いた蒸し鶏、白髪ネギ、パクチー、そして揚げたワンタンの皮。
「……いただきます」
レンゲで一口すする。
胃袋に、そして疲れた心に、温かい液体が染み渡っていく。
鶏の深い旨味と、干し貝柱の複雑なコク。それが、トロトロになったお米の甘みと完全に一体化している。
生姜の香りが、冷え切った体を内側からポカポカと温めてくれる。
今まで阿部さんが作ってきたような、刺激的なスパイス料理や暴力的なジャンクフードとは違う。
どこまでも優しく、滋味深く、傷ついた細胞を修復していくような味。
「……美味しい」
私の目から、自然と涙がこぼれた。
「……泣くな。塩分が変わる」
「だって……優しすぎるんですもん、このお粥」
エミリーも、みずほも、アキさんも、無言でお粥をすすっている。
誰もが、結城さんの最期の顔を思い出していた。
「……所長」
「なんだ」
「生前整理って、ただデータを消すことじゃないんですね」
「……」
「消すことで守られる尊厳があって。でも、残すことで繋がる未来がある。……私、今日、それが痛いほど分かりました」
阿部は自分の器の粥をすすり、ふっと息を吐いた。
「データは0と1だ。だが、それをどう読み解き、どう届けるかは、人間のエゴだ。……俺たちは、そのエゴで生きていくしかない」
阿部の言葉は、不器用だけど、どこまでも誠実だった。
「ミャァ……」
足元で、チビが私のズボンを引っ張った。
見ると、あのネズミのぬいぐるみをくわえている。
まだ遊ぶの? 元気だね。
私はクスッと笑い、チビの頭を撫でた。
死者のための仕事。でも、私たちが食べるのは、生きるための温かい料理だ。
明日も、きっと誰かの想いがこの地下室に持ち込まれる。
私たちは、それを紐解き、未来へとアップデートしていくのだ。
この最強の仲間たちと一緒に。




