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死者からの検索履歴、削除しますか? ~デジタル遺品整理室の暗号解読~  作者: 伊達ジン
第二章:黒い履歴と白い嘘

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第45話 最後の依頼人(前編)〜死後削除の予約〜

 神保町の地下にある『デジタル・アーカイブス社』。

 ファントムとの死闘を終え、私たちがこの場所で再び穏やかな日常を取り戻してから、季節は巡り、春の足音が聞こえる頃になっていた。

 大家のかほりさんの粋な計らいによって、長年の懸案だった「家賃の滞納分」はチャラになり、修繕費の返済は残っているものの、所長の阿部邦彦の精神状態はすこぶる良好のようだった。

 しかし、精神状態が良好だからといって、彼が引き起こす騒動が穏やかになるわけではない。


「……くっさ!! なにこれ、下水の臭いがするんだけど!?」


 アルバイトの小川みずほが、鼻をつまみながら悲鳴を上げた。

 大学の講義から帰ってきたばかりの彼女は、ドアを開けた瞬間に鼻腔を直撃した異臭に顔を歪めている。


「Oh my god... クニ、中で死体でも腐ってるの!?」


 居候のカナダ人ハッカー、エミリー・ローレンスも、自慢の金髪を振り乱して窓にすがりついている。


「騒ぐな。今、最高の温度帯に入ったところだ」


 阿部は、エプロン姿で中華鍋の前に立ち、長い菜箸を握りしめていた。

 鍋の中の高温の油で揚げられているのは、黒ずんだ正方形の物体。

 それが、この暴力的な悪臭の発生源だった。


「……臭豆腐だ。台湾や香港の屋台で定番の、発酵食品の王様だよ」

「チョウドウフって……あの、バラエティ番組で罰ゲームに使われるやつですか!?」


 私もたまらず、口元をタオルで覆いながら尋ねた。


「素人が作る粗悪品と一緒にすんな。俺が作っているのは、伝統的な製法に則った本物の臭豆腐だ」


 阿部は鍋から目を離さずに解説を始めた。


「野菜のクズ、エビの殻、タケノコ、そして数種類のハーブを塩水に漬け込み、数ヶ月間発酵させて『臭滷水』と呼ばれる発酵液を作る。そこに水気を切った木綿豆腐を一晩漬け込み、豆腐のタンパク質をアミノ酸レベルまで分解させるんだ」

「数ヶ月発酵……って、それもう腐ってるんじゃ……」

「発酵と腐敗は紙一重だ。だが、この発酵液が豆腐に信じられないほどの旨味をもたらす」


 阿部は油から真っ黒になった豆腐を引き上げ、網に乗せた。

 揚げたてはさらに臭いが強烈になり、アンモニアと発酵臭が混ざり合った、目や鼻を刺すような匂いが地下室を満たす。

 阿部はその臭豆腐に、特製のニンニク醤油ダレ、甘辛いチリソース、そしてたっぷりの香菜と白髪ネギを乗せた。


「……完成だ。飲み物はこれにする」


 阿部が冷蔵庫から取り出したのは、見慣れない透明な液体の入った瓶だった。


「ラクシだ。ネパールやチベットで作られる、稗や米を原料にした伝統的な蒸留酒だ」

「ネパールのお酒……?」

「アルコール度数は45度近い。非常にドライで、穀物由来の荒々しい風味が特徴だ。……臭豆腐の強烈な旨味と臭みは、中途半端な酒や水では洗い流せない。このラクシの暴力的なアルコールと揮発性の香りで、口の中を強制的にリセットするんだ」


 阿部は小さなグラスにラクシを注ぎ、自分と、エミリー、そしてみずほの前に置いた。


「下戸の石川にはこれだ」


 阿部が私にドンと置いたのは、無糖の強炭酸水に、中国の熟成黒酢を数滴垂らした特製ドリンクだった。


「石川はアルコールの代わりに、強炭酸の刺激と黒酢の酸味で口内を洗い流せ。……食え。そして飲め」


 悪臭に顔をしかめながらも、私たちは阿部の「料理の腕」だけは絶対に信用していた。

 私は意を決して、タレが絡んだ臭豆腐を一口かじった。


「……っ!?」


 サクッ、という軽快な衣の音。

 その直後、鼻を抜ける強烈な発酵臭とは裏腹に、口の中には信じられないほど濃厚な旨味が溢れ出した。

 普通の豆腐とは全く違う。まるで、極上の熟成チーズや、高級なフォアグラを食べているかのようなクリーミーさとコク。そこにニンニクとチリソースのパンチが加わり、脳が混乱するような美味しさだ。


「……嘘、美味しい! 臭いのに、美味しい!」


 みずほが目を丸くして二口目を頬張る。

 そして、阿部に言われた通りにラクシをくいっと煽った。


「っかー! アルコールきっつ! でも、すっごくスッキリする!」


 私も一口飲む。強烈なシュワシュワ感と黒酢の酸味が、口の中に残っていた発酵臭を魔法のように消し去り、次の一口を強烈に欲するようになる。


「Yummy! このラクシも強烈ね! クセになるわ!」


 エミリーもご機嫌で箸を進め、強い酒を流し込んでいる。

 強烈な臭いも、食べてしまえば最高のスパイスに変わる。阿部の計算し尽くされたペアリングの妙だった。


 私たちが異国の屋台気分を味わっていた、その時だった。

 カラン、と入り口のドアが開いた。

 

「……あの、予約していた結城ですが……」


 入ってきたのは、20代後半くらいの青年だった。

 私たちは慌てて箸を置き、換気扇の出力を最大にした。


「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」


 私は消臭スプレーをこっそり撒きながら、彼をソファへ案内した。

 結城と名乗ったその青年は、季節外れの厚手のコートを着ていた。

 年齢の割に、ひどく痩せこけている。頬はこけ、肌は透き通るように青白い。そして、歩く足取りは頼りなく、息が少し上がっていた。


「……申し訳ありません、少し匂いが残っていて」

「いえ……大丈夫です。なんだか、活気があっていいですね」


 結城さんは弱々しく微笑んだ。

 阿部がエプロンを外し、デスクから向き直った。


「所長の阿部だ。……ご依頼の件だが、メールには『死後削除のシステム構築』とあったな」

「はい」


 結城さんは、バッグから一台の古いノートパソコンを取り出した。


「私が死んだ後、指定したクラウドサーバー上にある全データを、自動的に完全消去する仕組みを作っていただきたいんです。いわゆる、生前契約というものでしょうか」

「『デッドマンズ・スイッチ』だな」


 阿部が静かに言った。

 一定期間、ユーザーからのログインやアクションがない場合、自動的にプログラムが発動してデータを消去するシステム。機密情報を扱うハッカーや、ジャーナリストなどが用いる手段だ。


「……失礼だが、あんたは随分と若い。なぜ、そんなシステムを急ぐ?」

「……医者に、言われたんです」


 結城さんは、自分の細い指先を見つめながら言った。


「余命、半年だと。……心臓の、重い病気です。手術も難しくて、もう、どうしようもないみたいで」


 その言葉に、私は息を呑んだ。

 余命半年。

 こんなに若い人が。まだ、私と同じくらいの年齢なのに。


「……そうか」


 阿部の声は、冷徹なほどフラットだった。


「削除したいデータとは、なんだ?」

「……ゲームの、開発データです」


 結城さんはパソコンの画面を開いた。

 そこには、ドット絵で描かれたキャラクターや、背景マップの画像データ、そして無数のプログラムコードが並んでいた。


「私は昔、インディーズのゲームクリエイターになりたくて、仲間と一緒にRPGを作っていました。でも……結局、完成させることができなかった。仲間とも喧嘩別れして、企画は頓挫しました」

「……」

「このデータは、私の挫折の象徴です。誰にも見せられない、恥ずかしい失敗作。……だから、私が死ぬと同時に、この世から完全に消滅させたいんです」


 結城さんの声には、深い後悔と諦めが滲んでいた。


「分かりました」


 阿部は事務的に答えた。


「だが、クラウド上のデータの削除設定なら、アクセス権限を共有してもらえば遠隔で処理できる。なぜわざわざ、そのPC本体を預ける必要がある?」

「このPCのローカル環境に、クラウドのマスターキーが物理的に紐付いているんです。それに……」


 結城さんは、手から離れたPCを見つめ、弱々しく笑った。


「手元に置いておくと、未練がましく見返してしまいそうで。もう、自分でも触れたくないんです。だから、物理的に手放したい」

「……なるほど。俺のサーバーを経由して、あんたの生存確認用のアラートを毎日スマホに送信する。3日間応答がなければ、このPCからクラウドへ不可逆的な消去コマンドを送るスクリプトを組む。……それでいいな?」

「はい。……よろしくお願いします。これで、安心して……死ねます」


 結城さんは深く頭を下げた。

 その細い肩が、ひどく脆く見えた。

 私は彼にお茶を出しながら、胸が締め付けられるような同情を覚えていた。

 自分の死を待つ間に、自分の生きた証を消す準備をする。それは、どれほど孤独で、苦しい作業なのだろうか。


「……結城さん。もし何か、私たちでお手伝いできることがあれば……」

「ありがとうございます。でも、もういいんです。十分ですから」


 結城さんは穏やかに微笑み、前金の入った封筒を置いて事務所を後にした。


 彼が帰った後。

 地下室には、重苦しい沈黙が落ちていた。


「……可哀想に。あんなに若いのに」


 私がぽつりとこぼすと、阿部は無言で結城さんのパソコンを自身のモニターに繋ぎ、データの構成を確認し始めた。


「所長、システムはすぐに組めそうですか?」

「……ああ。スクリプトを書くのは造作もない。だがな」


 阿部はキーボードから手を離し、顎をさすった。

 その目には、ハッカー特有の「違和感」を捉えた鋭い光が宿っていた。


「……おかしいと思わないか?」

「え?」

「対象のデータはクラウド上にある。そして彼は、マスターキーが紐付いているという理由で、わざわざこのPCごと俺たちに預けていった。手元にあると未練が湧くと言っていたが……もし本当にただの『恥ずかしいゴミ』で、完全に消し去りたいのなら……今すぐ、自分でデリートボタンを押せば済む話だ」


 阿部の言葉に、私はハッとした。

 確かにそうだ。自分で消せるものを、なぜわざわざ「死んだ後」に消えるように設定するのか。


「人間は矛盾する生き物だ。未練があろうとなかろうと、本当に見られたくないものは、死ぬ前に自分の手で処分する。……わざわざ他人に『PCごと託して死後削除を依頼する』という行為は、論理的に破綻している」


 阿部はモニターに表示された、未完成のゲームのタイトルロゴを見つめた。


 『クロノス・ソナタ』という文字が、美しいドット絵で描かれている。


「これは、消してほしいんじゃない。……誰かに『見つけてほしい』、あるいは『気付いてほしい』という、矛盾したSOSの可能性がある」


 その時、横からモニターを覗き込んでいたエミリーが、感嘆の声を上げた。


「……クニ、これ見て。ソースコードの構造」


 彼女は阿部のキーボードを叩き、プログラムの中身を展開した。


「すごいわ。モジュール化が完璧で、無駄な記述が一切ない。グラフィックのレンダリング処理も、インディーズとは思えないくらい最適化されてる。……これ、素人の失敗作なんかじゃないわよ。天才的なプログラマーのコードだわ」

「……音もいいよ」


 いつの間にかヘッドホンを繋いでいたみずほが、目を閉じて言った。


「ゲームのBGMのラフデータが入ってる。……すごく切なくて、温かいメロディ。でも、最後のフレーズだけが空白になってる。……未完成だね」


 エミリーとみずほ、二人のクリエイターとしての直感が、結城さんの言葉が嘘であることを告げていた。

 彼はこのゲームを「失敗作」だと言った。

 でも、データは語っている。この作品に込められた、途方もない情熱と才能を。


「……結城さんは、本当はこれを完成させたかったんじゃないでしょうか」


 私は言った。


「仲間と喧嘩別れして、自分は病気になって。……だから諦めるしかなかったけど、本当は、誰かにこのゲームを遊んでほしかった。……だから、今日、自分で消すことができなかったんじゃないですか?」


 阿部は黙って私を見た。

 そして、小さく息を吐いた。


「俺たちはデータの整理屋だ。依頼人の要望通りにシステムを組むのが仕事だ。……お前は、このデータをどうしたいんだ、石川」

「……結城さんの、本当の想いを知りたいです」


 私は真っ直ぐに阿部さんを見つめ返した。


「彼が残したかったものが何なのか。……死ぬために消すんじゃなくて、生きた証として残せる方法がないのか、探したいです」

「……お節介な奴だ。だが、そのバグみたいな感情移入が、お前の持ち味だったな」


 阿部は少しだけ口角を上げると、モニターに向き直った。


「エミリー、小川。このゲームデータを隅から隅まで解析しろ。……俺は、結城の言う『喧嘩別れした仲間』とやらを洗い出す。中島に裏取りを頼め」

「Copy that!(了解!)」

「任せて。音のピース、全部拾い上げるから」


 チームが動き出す。

 残された時間は半年。いや、彼の病状を考えればもっと短いかもしれない。

 最後の依頼人となるかもしれない青年の、隠されたSOS。

 私たちは、その未完成のパズルを解き明かすための作業を開始した。


 地下室には、まだ微かに臭豆腐の発酵臭と、ラクシのアルコールの香りが漂っていた。

 それは、死に向かう青年を前にしても、私たちが「生」のエネルギーを絶やさないための、阿部さんなりのエールだったのかもしれない。


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