第44話 忘れられたパスワード
巨大な闇であった「ファントム計画」が崩壊し、神保町の地下にある『デジタル・アーカイブス社』に日常が戻ってきてから、数週間が経った。
大家のかほりさんの粋な計らいにより、阿部さんが抱えていた莫大な『家賃の滞納分』はチャラになり、事務所の財政も精神的にも、少しだけ余裕が生まれていた。
そんな平和な冬の日の昼下がり。
私は事務所で一人、帳簿の整理をしていた。所長の阿部邦彦は不在だ。
なぜなら彼は今、葬儀屋の岡田アキさんに拉致されて、上野・アメ横へと強制連行されているからだ。
「……阿部ちゃん、ほら、もっとシャキッと歩きな! せっかくのデートだべ!」
「誰がデートだ。ただの荷物持ちだろうが」
アキさんから送られてきた写真付きのメッセージには、アメ横の雑踏の中で、両手に紙袋を提げて不機嫌極まりない顔をした阿部さんの姿が写っていた。
アキさんは仕事が休みの日は、元ヤン全開の私服で、こうして時々阿部さんを連れ出しては飲み歩いているのだ。
★★★★★★★★★★★
上野・アメ横のガード下。
昼間から開いている大衆居酒屋の立ち飲みカウンターで、俺は溜息をついた。
「……なんだこのモツ煮は。下茹でが甘いから臭みが残っている。それにビールの温度管理もなってない。グラスが冷えすぎていて泡が死んでいる」
「うるさいねぇ。こういう雑多なところで、昼間から安酒をあおるのが最高なんじゃないか。ほら、飲め飲め!」
アキは豪快にジョッキを空け、串カツに齧り付いた。
この女の底抜けの明るさと図太さには、時々ペースを乱される。
ファントムとの死闘の際、俺の背中の傷を真っ先に手当てしてくれたのは彼女だ。その恩がある手前、こうしてたまの「デート」という名のパシリに付き合わされているわけだが。
「……で? ただ飲みたいから俺を呼び出したわけじゃないだろ、葬儀屋」
「……バレてたか」
アキは串カツの竹串を皿に置き、少しだけ真面目な顔になった。
「実はさ、先週担当した葬儀の遺族なんだけど……ちょっと気がかりなことがあってさ。阿部ちゃんに、デジタル遺品整理を頼めないかと思って」
「どんな案件だ」
「亡くなったのは、85歳のおじいちゃん。名前は茂蔵さん。……重度の認知症だったんだ」
アキはジョッキの結露を指でなぞりながら言った。
「最期の方は、自分の家族の顔も、名前も分からなくなってたらしい。同居してる孫娘の美月ちゃんのことすら『あんた、誰だい?』って言うようになってさ。……美月ちゃん、すごくショック受けててね」
「……認知症の末期なら、珍しい話じゃない」
「でもね、その茂蔵さん、古ぼけたノートパソコンだけは、自分の宝物みたいにずっと抱え込んでたんだって。キーボードを叩く真似をしたりしてさ。……家族は『どうせボケて適当に触ってただけだろ』って言うんだけど、私はエンバーミングの時に見たんだ」
アキの目が、プロのエンバーマーのそれに変わる。
「茂蔵さんの右手の人差し指と中指、キーボードを叩きすぎたせいで、硬いタコができてた。……ただボケて触ってただけじゃない。あの人は、何かを『書き残そう』としてたんだよ」
俺は残っていたビールを飲み干した。
認知症の老人が、記憶を失っていく中で、パソコンに執着していた理由。
……データ屋の食指が動く案件だ。
「分かった。……事務所に連れてこい」
「よしきた! さすがお人好しの阿部ちゃん!」
アキは満面の笑みで俺の背中をバンバンと叩いた。傷に響くからやめろと言っているのに。
俺たちは立ち飲み屋を出て、事務所へと向かった。
★★★★★★★★★★★
夕方。事務所に戻ってきた阿部さんとアキさんに連れられて、一人の若い女性がやってきた。
茂蔵さんの孫である、美月さんだ。
「……あの、よろしくお願いします。アキさんから、こちらなら祖父のパソコンを開けてくれると聞いて」
「お預かりします。所長の阿部です」
美月さんがテーブルに置いたのは、10年以上前の古いWindowsのノートパソコンだった。天板には傷が目立ち、キーボードの特定の文字が擦り切れている。
「祖父は、3年ほど前から認知症を患っていました。最初は物忘れ程度だったんですが、徐々に進行して……最後の一年は、私のことも、母のことも、分からなくなってしまいました」
美月さんは、悲しそうに目を伏せた。
「『ご飯はまだか』と何度も怒鳴ったり、私を泥棒扱いしたり……。介護は本当に大変で、私たちは祖父のことを少し憎んでしまうくらい疲弊していました」
「……」
「でも、祖父が亡くなって部屋を整理していたら、このパソコンが出てきたんです。祖父は昔から日記をつけるのが日課で、手が震えるようになってからはパソコンでタイピングをしていました。……もしかしたら、ここに祖父の『本当の気持ち』が残っているんじゃないかと思って」
美月さんはパソコンを愛おしそうに見つめた。
自分が忘れられてしまったという悲しみ。それでも、祖父の中に自分たちへの愛が残っていたと信じたい切実な願い。
「分かりました。ロックを解除しましょう」
阿部さんがパソコンに電源ケーブルを繋ぎ、起動させる。
古いHDDがカリカリと音を立てて回り、Windowsのログイン画面が表示された。
アカウント名『Shigezo』。パスワードの入力が求められている。
「……パスワードの心当たりはありますか?」
「祖父の誕生日、祖母の誕生日、自宅の電話番号……思いつくものは試したんですが、ダメでした」
「だろうな」
阿部さんはキーボードに手を置いた。
「認知症の記憶障害は、直近の新しい記憶から失われていき、古い記憶ほど鮮明に残るという特徴がある。そして、パスワードを設定したのが認知症の進行中だったとすれば……彼が『絶対に忘れたくなかった、最も強く刻まれた記憶』が鍵になるはずだ」
「絶対に忘れたくなかった記憶……」
「茂蔵さんが、一番大切にしていたものは何ですか?」
阿部さんの問いに、美月さんは少し考え込んだ。
「……祖母です。祖母のサナエは、私が中学生の時に亡くなったんですが、祖父はずっと祖母の写真に話しかけていました。でも……」
「でも?」
「認知症が酷くなってからは、祖母のことも忘れてしまったんです。『サナエなんて女は知らん』って」
「……なるほどな」
阿部さんは目を閉じ、茂蔵さんの思考をプロファイリングしていく。
記憶が砂のように指の間からこぼれ落ちていく恐怖。
愛する妻の名前すら忘れてしまった自分への絶望。
その中で、彼が最後に設定したパスワード。
「アキ」
「なんだべ」
「茂蔵さんの遺体を修復した時、何か特徴的な身体の痕跡はあったか?」
「……ああ。キーボードのタコ以外だと、左手の薬指に、指輪の跡がくっきり残ってた。ずっと外さずにつけてたんだろうね」
「指輪の跡、か」
阿部さんは目を開き、キーボードを叩いた。
「美月さん。茂蔵さんとサナエさんの、結婚記念日はいつですか?」
「えっと……昭和40年の、11月22日です。『いい夫婦の日』だからって、祖父がいつも自慢してました」
「名前を忘れても、体に刻まれた習慣と、感情のピークの記憶は、本能の領域に残る」
阿部さんは、パスワード入力欄に打ち込んだ。
『Sanae_1122』。
……エラー音が鳴る。
「……違うか。ならば、もっと古い、原体験に近い記憶だ。……茂蔵さんは、サナエさんを普段なんと呼んでいましたか?」
「『サナ』です。ずっと、そう呼んでいました」
「それだ」
阿部さんは再びキーを叩いた。
『Sana1122』。
カチッ。
長い沈黙の後、Windowsの起動音が鳴り響いた。
ロックが解除されたのだ。
「……開きました!」
私が歓声を上げる。
阿部さんは素早くデスクトップを確認した。
そこには、たった一つのテキストファイルが置かれていた。
ファイル名は『忘れないために』。
「美月さん。……読んでください」
阿部さんが画面を美月さんの方へ向けた。
美月さんは震える手でマウスを握り、そのファイルをダブルクリックした。
表示されたのは、日付と共に綴られた、膨大な量の日記、いや『備忘録』だった。
『2020年4月5日
最近、物忘れがひどい。今日、美月の高校の入学式だと思い込んでしまった。あの子はもう社会人なのに。
医者に行ったら、認知症の初期だと言われた。
怖い。自分が自分でなくなっていくのが怖い。
だから、忘れる前に、私の宝物たちのことを書き残しておくことにする』
そこから先は、家族への愛に溢れた記録だった。
『美月は、卵焼きが好きだ。甘いやつじゃない、出汁の効いたしょっぱいやつだ。ばあさんが作っていた味だ』
『娘は、怒りっぽいところがあるが、根は優しい。私が腰を痛めた時、誰よりも早く駆けつけてくれた』
『今日はサナの命日。仏壇に花を飾った。サナ、私はもうすぐそっちに行くかもしれない。でも、もう少しだけ、あの子たちの成長を見ていたいんだ』
美月さんの目から、大粒の涙が溢れ出した。
「おじいちゃん……」
スクロールしていくと、日付が進むにつれて、文章の論理が破綻し、誤字脱字が増えていくのが分かった。
認知症が進行している証拠だ。
『2022年8月10日
きょう、みづきを どろぼうだと おもって どなってしまった。
あとから きづいた。あれは みづきだ。
ごめん。ごめんな。わたしは どうしてしまったんだ』
『2023年1月
あたまに もやが かかっている。
かぞくの かおが わからなくなる ときがある。
こわい。みづき、どこだ。
でも、これだけは わすれちゃだめだ。
わたしは、かぞくを あいしている。それだけは ほんとうだ』
そして、ファイルの一番最後。
おそらく、キーボードを叩くのもやっとの状態で書かれたであろう、最期の一文。
ひらがなばかりで、不格好な文字。
『みづきへ
ぼけて めいわく かけて ごめん。
でも ずっと だいすきだ。
ありがとう』
「……っ……あああぁっ……!」
美月さんは、顔を覆って号泣した。
介護の疲れ、憎んでしまった自分への罪悪感。そして、何よりも、祖父の中に最期まで残っていた自分たちへの深い愛。
それらが一気に押し寄せて、彼女の心を洗い流していく。
「おじいちゃん……ごめんなさい……私も、大好きだよぉ……っ」
アキさんが、そっと美月さんの背中を撫でた。
「……良かったべ。おじいちゃん、美月ちゃんのこと、ちゃんと覚えてたんだよ。頭じゃなくて、心でな」
阿部さんは黙って立ち上がり、キッチンへと向かった。
こういう時、彼は決して気の利いた慰めの言葉を言わない。その代わり、彼は包丁を握るのだ。
数十分後。
美月さんが涙を拭い、落ち着きを取り戻した頃。
事務所には、醤油と出汁の、とても良い香りが漂っていた。
「……食え。夕飯だ」
阿部さんがテーブルに置いたのは、湯気を立てる大きなお皿だった。
分厚い大根、こんにゃく、そして新鮮な豚モツが、黄金色のスープでじっくりと煮込まれた『モツ煮込み』。
昼間、アメ横でアキさんが奢ったモツ煮への、阿部さんなりの「完璧なアンサー」だ。
「昼のモツ煮は臭かったからな。俺が完璧な下処理を施して、三種の味噌をブレンドした特製だ」
阿部さんは、美月さんの前にも小鉢を取り分けた。
そして、その横に、もう一皿。
出汁がたっぷり染み込んだ、甘くない「しょっぱい卵焼き」が添えられていた。
「えっ……これ……」
「……おじいさんの記録にあったレシピだ。ばあさんの味には遠く及ばないだろうがな」
美月さんは、卵焼きを一口食べた。
ふんわりとした食感と共に、優しい出汁の味が広がる。
彼女は、ポロポロと涙をこぼしながら、何度も頷いた。
「……美味しいです。おばあちゃんとおじいちゃんが作ってくれた、あの時の味と同じです」
「そうか」
阿部さんは短く答え、自分のモツ煮を口に運んだ。
アキさんもモツ煮を頬張り、「……くそっ、昼の店より全然美味いべ。阿部ちゃんのくせに生意気だ」と嬉しそうに笑った。
認知症という残酷な病が奪っていく記憶。
でも、デジタルデータに刻まれた言葉と、舌が覚えている家族の味は、決して消えることはない。
忘れてしまっても、愛は残る。
私は、モツ煮の温かい湯気越しに、阿部さんとアキさんが隣同士でビールを飲んでいる姿を見た。
喧嘩ばかりしているけれど、この二人のコンビネーションは、本当に最高だと思う。
「……阿部さん、アキさん。今日はお疲れ様でした」
私が微笑むと、阿部さんは「お前も皿洗いが残ってるぞ」と憎まれ口を叩き、アキさんは「彩ちゃんも飲みなよ!」と笑った。
神保町の地下室。
ファントムとの死闘を終えた私たちには、こんな優しくて温かい日常が、とても愛おしく感じられた。




