第43話 日常へのリブート
巨大な国家の闇を暴いた「パノプティコン事件」から、一ヶ月以上の月日が流れた。
世間では未だに特捜部による逮捕劇がニュースを賑わせているが、その震源地である神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』には、完全な平和が戻ってきていた。
今日は、事務所の完全復旧と、私たちの無事を祝う「祝勝会」の日だ。
午後から業務を休みにし、メンバー全員が最高のご馳走を持ち寄って大宴会を開くことになっている。
いつもなら所長の阿部邦彦がキッチンに陣取り、スパイスの香りを漂わせているところだが、今日に限って彼はコンロの前に立っていなかった。
「……俺は今日、一切料理をしない。お前らが持ってくるものが俺の舌を満足させられなければ、その時は俺が包丁を握るがな」
阿部は腕を組み、偉そうに宣言していた。左肩の怪我もすっかり良くなり、テーピングも外れている。
しかし、その不遜な態度は、アルバイトの小川みずほによってあっさりと崩された。
「ねえおじさん、私スイーツ担当なんだけどさ。一人じゃ絶対持ちきれないから、荷物持ちしてよ」
「は? なんで俺が」
「いいじゃん、買い出しだよ。車出して。……それとも、女子のエスコートもできないの?」
みずほがニヤニヤしながら挑発すると、阿部は「チッ」と舌打ちをして車のキーを掴んだ。
こういうところ、本当にこの所長は押しに弱い。
私は留守番を任され、二人は車で買い出しへと出かけていった。
冬の表参道。
並木道にはイルミネーションが飾り付けられ、クリスマスを控えた華やかな空気が街を包んでいる。
その通りを、黒のタートルネックにロングコートを着た阿部と、オーバーサイズのパーカーにチェックのスカートを合わせたみずほが歩いていた。
「……なんでケーキを買うのに、わざわざ表参道まで来る必要がある」
阿部が不機嫌そうに呟く。
「有名パティスリーの本店があるんだよ。予約しておいたから受け取るだけ。……ていうかおじさん、歩くの早すぎ。これじゃデートに見えないじゃん」
「デートじゃない。パシリだ」
「ふふっ。でも、端から見たら『イケオジとパパ活女子』に見えるかもねー」
「……帰るぞ」
「冗談だってば!」
みずほは笑いながら、阿部のコートの袖を引っ張った。
目的のパティスリーで受け取ったのは、両手で抱えるほどの巨大な保冷ボックスだった。中には、まるで宝石のように美しいケーキが何種類も詰まっている。
阿部が軽々とそのボックスを持ち、二人は近くのカフェのオープンテラスで温かい紅茶を買って一息ついた。
「……おじさん、奢りありがと」
「経費だ」
紅茶のカップを両手で包み込みながら、みずほはイルミネーションを見上げた。
「……私さ、最近ちゃんと大学行けてるし、単位もなんとか取れそうだよ。このままいけば無事に進級できそう」
「そうか」
「うん。でも、事務所のバイトは辞めないから。音の解析も、SNSの運用も、私がいないと回んないでしょ?」
「……どうだかな。だが、お前の耳が役に立つのは事実だ。学業の片手間でも、使えるうちは使ってやる」
阿部の素っ気ない返事に、みずほは嬉しそうに目を細めた。
彼女は、家出してネカフェ難民だった自分を拾い、居場所をくれたこの不器用な男に、深く感謝しているのだ。
「……おじさん。あの時、私の『耳』を信じてくれて、ありがとう。幽霊の声じゃなくて、ちゃんとデータだって証明してくれたこと。……おじさんがいなかったら、私、今頃どうなってたか分かんない」
「……」
「だから、これからもよろしくね、所長さん」
みずほが真っ直ぐに見つめると、阿部はバツが悪そうに視線を逸らし、冷めた紅茶を煽った。
「……感傷に浸ってる暇はないぞ。さっさと帰るぞ、みんなが待ってる」
「あはは、照れてる! おじさん耳赤いよ!」
「うるさい」
阿部がスタスタと歩き出し、みずほが小走りでそれを追いかける。
冬の光が、不器用な二人の影を優しく照らしていた。
夕方。神保町の事務所に、続々とメンバーが集結してきた。
テーブルの上には、各々が持ち寄った「最高のご馳走」が並べられ、さながら王侯貴族の晩餐会のような光景が広がっていた。
「ヘイヘイヘイ! 主役の登場だべ!」
葬儀屋の岡田アキが、ドヤ顔で風呂敷包みを解いた。
中から現れたのは、銀座の超高級寿司店の特上握り盛り合わせだった。
「葬儀のコネで特別に握ってもらった特注品だ! 大トロもウニもてんこ盛りだぞ!」
「Excellent!!(素晴らしいわ!) 日本のスシ、最高!」
カナダから来たエミリー・ローレンスが歓声を上げる。
彼女が持ち込んだのは、巨大なクーラーボックスいっぱいの『クラフトビール』だ。
カナダから取り寄せた希少なIPAやスタウト、そして山盛りのフライドポテトが並ぶ。
「……肉も負けてないわよ」
情報屋の中島鞠が、自信満々に銀色の保温トレイの蓋を開けた。
そこにあったのは、見事なサシが入った松阪牛のローストビーフだ。芳醇なトリュフソースの香りが漂う。
「裏社会のコネを使って、最高級のA5ランクを仕入れたわ。とろけるわよ」
「じゃあ、乾杯の準備ね」
弁護士の藤田涼子が、流れるような動作でクーラーバケツから緑色のボトルを引き抜いた。
『ドン・ペリニヨン』のヴィンテージだ。
「悪徳企業からふんだくった賠償金の一部よ。遠慮なく飲みなさい」
「……お前ら、金に糸目をつけなかったな」
阿部が呆れたように言うが、その顔には微かな笑みが浮かんでいた。
そして、みずほが買ってきた宝石のようなケーキたちが、デザートとして冷蔵庫に鎮座している。
「……あれ? 大家さんがいませんね」
私が周囲を見回した、その時だった。
ドスドスという足音が響き、入り口のドアが開いた。
「遅れてごめんなさい。ちょっとセラーの奥を探るのに手間取っちゃって」
後藤かほりさんが、一着のボルドー色のドレスを着て現れた。いつもは古着の文学少女スタイルだが、今日は明らかにドレスアップしている。
そして、彼女の腕には、布に包まれた古めかしいワインボトルが抱えられていた。
「大家。……なんだ、そのワインは」
「私の祖父のコレクションの一つよ。『シャトー・ムートン・ロートシルト』の1945年。第二次大戦が終わった『勝利の年』の幻の一本よ」
かほりさんは優雅な手つきでコルクを抜き、デキャンタに移し替えた。
瞬間、地下室の空気が一変した。
数十年の時を超えて目覚めたワインが、官能的で複雑な香りを放ち、無機質な部屋を魔法のように彩ったのだ。
「阿部くん」
かほりさんは、一番に阿部のグラスにその幻のワインを注いだ。
深い、ルビーの血のような色。
「あんたには今、『家賃の滞納分』に『私の店の修繕費』、それに『命の恩』っていう莫大な借金が乗っかってるわけだけど……」
「……ああ。一生このビルで強制労働だと言われたな」
「ええ。でもね……今日は特別よ」
かほりさんは自分のグラスを持ち上げ、不敵に微笑んだ。
「このヴィンテージワインを開けて、みんなで乾杯したら……あんたの家賃の滞納分、これで全部チャラにしてあげるわ」
「……!!」
「マジで!? 大家さん、太っ腹!!」
アキが叫び、エミリーが口笛を吹く。
阿部は目を丸くした後、肩をすくめて小さく笑った。
「……修繕費と命の恩は、きっちり残るんだな」
「当然でしょ。私がチャラにするって言ったのは、あくまで『家賃』だけよ」
全員のグラスに酒が注がれていく。みずほのグラスにも黄金色のドンペリがたっぷりと注がれ、下戸である私のグラスにだけは、高級なぶどうジュースが注がれた。
「……よし。それじゃあ、音頭は私がとるわよ」
涼子がグラスを高く掲げた。
「法と正義、そして私たちの完璧なチームワークに!」
「「「乾杯!!」」」
8つのグラスが重なり合い、澄んだ音を立てた。
大トロの寿司が口の中で溶け、松阪牛の旨味が弾け、冷たいシャンパンと芳醇なワインが喉を潤す。
笑い声が絶えない。
アキさんがエミリーと肩を組んで歌い出し、みずほは「シャンパン美味しい!」と顔を赤らめながらDJ気取りでスマホから音楽を流す。
鞠さんと涼子さんは、高級ワインを飲み比べながら大人の会話を楽しんでいる。
かほりさんは、そんな騒ぎを満足げに見守っていた。
「……石川」
「はい、所長」
阿部さんが、手にしたワイングラスを揺らしながら私に声をかけた。
その顔は、かつてないほど穏やかだった。
「お前の姉さんのデータは、もう完全にネットの海に溶けた。……これで、俺たちのお節介も終わりだ」
「はい」
「……お前、これからどうする気だ?」
阿部さんの問いに、私は迷うことなく笑顔で答えた。
「何言ってるんですか。明日からもここで働きますよ。……だって、まだ片付けなきゃいけない依頼のデータが、山ほど残ってるじゃないですか」
「……フン。奇特な奴だ」
阿部さんは呆れたように笑い、残りのワインを飲み干した。
足元では、チビがアキさんが落としたマグロの切れ端を狙って「ミャー」と鳴いている。
神保町の地下にある、看板のない事務所。
ここでは明日も明後日も、誰かの遺したパスワードを解き明かし、隠された想いを繋ぐ仕事が待っている。
最強で、少し変わった8人のスペシャリストたちによる、私たちの日常。
パンドラの箱を閉じた後、世界は少しだけリブートされた。
そして私たちの物語も、ここからまた、新しく始まっていくのだ。




