第7話 銀髪の軍師
焼いた肉の匂いにつられ、ライコは店先で足を止めた。男が串を返すたび、脂が炭へ落ちて小さく弾ける。
「一本どうだ?」
ライコが頷こうとしたところで、男は串を置いた。通りの向こうを見て、口をつぐむ。
ほかの店でも店主が客を奥へ下がらせ、人々が道の両端へ寄り始めた。ライコも脇に避ける。空いた通りを、護衛を二人連れた貴族が歩いてきた。
帯からはみ出した腹が歩くたびに揺れ、金糸を縫い込んだ上着の前が突っ張っている。太い指には、宝石をはめた指輪。肉のついた頬を緩ませ、道を譲る人々を見回していた。誰かが慌てて頭を下げると、その顔はいっそう愉快そうになる。
貴族の進む先で、小さな子供が母親の方へ駆け出した。
「待って、走らないで!」
声が届く前に、子供は石畳につまずいた。貴族の靴先に手をついて倒れ、抱えていた袋から豆がこぼれる。
貴族は足を止めた。
「私の前へ転がり出るとは。どういう躾をしている」
「申し訳ございません!すぐに連れて――」
母親が子供を抱き起こそうとすると、護衛が母親の腕をつかんだ。貴族は子供に触られた靴先を、母親へ突き出す。
「これがいくらするか、分かっているのか?」
「汚してしまって……今、お拭きします」
女が袖を伸ばす。貴族はその肩を蹴りつけた。護衛が腕を放し、女は石畳へ倒れた。
「汚い手で触るな」
倒れた母親へ、子供が駆け寄った。女は肩を押さえながら子供を抱き寄せる。
「この子には手を出さないでください。どうか」
「私の通行を邪魔したのだ。邪魔をすればどうなるか、教えてやらんとな」
貴族は護衛に顎で子供を示した。
「小汚いガキを斬れ」
護衛が剣の柄を握る。子供は母親の腕の中で固まっていた。
通りを巡回していた衛兵は、二人とも別の方を見ている。一人は壁に目を向け、もう一人は靴紐を直すふりをした。
ライコは剣の柄に手をかけた。護衛が抜けば、こちらも抜く。この距離なら間に合う。
「お急ぎになったほうがよろしいのでは?」
人垣から声がした。
進み出た男は、銀色の長い髪を背に流していた。白い肌に涼やかな目元。長いまつ毛、すっと通った鼻筋、端正な口元。飾りの少ない濃紺の服を着ているのに、通りの誰よりも目を引く。息を呑むほど美しい男だった。
男は穏やかに笑い、貴族の前で足を止めた。
「何だ、お前は」
「まもなくシルベイン公爵家の馬車が、この道を通ります」
「それがどうした」
「ここで騒ぎが続けば、馬車の行く手を塞ぎます。子供を斬れば、人を下がらせて道を片づける時間も要るでしょう」
貴族が鼻を鳴らす。
「公爵が、こんな子供のことを気にするものか」
「ええ。その子のことは、気に留められないかもしれません」
銀髪の男は声を荒らげずに続けた。
「ですが、馬車を止めた方が誰かは、お尋ねになるでしょうね」
貴族の口元から笑みが消えた。銀髪の男は道の先へ目を向ける。
「今お進みになれば、馬車をお待たせせずに済みます」
貴族はしばらく親子を睨んでいたが、護衛に手を振った。
「もうよい。行くぞ」
剣は抜かれなかった。貴族が通りを去ると、母親は子供を抱いたまま深く頭を下げた。
銀髪の男は、落ちた袋を拾って母親のそばへ置く。
「手当てを受けてください。肩も診てもらったほうがいいでしょう」
「ありがとうございます……」
それ以上は話さず、男は人垣の向こうへ歩いていった。ライコも剣の柄から手を離す。
「いつまで集まっている。道を空けろ!」
衛兵の一人が怒鳴った。さっき護衛が剣を抜こうとしたときには、壁を見ていた男だ。人々は黙って歩き出す。
「兄ちゃん、串はどうする?」
肉屋の男に呼ばれ、ライコは通りの先から目を戻した。
「あの人、誰?」
「さあな。お貴族様のことなんて俺らにゃ分からんよ」
◇
数日後、ユリスの部屋では、ドルグが地図の上に小石を並べていた。第十小隊の兵を一人ずつ示す石だ。
「これがお前」
ドルグは一つを取り、ほかの石より先へ置く。
「初陣では、ここまで離れた」
「うん」
「俺たちが追いつくには、どうすればいい?」
ライコは残った石を前へ寄せた。
「走る」
「敵もいる」
ドルグが間に敵を示す石を置く。ライコの手が止まった。
「俺たちが敵を倒している間、お前はもっと先へ行った。小隊を連れて戦うなら、自分が速いだけじゃ足りん」
ライコは先に置かれた一つの石を見た。それを後ろへ戻し、仲間の石のそばに置く。
「これくらい?」
「戦場で仲間を見て決めろ。敵も味方も動く。いつも同じ距離でいいわけじゃない」
エドラスが横から言った。
「敵を見ながら、仲間がどこにいるかも見ておけ。味方全員を一度に見ようとしなくていい。まず、自分の小隊だ」
「敵も見て、みんなも見るのか」
「隊長になったからな」
机ではユリスが書類に目を通していた。筆を走らせ、一枚を脇へ置く。次の紙へ手を伸ばしたところで、扉が叩かれた。
「誰だ」
「ルクシオン・フラグナ様がお見えです」
ユリスは伸ばしかけた手を止めた。書類を揃えて立ち上がる。
「入れ」
開いた扉の向こうに、銀色の髪が見えた。
ライコも顔を上げる。通りで貴族を退かせた、あの美しい男が立っていた。
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