大隊長ライコ
試合用の剣を台へ返すと、ライコはそばの椅子へ座った。
右手の包帯には、血が滲んでいた。
運営の男が包帯をほどき、新しい布で掌を押さえる。
ライコは、その手をじっと見ていた。
フウリの胸へ向けた切っ先は、空を抜けた。
突っ込んだ身体をようやく止め、振り返ると、首元には相手の剣があった。
剣が届かなかったことが、まだ胸に残っている。
「痛むか」
そばに立つドルグに聞かれ、ライコは頷いた。
「うん」
左手にも、足にも、まだ痺れがある。
それでも、今は座って、掌を包み直してもらうしかなかった。
バスティオンは運営から隕鉄剣を受け取り、鞘ごと抱えて待っていた。
「帰りは俺が持つぞ。今日は、その手を休ませろ」
「ありがとう」
ライコは右手を動かさず、礼を言った。
キティが、巻き直された包帯を見た。
「決勝までよく戦った。まずはゆっくり休め」
ライコは顔を上げ、試合を見ていたドルグへ目を向けた。
最後の突きさえ、あれほど軽くかわされた。その強さが、まだ頭から離れなかった。
「フウリさん、強かったね」
ライコの言葉に、ドルグが答えた。
「ああ。お前も、そう簡単には負けなかった」
ライコはまた自分の手へ目を落とした。
包帯は白くなった。けれど、少し指を曲げるだけで、掌の奥が痛む。
立ち上がると、脚にも重さが残っていた。
仲間とともに歩き出す。
背後の会場では、まだフウリを讃える声が続いていた。
◇
翌日、王宮で、ライコの昇格が再び議題に上がった。
レグベル公爵は、王座の前で述べた。
「御前試合の結果も踏まえ、ライコ隊長の大隊長昇格を、改めてお認めいただきたく存じます」
列席する貴族の一人が、口を開いた。
「優勝したわけではありません。平民をそこまで取り立てる必要があるでしょうか」
その隣の男も、静かに頷いた。
「武勇は見事でした。しかし、大勢を任せるのは本人のためにも酷では。今の立場で十分に働けるなら、無理に背負わせずともよいでしょう」
言い方は穏やかだった。
少年を潰してしまうつもりはない。今まで率いてきた数の兵を率いさせておけばよい。それ以上の役目は、生まれも教育も違う者には荷が重い。
男は、そう考えていた。
少年を気遣う言葉と、平民に多くを任せる必要はないという考えは、その中で矛盾していなかった。
レグベルは、優勝していないと言った貴族へ向き直った。
「準決勝ではアルヴァンを破り、決勝まで進んだ。その武勇を軽く見ることはできぬ」
レオニードが顔を上げ、反対する貴族たちを見た。
「では、諸卿の騎士の中に、フウリを破れる者がおるか」
貴族たちの視線が、老将へ集まった。
すぐに答える者はいない。
フウリは優勝した。決勝の相手を務めたのは、彼らが今、平民の少年と呼んでいるライコだった。
先ほどの貴族が、口を引き結んだ。
「剣の腕は、分かりました。ですが、兵を率いるとなれば――」
レグベルが、その貴族に答えた。
「渡河戦で第十二中隊を率い、崩れかけた戦線を支えている。敵の強者を倒しただけでなく、味方の兵を率いて挙げた軍功だ」
王座の脇に控える者が、手元の戦功記録へ目を落とした。
温情を口にした男が、小さく息を吐いた。
「ですが、あの年齢では、学ぶべきことも多いはずです」
レグベルは、今度はその男へ目を向けた。
「指揮や補給を学ぶ必要があることは、以前にも指摘されたとおりだ。だが、すでに中隊を率いて軍功を挙げている。その働きまで無かったことにはできぬ」
公爵は、戦功記録を持つ者へ目をやり、再び反対した貴族へ視線を戻した。
「補佐をつけ、足りない経験を補わせればよい。生まれを理由に退けるには、惜しい働きだ」
温情を口にした男は、すぐには答えなかった。
レグベルが王へ向き直った。
「推薦は変わりません。これまでの軍功と、御前試合で示した力をもって、大隊長にふさわしいと考えます」
ネグロスは椅子の背へ身を預け、指先で銀の杯を回していた。
誰がどの騎士に勝ったのか、もう聞き直そうとはしなかった。
「よい。大隊長にせよ」
レグベルが頭を下げた。
ほかの者たちも、王へ礼をする。
だが、頭を下げる前に、口元を歪めた者がいた。ライコの名が挙がってから、一度も頷かなかった者もいる。
裁可は下りた。
全員が、少年を認めたわけではなかった。
◇
その日の午後、ライコが泊まる部屋へ、ルクシオンが訪れた。
ドルグたちも呼ばれ、壁際に立っている。
ライコは椅子から立ち上がった。
右手は新しい包帯に包まれたまま。寝て休んでも、手足の痺れはまだ抜けていなかった。
ルクシオンは、少年の正面で告げた。
「ライコ隊長。大隊長への昇格が、正式に認められました」
ライコは、目を瞬いた。
「……僕が、ですか?」
「はい。陛下の裁可を受けています」
ドルグが、大きく息を吐いた。
「ようやくだな」
バスティオンは笑い、ライコの顔を見た。
「おめでとう、ライ」
「大隊長かぁ。ヒッヒッ、よかったなぁ」
ラーヴァニルも、細い肩を揺らして笑っていた。
キティが背筋を伸ばす。
「おめでとう。これからも、よろしく願いたい」
ライコは仲間の顔を見回した。
皆、笑っている。
自分が大隊長になったことを、喜んでくれている。
ライコの顔にも、笑みが広がった。
「ありがとう。僕も、よろしく……お願いします」
頭を下げると、ドルグの太い声が響いた。
「おう。だが、人数が増えりゃ、今までと同じにはいかねえぞ」
ライコは顔を上げた。
大隊長。
中隊よりも多くの兵を、任される。
渡河戦で、後ろから続いた足音を思い出した。盾を構えたバスティオン。敵を押しのけたドルグ。自分のために道を開いた兵たち。
一人で進んだのではなかった。
「うん。分からないことは、聞く」
「聞けよ。勝手に全部背負って突っ走るな」
ライコは頷いた。
ルクシオンが、少し表情を緩めた。
「期待しています、ライコ大隊長」
新しい呼び名が、耳に残った。
嬉しかった。
皆の喜ぶ顔を、もう一度見たかった。
けれど、同時に、別の顔も思い浮かんだ。
軽い調子で剣を構え、こちらの突きを横へかわしたフウリ。
勝てなかった。
どれだけ前へ出ても、最後まで、その身体へ剣を届かせられなかった。
ライコは包帯の巻かれた右手を見た。
今、剣を抜くつもりはない。
それでも、あのときの突進を、頭の中でもう一度なぞった。
もっと強くなりたい。
次に剣を交えるときには、あの人に届くところまで。




