王国最強の男
新しい包帯を巻かれている間、ライコは左手を開いたり、握ったりしていた。
指先の感覚が鈍い。
右の掌だけなら、傷が痛むせいだと思えた。だが、傷のない左手にも痺れがある。
足の裏にも、薄い布を一枚挟んだような、ぼんやりした感覚が残っていた。
(何かがおかしい)
準決勝で剣が重く感じたのも、ただ腕が疲れただけではなかったのかもしれない。
包帯を巻き終えた運営の男が、手を離した。
ライコは右手を少し握った。掌の奥が痛む。開いた傷を包み直しても、傷そのものは残っている。
台に置いていた剣を左手で取り、右手を添えた。
刃を潰した、普通の諸刃剣。
決勝の相手が、試合場へ歩いていた。
レオニードの弟子。
ルミナス王国最強の男、フウリ。
あの人と剣を交えられる。
ライコは両手の握りを確かめ、境界線を越えた。
◇
フウリは剣を片手に下げ、待っていた。
ライコを見る目に、気負いはない。
「ずいぶん戦ったね。あまり辛いなら棄権すれば?」
右手の包帯へ目をやり、気楽な調子で言った。
ここまでに負った傷と、準決勝まで戦った疲れ。それが大きいのだろうと、フウリは思っていた。
ライコは首を振った。
「戦いたい」
「そっか。じゃあ、やろう」
フウリが両手で剣を構える。
切っ先が、ライコへ向いた。
「始め!」
ライコは地を蹴り、相手の胸へ剣を突き出した。
フウリは上体をわずかに右へひねった。突きが脇を抜けると、ライコへ一歩踏み込み、その頭へ剣を斬り下ろした。
ライコは剣を引き戻し、斜めに立てて受けた。
鋼が鳴る。
右の掌に痛みが走り、柄が両手の中で滑った。
左手で握り直す。
その間に、フウリの剣はもう離れていた。
今度は腹へ、横から刃が走る。
ライコは後ろへ跳んだ。
上着の前を剣がかすめる。着地した足で踏ん張ろうとすると、痺れた脚に力が入るのが遅れた。
靴が土を擦り、余分に一歩下がる。
フウリはそこへ踏み込んだ。
ライコの胸へ向かう突きを、ライコは剣で横へ払った。
すぐに刃を返す。
だが、狙った腕はもう引かれ、相手は剣の届かないところにいた。
ライコが追うより早く、フウリは斜めへ足を運ぶ。
真正面に捉え直そうと、ライコも身体を向けた。
肩から腕までが、重い。
剣は上がる。足も動く。
それなのに、見えた隙へ剣を送る頃には、フウリは別の場所から攻めている。
ライコは息を吐き、口元を上げた。
速い。
目を離せない。
フウリの足が止まった。
ライコはその一瞬に踏み込み、頭を狙って剣を振り下ろした。
相手は退かず、剣を斜めに立てた。
刃がぶつかる直前、ライコは手元を引き、低く刃を返して膝を狙った。
フウリの前足が、ひょいと下がる。
剣が膝の前を通り過ぎた。
「おっと」
声は軽かった。
ライコは剣を引き、再びフウリの足を狙って刃を振った。
フウリは低く構えた剣で、ライコの刃を下から強くかち上げた。
衝撃が、ライコの両手を突き抜けた。
痺れた左手が緩む。傷のある右手で支えようとすると、掌の痛みに腕が震えた。
柄が指の間から抜けかける。
ライコは左手で柄を強く握り直し、どうにか剣を離さなかった。
その目の前へ、フウリの切っ先が伸びる。
顔を狙う突き。
ライコは首を傾けて突きをかわした。
頬のそばを剣先が抜ける。大きく退き、ようやく距離を空けた。
息が切れた。
フウリは追いかけず、剣を無造作に下げている。
ライコが右手の握りを直すと、包帯に赤い点が滲んだ。
剣を落とさないようにするだけで、力を使う。
打ち合えば、次の刃へ備える前に、緩んだ握りを戻さなければならない。
攻めたいのに、相手の剣をかわすので精一杯になっていた。
「もうこれくらいにしたら?」
フウリが目を細めて笑う。
ライコは頭を振った。
客席で、ドルグが膝へ両手を置いたまま、身を乗り出した。
キティも口を閉じ、試合場を見ている。
貴賓席では、レナティアが胸の前で両手を組み、ライコの無事を祈っていた。
会場中の視線が、二人の剣に釘付けになっている。
ライコは息を吸った。
剣を持ち上げ、もう一度、前へ出る。
フウリの胸へ短く斬り込んだ。
相手の剣が、その刃を外へ払う。
ライコは足を止めず、続けて手首を狙った。
フウリは柄を引き、斜め後ろへ退いた。
ライコが追う。
剣を受けたフウリは、正面から押し返さず、さらに半歩退いて距離を取った。
追うたびに、ライコの息が荒くなる。
痺れた身体が、重い。
踏み込む脚も、剣を戻す腕も、思った速さに届かない。
フウリの背後に、境界線が近づいていた。
もう一歩追えば、剣が届く。
ライコは切っ先を相手の胸へ向けた。
(あれを使うしかない)
腰を落とし、両手で構えた剣を身体で固定する。
痺れる脚にも、重い腕にも、残った力をすべてためた。
(迅雷穿)
剣は振らない。
フウリの目が、ライコの足から切っ先へ移った。
ライコが、大地を蹴った。
痺れと消耗に削られ、身体を押し出す力は本来のものには届かない。
それでも、まさに稲妻のごとき加速だった。
剣と身体が一つになり、フウリの胸へ一直線に疾駆する。
振る動作を捨てた、最短最速。
構えを固定した、正確無比の突き。
全身の力を切っ先へ込めた、ライコの最強の一撃。
鋭い風の音が、試合場を裂いた。
――ふわり。
フウリが、横へ身をかわした。
風に舞う木の葉のように、ほんのわずかな足の運びで。
雷の化身となったライコが、そのすぐ脇を突き抜けた。
ライコは前足を地面につき、勢いを止めようとした。
思ったほど、踏ん張りが効かない。
もう一歩、土を踏みしめる。
靴の先が境界線へ届く寸前で、ようやく止まった。
ライコは振り返り、剣を引き戻そうとした。
その首元に、フウリの剣先があった。
突きをかわしたフウリはすぐにライコを追い、ライコが振り向くより先に剣を突き出していた。
「おしまい♪」
フウリが笑う。
ライコの手が止まった。
「そこまで!」
審判の声に、フウリが剣を引いた。
「勝者、フウリ!」
歓声が上がった。
剣を届かせられなかった。
ライコは息を整え、頭を下げた。
「参りました」
◇
フウリはライコに向かって、自分の剣先を軽く動かした。
「こういう技は、隙をつくか、相手の体勢を崩してからじゃないと当たらないよ」
ライコは顔を上げた。
自分が構えたとき、フウリはもう足を見ていた。
正面にいても、突きが届くまで待ってはくれない。
「……見えてたんですね」
「突っ込むつもりだって、構えでわかったからね」
ライコは頷いた。
強かった。
最後の突きも、ちゃんとかわされた。
「ありがとうございました」
剣を左手だけで持ち、ライコは運営の男が待つ方へ歩いた。
右手は痛む。痺れも消えていない。
けれど、フウリに向かって、そのことは言わなかった。
少年を迎える足音が重なり、フウリは一人、試合場に残った。
少年の突きが通り過ぎた場所へ、目を向ける。
構えから突きを読めても、そこからの突進は、思っていたよりずっと速かった。
もう少し横へ動くのが遅ければ、胸を捉えられていたかもしれない。
(万全の状態なら、どうなっただろう)
フウリの口元に、笑みが浮かんだ。




