強いのに
右の掌に巻かれた布へ、ライコは目を落とした。
布には、血の色が残っている。針は抜けたが、傷まで消えたわけではなかった。
右手を柄へ添えず、左手だけで剣を持つ。
傷のある右手は、身体のそばへ引いておく。今は、剣を振る左腕とぶつけたくなかった。
運営が用意した諸刃の剣は、隕鉄剣とほぼ同じ長さだった。あの重さはない。左手でも、振れば思ったところへ刃が来る。
三回戦の相手は、もう試合場に立っていた。
胸に貴族の紋章をつけた騎士だった。両手で剣を持ち、ライコが近づくと、低かった切っ先を上げる。
足の位置が、少し変わった。
それだけで、近づける場所が狭くなったように感じた。
ライコは顔を上げた。
「よろしくお願いします」
騎士は右手の布を見てから、少年の顔へ目を戻した。
「構えろ」
ライコは左手の剣を前へ出した。
さっきの傭兵も、剣は速かった。
この人は、どうだろう。
「始め!」
騎士が地を蹴った。
胴を狙う横薙ぎが、低い風の音を連れて迫る。
ライコは左手の剣を斜めに立て、その刃を外へ弾いた。
重い。
ぶつかった剣が腕を引き、靴の下で土がずれた。
騎士は剣を振り切らなかった。
弾かれた刃を引き、すぐに切っ先をライコの顔へ突き出す。
目の前へ、剣が伸びた。
ライコは顔を右へ逸らした。頬の脇を剣先が通る。そのまま左手の剣を返し、伸びた腕の下から騎士の腹へ振った。
騎士の足が、斜め後ろへ動く。
ライコの刃は胴へ届かず、空を切った。
騎士はもう構え直していた。
ライコの口元が上がった。
弾いても、すぐ次の突きが迫る。かわして返しても、相手もかわす。
簡単には届かない。
それが、嬉しかった。
「速いですね」
騎士は答えず、また踏み込んだ。
頭へ落ちる刃を、ライコは横へ一歩踏み出してかわす。落ちた剣が止まり、今度は足元へ回った。
ライコは後ろへ跳んだ。
着地したところへ、胸を狙う突きが迫る。
左手の剣で外へ払った。騎士は押し返される前に柄を引き、今度は反対側からライコの胴へ斬り込む。
ライコは腰を引いた。
刃が、身体のすぐ前を抜けた。
ぱっと、布が舞った。
上着の脇が、細く裂けていた。
ライコは一歩離れ、裂け目を見た。
肌には届いていない。
だが、布の端が、きれいに切れている。
自分の剣へ目を移す。丸く潰された縁。
騎士の剣は、違った。
薄い刃が、そのまま先まで続いている。
(あれ、斬れる剣だ)
ライコは相手の剣を見た。
さっきの斬撃がもう少し深ければ、服だけでは済まなかった。
◇
審判も、裂けた上着を見ていた。
続いて、騎士の刀身へ目を向ける。
刃は潰されていない。
試合に用意された剣は、どれも刃を引いてあるはずだった。審判は唇を引き結んだ。
止める声は、出さなかった。
(そろそろ、平民に負けてもらわねばな)
少年は、一回戦を勝った。
二回戦では、雇われた傭兵を場外まで叩き飛ばした。
客席では、あの少年を呼ぶ声が上がっている。
これ以上、調子に乗られては困る。
騎士の剣が、再び動いた。
審判は、そのまま見ていた。
◇
ライコは足を動かした。
迫る切っ先を左手の剣で横へ弾き、騎士の手を狙って刃を返す。
柄を持つ両手が引かれた。
騎士は下がりながら、ライコの胸へ切っ先を向ける。
ライコは追いすぎず、剣先の外へ一歩移った。
やっぱり、強い。
剣の動きも、足の運びも、きちんと次へつながっている。
(普通に強いのに、なんでこんなことするんだろ)
この人なら、刃を潰した剣でも戦える。
ライコは、試合を止めてくれとは言わなかった。
次の一撃が、どう来るのかを見たかった。
相手の剣先が動く。
ライコの左手も動いた。
二本の刃がぶつかり、硬い音が弾けた。
騎士の剣は、少しもぶれない。
力で押し続ければ、引かれて流される。間を空ければ、先に踏み込まれる。
ライコは剣を下げず、騎士の足を見た。
受けるときには、腰を落とす。
そこからすぐ、返してくる。
ライコは半歩近づいた。
騎士の剣が胸へ伸びる。
左手の刃で弾き、止まらず前へ出た。
騎士の胴へ、剣を横から振る。
相手が剣を立てて受けた。
刃が鳴った。
ライコは、そこで押さなかった。
左肘を引き、剣を高く持ち上げる。頭上へ大きく構えた。
(雷霆)
踏み込む足で地面を押した。
腰も、背も、一緒に動く。身体の力を左手の剣へ乗せ、真上から叩き下ろした。
刃が空気を裂き、唸った。
騎士は両手で持った剣を頭の斜め前に横たえ、頭を守った。
二本の剣がぶつかる。
落雷のような轟音が、試合場を叩いた。
さっきまでの打ち合いとは、比べものにならない衝撃だった。
騎士の両腕が震えた。
踏ん張った靴が土へ食い込む。それでも剣は押し下げられ、腕ごと胸の高さまで落ちた。
騎士が剣を戻そうとする。
(雷閃)
ライコはもう、左手の剣を引いていた。
大きく振りかぶらない。下がった相手の剣の横を抜け、脇腹へ最も短い道で刃を走らせる。
刃が、稲妻の速さで駆けた。
騎士の剣は、まだ戻らない。
丸い刃が、脇腹を叩いた。
騎士の口が開いた。
息が、声にならず漏れる。
剣を戻そうとした腕が止まり、片膝が土へ落ちた。
それでも、騎士は立とうとした。
もう片方の膝も折れた。上体が前へ倒れ、剣先が地面につく。
「そこまで!」
審判が叫んだ。
ライコは、その場で剣を下げた。
左の腕に、打ち合った衝撃が残っていた。
右手は、柄へ添えない。
騎士は膝をついたまま、口を開けて息を吸おうとしている。
「勝者、ライコ!」
歓声が上がった。
ライコは騎士を見た。
あの横薙ぎは、重かった。
すぐ顔へ伸びた突きも、速かった。
頭上から叩き下ろしたときだって、相手の剣はちゃんと頭を守っていた。
強い人だった。
「ありがとうございました」
ライコが言っても、騎士は顔を上げなかった。
試合場へ入ってきた運営の男が、その腕を支える。
ライコは道を空け、左手に剣を下げて境界線を越えた。
裂けた上着の端が、歩くたびに揺れる。
右の掌の布へ、また目が向いた。
傷を負っていても、この人と戦うのは面白かった。
刃を潰した剣だったら、何か変わっただろうか。
さっきの強さがなくなるとは、思えなかった。
ライコは試合場を振り返った。
剣で戦うために集まっているのに。
強いのに。
どうして、あんなことをするのだろう。
騎士は支えられて、試合場を出ていった。
答えは、聞けないままだった。
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