第64話 恩人の名
王宮の廊下を歩いていたライコは、後ろから呼び止められた。
「待ってください」
振り返ると、少女が立っていた。
こちらを見たまま、足を止めている。付き添いの侍女が追いついても、少女はライコから目を離さなかった。
「あの……」
言いかけて、少女は息を吸った。それから、もう一度こちらへ歩いてくる。
ライコは少し首を傾げた。
知らない顔ではない気がする。だが、どこで会ったのか思い出せなかった。
「僕に、何か用?」
「覚えていらっしゃいませんか」
少女の声が、少し小さくなった。
「森で、助けていただいたのです。剣も持たずに、私を追ってきてくださって……」
ライコの目が開いた。
道を塞ぐ倒木。馬を引いていた男たち。首元へ短剣を突きつけられ、その手首を自分で押しのけた少女。
「ああ!あの時の子だ!」
少女の顔が、ぱっと明るくなった。
「はい」
「元気そうだね。よかった」
ライコが笑うと、少女は両手を重ねて頭を下げた。
「改めて、お礼を申し上げます。あの時は、本当にありがとうございました」
「うん」
顔を上げた少女は、少年の軍服へ目を移した。
森で会ったときは、近くの村に住む少年のような服装だった。剣も鎧もなかった。それでも、剣を抜いた賊を倒し、自分のところまで来た。
今は軍服を着ている。
「軍の方だったのですね」
「そうだよ。あの時は休みで、森へ行ってたんだ」
少女は唇を開き、いったん閉じた。
あのときも、少年はこんな顔で笑っていた。
ありがとうとは言えた。けれど、もう一つ聞く前に、少年は木々の間へ走っていってしまった。
「お名前を、教えていただけますか」
「ライコ。第十二中隊の隊長をしてる」
「ライコ様……」
少女は、小さくその名を繰り返した。
今度は、聞けた。
「お父様にも探していただいたのです。でも、どこにいらっしゃるか分からなくて」
「僕を?」
ライコは驚いた。
「はい。お父様も、お礼をしたいと」
「そうだったんだ」
礼をするために探すとは、考えていなかった。
少女の視線が、ライコの手へ下りる。
「あの時の傷は、もう大丈夫ですか」
ライコは手を開いて見せた。
「平気。ちゃんと動くよ」
指を曲げ、また伸ばす。少女はその手を見てから、ようやく息をついた。
「ずっと、気になっていました」
「そっか。心配してくれて、ありがとう」
ライコは、何でもないことのように言った。
少女は顔を上げた。
あのときは、傷ついた手を後ろへ隠した。今も、自分を助けたことを大げさに話さない。
探していたのは、この人だった。
少女はもう一度頭を下げ、別れる前に少年の顔をよく見た。
服装が違っても、同じ顔だ。同じように笑う。
名前も、もう知っている。
◇
ホークガルド家の屋敷へ戻ると、少女は父を探した。
父のレオンハート・ホークガルドは、祖父のレオニードと話していた。
「お父様、お祖父様」
二人が振り向く。
少女はいつもより速く歩いてきた。レオンハートは娘の顔を見ると、話を止めた。
「どうした」
「見つけました」
少女は二人の前で足を止めた。
「森で、私を助けてくださった方です。王宮でお会いしたのです」
レオンハートが、椅子から身を起こした。
あの少年を、近隣の村や町で探させた。顔を覚えている騎士が名の挙がった者を確かめても、見つからなかった。
娘が賊に連れ去られたという話は、他家へ漏れた。外国との縁談にも、その影響が及んでいる。
娘を助けた恩人の名だけは、分からないままだった。
「本当に、あの少年だったのか」
「はい。私の顔はすぐには思い出せなかったようですが、森のことをお話しすると、分かってくださいました」
レオニードも、孫娘を見ていた。
「剣も持たず、賊を倒したという少年か」
少女の声が弾んだ。
「そうです。今日は軍服を着ていらっしゃいました。軍の方だったのです。お休みの日に、森へ行っていたと」
「名は聞けたか」
レオンハートの問いに、少女は頷いた。
今度は、答えられる。
「ライコ様です」
レオニードが、身を乗り出した。
「ライコ?」
「第十二中隊の隊長をしていると、おっしゃっていました」
レオンハートが父へ顔を向けた。
レオニードは、しばらく孫娘から目を離さなかった。
功労賞で名を呼ばれた少年。
中庭で、重い剣を振ってみせた少年。
大隊を任せるには、まだ見極めが足りぬと、自分が反対した少年だった。
「……あの隊長か」
低い声に、少女が目を上げた。
「お祖父様も、ご存じなのですか」
「ああ。今日、会った」
レオニードは答え、レオンハートを見た。
「河岸の戦いで、ファルケンハインを討った少年だ。総大将も倒している」
レオンハートの眉が動いた。
「その隊長が、あの少年だったのですか」
レオニードは頷き、孫娘へ向き直った。
少女は嬉しそうだった。ようやく見つけた名を、忘れぬよう何度も確かめている。
剣の強さは、この目で見た。
軍功も、認めた。
だが、自分が知っていたのは、そこまでだった。
「もう少し、話を聞かせてくれ」
レオニードは、孫娘へ椅子を勧めた。
「お前を助けたとき、あの少年は、どんなことをした」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
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