第55話 背後の旗
翌朝も、敵の舟は出た。
土手の弓兵が射かけ、まばらな矢を抜けた敵が岸へ降りる。ライコたちは前の日と同じ場所で剣を交えた。
だが、敵を水際へ押し返しても、すぐには次の舟が来なかった。
ライコは川へ目を向けた。近づく舟はある。別の持ち場では、まだ敵と味方が押し合っていた。それでも、昨日のように続けざまに盾が上がってくることはない。
「今日は、少し空くね」
そばで敵の動きを見ていたドルグが頷いた。
「だが、終わったわけじゃねえ」
ドルグは、追おうとする兵を岸で止めた。
セヴェロが交代の部隊を連れてきた。岸の兵を入れ替えながら、伯爵へ近づく。
「今のうちに、夜の警戒に出た部隊を休ませます」
「よし。わしはここに残る。向こうの舟を見ておく」
伯爵の手には、まだ大剣があった。
キティが父の隣へ立つ。
「父上も交代してはどうだ。昨日から前に出ておられる」
「娘に言われるほど、へばってはおらん!」
伯爵は笑い、交代してきた兵の肩を叩いた。キティはその顔を見てから、剣を鞘へ収める。
「では、次は私が前に出る。そのときは休んでいただこう!」
セヴェロに後方へ下がるよう示され、第十二中隊も岸を離れた。
◇
川から離れた草地では、交代した部隊が休んでいた。
ライコは荷車の脇へ座り、大曲剣を横に置いた。靴の紐を緩めると、足の裏がじんじんする。昨日も、その前も、岸の端から端へ走っていた。
ドルグは兵が揃っていることを確かめ、ようやく腰を下ろした。バスティオンは盾を手元へ置き、空いた場所へ部下を座らせる。
キティも近くに腰を下ろした。水を飲み、濡れた髪を首の後ろから払う。
ライコは川の方を振り返った。
ここまで離れても、岸から上がる叫びは聞こえた。
「眠れるときに眠っとけ」
ドルグに言われ、ライコは荷車へ背を預けた。
◇
午後、草地の外側を見張っていた兵が声を上げた。
「馬が来る!」
ライコは目を開けた。
川とは反対の方角で、土煙が横へ広がっていた。その中から旗の先が見え、馬に乗った兵の姿が次々と現れる。
「援軍か……?」
近くで寝ていた領兵が顔を上げた。ほかの兵も、その言葉に荷車の間から身を乗り出す。
セヴェロは休息中の部隊を見回っていた。見張りの指す方へ走り、旗を確かめる。
「敵です。ファルケンハインの旗だ」
領兵の顔から、笑みが消えた。
ドルグが立ち、土煙の奥を見渡す。
「千騎はいるな……」
セヴェロは川へ振り返った。こちら岸へ渡ってきた敵と戦う声が、まだ続いている。
「上流で渡って、後ろへ回ったか」
すぐに、そばの兵へ向き直った。
「伯爵へ伝えろ。背後に敵騎兵、千騎ほど。こちらで迎える!」
兵が川へ走った。セヴェロは見張りを残し、休んでいる部隊の指揮官たちへ声を掛けていく。
ライコは靴の紐を締め直した。遠くの馬の列が、土煙を上げながらこちらへ向かって進んでいた。
「父上の部隊を呼べないのか」
立ち上がったキティがセヴェロへ尋ねた。
「岸から引けば、渡ってきた敵を通します。正面から戻るのを待ってはいられません」
キティは唇を引き結び、近くの兵へ向き直った。
「休息は終わりだ。武器を持て!」
◇
バスティオンが盾を取り、部下を荷車の外へ集めた。
「盾を忘れるな。川じゃない、馬の来る方だ」
まだ川へ顔を向けていた兵が振り返る。盾を持ち、バスティオンの示す場所へ走った。
ドルグは寝床の間を歩き、兵を起こした。槍を探している男のそばで、足元の槍を拾って渡す。
「そこでぼうっとするな。隊の旗を見ろ」
呼ばれた兵が立ち上がり、仲間のいる方へ向かった。
キティも、先ほどまで一緒に休んでいた領兵の指揮官へ声を掛けた。指揮官が自分の兵を呼び集め、荷車の間に散っていた兵が外へ出る。
ライコは座ったまま、大曲剣を手元へ引いた。前へ出る部下たちを見てから、近づく馬へ目を戻す。
敵はまだ全速で駆けてはいなかった。土煙から出た隊が左右へ並び、その後ろにも馬が続く。先頭だけが飛び出すことはない。進む速さを揃えたまま、こちらの草地へ広がってくる。
その間に、味方も荷車の外へ列を作った。休息していた兵だけでは、川沿いに並ぶ軍ほどの厚みはない。
セヴェロは列の端を確かめ、川へ通じる道を空けさせた。
伯爵の方へ走った伝令の姿は、もう見えなかった。
荷車のそばには、まだ立てずにいる領兵がいた。兜を被ろうとして手を止め、馬の列を見つめている。指揮官が呼んでも、返事が出ない。
列の準備を見届け、キティがライコのそばへ戻ってきた。長剣を抜く。
「来るぞ」
ライコも敵の先頭へ目を向けた。
蹄の音が、ここまで届き始めた。近づくにつれて、旗手のそばを進む騎士の装備もはっきりと見えるようになった。
鎧は黒く、黄色の縁取りがある。肩から流れる黒いマントにも黄色の縁取りがあり、その地には赤い模様が描かれていた。
騎士を乗せた馬は、頭と胴を馬鎧に覆われていた。重い装備を着けていても、歩調は乱れない。騎士は馬の動きに自然と身体を合わせ、わずかな手綱の動きで操っていた。その姿は、幾多の戦場を駆けてきた熟練の騎兵を思わせた。
片手に手綱を握り、もう一方の手には長い槍を構えている。
中央の穂先の根元から、鳥が翼を広げたような刃が左右へ張り出していた。馬が歩を進めても槍はぶれず、鋭い猛禽の嘴を思わせる穂先が、ライコたちを狙っていた。
「あれが、騎士隊長?」
ライコがセヴェロへ尋ねた。セヴェロは旗と、そのそばの騎士を見比べる。
「ええ。あの旗の下で率いているのが、ファルケンハイン騎士隊長です」
ライコの顔が明るくなった。
「やった!あいつと戦える!」
大曲剣を掴み、勢いよく立ち上がった。さっきまで地面へ伸ばしていた足が、しっかりと草を踏む。
バスティオンが振り返った。ライコの笑顔を見て、呆れたように笑う。
ドルグは額を押さえた。
「体力バカめ」
それでも、ライコが前へ歩き出すと、ドルグも自分の剣を握り直した。
兜を手にしたまま動きを止めていた領兵が、ライコを見る。
男は息を吐き、兜を被った。膝へ手をついて身体を起こす。隣で座っていた男も槍を掴み、声を漏らしながら立ち上がった。
ライコは、大曲剣を肩へ担いだ。
その背を追って、兵たちが列へ加わっていった。
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