第51話 名のない恩人
侯爵家の屋敷へ戻った少女を、父のレオンハート・ホークガルドが玄関で迎えた。
少女は父の顔を見ると、足を止めた。馬車の中では、顔を合わせたら何を話そうかと考えていた。それなのに、言葉が出てこない。
「お父様……」
レオンハートは歩み寄り、娘の両肩に手を置いた。顔を確かめ、袖口からのぞく手首の赤い跡へ目を落とす。
「ほかに、痛むところはないか」
少女は首を横に振った。
「無事でよかった」
父の声を聞いて、少女の目に涙が浮かんだ。うつむくと、肩に置かれていた手が背へ回る。少女は父の服をつかみ、その胸に顔を埋めた。
レオンハートは娘を抱いたまま、後ろに控える侍女へ目を向けた。
「部屋で休ませてやってくれ」
それから娘の背を軽く撫でた。
「詳しい話は、落ち着いてからでいい」
少女は小さく頷き、侍女に付き添われて階段を上がっていった。
娘の姿が見えなくなるまで見送ってから、レオンハートは振り返った。玄関には、護衛を務めていた二人の騎士が立っていた。
「報告を聞こう」
場所を書斎へ移すと、腕に傷を負った騎士が頭を下げた。
「お嬢様をお守りできず、申し訳ございません」
「謝罪は後だ。何があったか、順に話せ」
騎士は顔を上げた。
馬車のそばで手練れの賊に阻まれ、娘を連れ去られたこと。そこへ、武器も持たない少年が現れたこと。
「少年は、我々と戦っていた賊を素手で倒しました。お嬢様が森へ連れ去られたと知ると、そのまま追っていったのです」
「お前たちは追わなかったのか」
「私が後を追いました。もう一人には、負傷した御者の守りを頼みました」
レオンハートは、騎士の腕に巻かれた包帯へ目を向けた。
「それで、娘は」
「森の道で、少年と一緒に戻ってくるところへ行き会いました。賊は倒木のそばに三人倒れており、もう一人は馬で逃げたと、少年から聞いております」
レオンハートは机に置いた手を動かさず、報告の続きを待った。
「お嬢様をお預かりすると、少年は森へ戻っていきました」
「名は」
「……聞いておりません」
騎士が再び頭を下げた。
「何歳ほどだった」
「十五、六ほどかと。鎧は着けず、剣も帯びておりませんでした。服装からは、近くに住む者のように見えましたが……」
その年頃の少年が、騎士二人を足止めする賊を素手で倒したという。レオンハートは、もう一人の騎士へ目を向けた。
「お前も見たのだな」
「はい。私も、この目で見ました」
返答に迷いはなかった。
しばらくして、部屋で休んでいた娘が書斎へ来た。侍女を伴って入ってきた娘を、レオンハートは椅子に座らせた。騎士たちは脇へ下がる。
「もう、起きていて大丈夫なのか」
「はい。あの人のことを、お話ししておきたくて」
少女は膝の上で両手を重ねた。
倒木のそばへ少年が現れたときのことを、覚えている順に話した。男たちが倒され、最後に残った男に短剣を突きつけられたこと。自分がその腕を押しのけたところへ、少年が飛び込んできたこと。
レオンハートは口を挟まずに聞いた。
「私を助けたとき、手を怪我したのです」
少女は自分の手の甲へ目を落とした。
「お礼を言ったら、傷ついた手を後ろへ隠して……『無事でよかった』と、笑っていました」
父が何も言わずにいると、少女は顔を上げた。
「あの人を、探していただけませんか。名前も聞けなかったのです」
「ああ。私からも礼をしなければならん」
レオンハートは騎士たちへ向き直った。
「まずは近隣で尋ねろ。服装も顔立ちも、覚えていることを伝えよ。ただし、娘のことを触れ回るな。私たちの馬車を賊から救った少年を探していると、それだけを話せ」
二人の騎士は深く頭を下げた。
その後、侯爵家の者が周辺の村や町を訪ねたが、少年は見つからなかった。年頃の合う者の名が挙がっても、顔を見た騎士が違うと首を振った。
捜索を命じてから数日後、レオンハートのもとへ一通の書状が届いた。
娘には、外国との縁談が進んでいた。レオンハートが属する第一王子派にとっても、他国との結びつきを強める大切な縁談だった。
書状の差出人は、その話を仲立ちしている人物だった。
レオンハートは封を切り、読み始めた。途中で指が止まる。
娘が賊に連れ去られたという話は事実か。
まずは無事を確かめたいという丁寧な言葉の後に、縁談を進めるに当たり、相手方へ事情を説明する必要があると記されていた。
娘は助かった。だが、馬車が襲われたという話だけでは済まなかった。
レオンハートは、娘が賊に連れ去られたと書かれた一行を、もう一度読んだ。
「……誰から聞いた」
返事をする者のいない書斎で、紙の端をつまむ指に力がこもった。
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