第50話 名も知らぬ少年
ライコと少女が倒木から離れたとき、前方の道から足音が聞こえた。
ライコは少女を背にかばって足を止める。道を駆けてきたのは、馬車のそばにいた騎士だった。腕の鎧の隙間から血がにじみ、息も荒い。片手には抜き身の剣を持っている。
「お嬢様!」
騎士は少女の顔を見て、剣を下ろした。
「お怪我はありませんか」
「ええ。大丈夫です」
少女は答えたが、つかまれていた手首には赤い跡が残っていた。騎士の目がそこへ向く。少女は気づいて袖口を引き下ろした。
「御者は?」
「生きています。もう一人が、御者と賊を見ています」
少女が息をついた。騎士は彼女の顔を見て、何か言いかけて口を閉じる。代わりにライコへ目を向けた。
「賊はどこだ」
「倒木のそばに三人倒れてる。もう一人は馬で逃げた」
ライコが後ろの倒木を指す。騎士の表情が険しくなった。
「お前が、一人で倒したのか」
「うん。その子を連れて戻るところだった」
騎士はライコの手ににじむ血を見た。それから、自分の剣を握り直す。
「ここからは私が連れて戻る」
「じゃあ、お願い」
騎士が少女のそばに立つ。ライコは道を離れ、木々の間へ入ろうとした。
「待って」
少女だった。ライコが振り返る。
「助けてくれて、ありがとう」
少女はライコの手の傷を見た。ライコは気づいて手を後ろへ回し、笑う。
「うん。無事でよかった」
ライコは傷のない方の手を振り、木々の間を走っていった。少女はその背中を見送る。枝の揺れが収まると、騎士が少女を道の先へ促した。
馬車のそばまで戻ると、もう一人の騎士が駆け寄ってきた。少女の姿を確かめ、深く頭を下げる。
「お嬢様。申し訳ありません」
「御者はどうなったの?」
「傷の手当てをしました。意識もあります」
少女は馬車の陰に座る御者を見た。御者が顔を上げ、目が合う。少女は一歩踏み出した。そこで初めて、膝が小刻みに震えているのに気づく。馬車の扉に手をつき、しばらく息を整えた。
「賊は倒木のそばに三人倒れている。もう一人は馬で逃げた」
負傷した騎士が告げる。もう一人の騎士は森へ目を向けた。
「逃げた賊を追うか?」
「いや。まずはお嬢様と御者を守る」
もう一人の騎士は頷き、馬車と森の間に立った。負傷した騎士も剣を構え直し、森の方を警戒する。
少女は二人の騎士へ目を向けた。
「あの人の名前は?」
負傷した騎士が首を横に振る。
「……聞いておりません」
少女は馬車の扉に手を置いたまま、森を振り返った。少年は傷ついた手を後ろへ隠し、何でもないことのように笑っていた。
あのとき、ありがとうの後に名前も聞けばよかった。揺れる枝の間を探しても、もう姿は見えない。
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