第45話 王の一言
その日の午後、ヴィオレナは王の間を訪れた。
公爵の示した条件を、ヴィオレナは道すがら頭の中で確かめていた。譲るものは多い。だが、ドエゴンを軍に残せるなら、その代価を払うしかない。
扉の前で待つ侍従に名を告げると、すぐに中へ通された。ヴィオレナは裾を整え、王の前へ進む。
ネグロス・ルミナスは奥の椅子に腰掛けていた。中央で分けた黒髪に、整えられた髭。背もたれに身を預けていても、その姿には王らしい威厳がある。
「ヴィオレナか。どうした」
ヴィオレナは一礼した。
「プライデル伯爵の件で、お願いがございます」
王は頷いた。ヴィオレナは言葉を選ぶ。
「伯爵は、トロスの力を少しでも削ろうとして、命じられた範囲を越えて兵を進めました。行き過ぎた判断ではあります。ですが、国境を守りたい一心からのことです」
国境を越えた兵が、トロスの村で何をしたか。それをここで詳しく話すつもりはなかった。王が尋ねなければ、彼女から持ち出す必要もない。
「その後の戦いでは、伯爵の左軍が白狼騎士団を全滅させました。ルミナス軍は勝利し、シーネルへ向かう敵の兵も引きつけることができました。国境を守るという、当初の目的も果たしています」
ネグロスは髭に指を添えた。村で起きたことも、左軍がどれほど兵を失ったかも、聞こうとはしない。
「それにもかかわらず、レオニード殿は伯爵に厳しい罰を下そうとしています。軍の規律を重んじる方ですから」
ヴィオレナはそこで一度、息を整えた。ここからが本題だ。公爵と交わした条件を、王に認めてもらわなければならない。
「公爵殿ともお話ししまして、穏便に収めるために――」
「今回の戦は、結局勝ったのだろう」
ネグロスが言葉を遮った。
「レオニードは少し頑固なところがあるからな」
口を歪めて笑う。
「余から言っておく。少し謹慎させておけ、とな」
ヴィオレナは顔を上げた。
それだけで済むのか。
少将から降格させる話も、公爵派の将を昇進させる話も、王は聞いていない。国王の言葉どおりなら、ドエゴンは軍に残り、位も失わない。
「陛下――」
ヴィオレナは続く言葉を止めた。公爵との約束が頭をよぎる。だが、王はすでに話が終わったと思っている。ここで条件を話せば、王がそれを処分に加えるかもしれない。
彼女は静かに頭を下げる。
「陛下のご慈悲と寛大なお心に、感謝申し上げます」
「うむ。レオニードには余が伝える」
王の返事に、ヴィオレナはもう一度礼をした。
王の間を出て扉が閉まると、ヴィオレナの唇にかすかな笑みが浮かんだ。
◇
その日の夕刻、王の使者がレオニードを訪ねてきた。
「陛下から、プライデル伯爵の処分についてお言葉を預かっております」
使者が差し出した封書には、王の印が押されていた。レオニードは封を開き、短い文面に目を通した。
プライデル伯爵の処分は、当面の謹慎のみとする。
処分について記されているのは、それだけだった。
「……これだけか」
「はい。ほかにお言葉は預かっておりません」
レオニードは書面を机に置いた。軍籍を外す命令も、少将位を下げる命令もない。
「承った。陛下には、王命に従うとお伝えしてくれ」
使者が退出すると、傍らに控えていた副官が口を開いた。
「閣下。越境を禁じた命令を破った事実は変わりません。それでも謹慎だけで――」
「王命だ」
レオニードの声は低かった。
「ワシらが命令を破って、どうする」
副官は口を閉じた。レオニードは書面にもう一度目を向ける。戦に勝ったとしても、軍令違反の事実は消えない。苦い顔のまま、軍への通達を命じた。
◇
数日後、レグベル公爵の執務室にも王命による処分が伝えられた。
公爵が報告を聞き終えると、使者は退出した。部屋には、公爵とルクシオンだけが残る。
「謹慎だけ、か」
公爵は机上の書面を見た。
「少将位も軍籍も、そのままなのだな」
「はい。殿下がこちらの人事を認める理由も、なくなりました」
ルクシオンが答える。
公爵は眉間を押さえた。
「ヴィオレナ殿下は、陛下にあの条件をお伝えになったのか」
「分かりません」
ルクシオンは、書面の末尾にある王の印を見た。兵を死なせ、軍の命令を破った将が、位を保つ。この国では、積み上げた取り決めも、最後に王が一言告げれば消えてしまう。
いつもの微笑みは浮かばなかった。
(このままでは、この国は駄目になる)
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