第39話 待つ者と攻める者
戦いから数日後、公爵から越境の許可が届いた。トロス兵を砦に留め、シーネルへ兵を回させないための許可だ。
トロス軍が逃げ込んだ砦は、国境を越えた先の丘にあった。
門は閉ざされ、城壁の上には兵が並ぶ。ペドルは丘の下で馬を止め、砦を見上げた。
「攻めますか?」
傍らの士官が尋ねる。
「いや。見張りを立てて、敵の動きを見ておけ」
「このまま放っておくのですか」
「放っておくわけではない。あそこにトロス兵を留めるんだ」
シーネルとの間に横たわる山脈には、まだ荷車が通れる道がない。シーネルへ大軍を送るのは難しい。そこでトロスの兵を南へ引きつけ、シーネルへ向かう兵を減らす。そのためにペドルたちはここへ来た。
勝ったからといって砦を攻めれば、兵を失う。四日間の戦いで傷ついた右軍にも左軍にも、そんな余裕はなかった。
「怪我人を先に運べ。見張りは交代で立たせろ。休ませる兵まで砦の前に並べる必要はない」
ペドルは命じた。
◇
ドエゴンは、砦へ逃げ込んだ敵の旗を見て鼻を鳴らした。
「あと一歩で逃がしたか。砦を落とせば、この戦いの手柄は我が軍のものだ」
部下が、左軍の死傷者を記した紙を差し出す。
「兵が疲弊しております。攻城の準備も――」
「梯子を用意しろ。敵も将軍を失っている。怖がる必要がどこにある」
翌朝、左軍の兵が梯子を担ぎ、砦のある丘の斜面を上がった。
城壁から矢が降る。盾を頭上へ掲げても、足を止めれば狙われた。ようやく梯子を掛けた兵も、壁の上から突き出された長柄の武器に押し返される。
「進め!梯子を離すな!」
ドエゴンの声は、丘の下から飛んだ。
負傷者を引きずって降りてくる兵に、次の兵が道を譲る。砦の上へ辿り着いた者は一人もいなかった。
攻撃から戻った兵は、地面に座り込んだまま梯子を見た。折れた横木に、仲間の血がついている。
「また、あれを担ぐのか」
「将軍は砦を落としたいんだとよ」
答えた兵も、立ち上がろうとはしなかった。
ドエゴンは翌日も攻めさせた。
その次の日も、梯子を出した。
盾を失い、運び手を失う。命令が出るたび、左軍の兵の返事は重くなった。壁の上へ向かうたび、仲間を担いで戻ることになった。
ペドル軍の見張りは、それを離れた持ち場から見ていた。右軍は砦の出入りと周囲を警戒しているだけで、攻撃には加わらない。
ドエゴンから援軍を求める伝令が来ても、ペドルは首を横に振った。
「我々が砦を攻めれば、見張りが薄くなる。あの中の兵を動かさないことが、今の役目だ」
伝令は不満そうな顔で戻っていく。ペドルはその背を見送らず、見張りの交代を確かめた。
数日もすると、左軍の兵も砦へ近づかなくなった。
攻撃の命令が出れば、梯子を担いで列を作る。丘の下で声を上げ、壁の上の兵が構えると、しばらくして引き返す。敵に損害を与えることも、味方を大きく失うこともなく、一日が終わった。
「なぜ攻めん!」
ドエゴンが怒鳴っても、次の朝には同じ光景が繰り返される。左軍の兵は命令に逆らったと咎められぬよう、攻撃する姿だけは見せ続けた。
◇
ライコは、松葉杖を一本持って天幕の外へ出た。
脚の傷は塞がり始めていたが、長く立てば痛む。訓練中の兵を見つけると、足を引きずりながらそちらへ向かった。
「ちょっとだけ、剣を振ってくる」
「ちょっとだけで済むか、お前が」
ドルグが進路を塞いだ。
ライコは横から抜けようとする。ドルグも横へ動く。
「もう歩けるよ」
「歩けるのと、踏み込めるのは違う」
ライコが不満そうに口を尖らせると、ドルグは足元の松葉杖を指した。
「そいつが要らなくなったら、考えてやる」
「じゃあ、座って見る」
ライコは近くの箱に腰を下ろした。兵たちが木剣を打ち合わせる。
その音を聞くと、ガスパールの槍を思い出す。突くだけと思ってガスパールの馬の左側へ踏み込もうとしたとき、太い槍が馬の首を越えて振り回された。
「あれ、どうやって動かしてたんだろう」
「またあの騎士のことか」
「うん。すごかった」
ライコは膝の上で手を動かし、槍の軌道をなぞる。ドルグはその手を見て、ため息をついた。
「考えるだけにしとけよ」
◇
日が過ぎ、ライコは杖をつかずに歩けるようになった。
砦の門は開かない。見張りにつく右軍の兵は交代で休み、次の日も同じ場所に立つ。
左軍の方からは、ときおり攻撃の声だけが聞こえた。丘を上がる兵の姿は、もう見えない。
ひと月近く経った頃、シーネルからの報せを持つ伝令がペドルのもとへ来た。
「シーネル軍が、東部のトロス軍を退けました!」
ペドルはすぐには答えなかった。
山脈の向こうで、シーネルの兵が東部を守り抜いた。この砦にトロス兵を留めたことも、無駄にはならなかった。
「……そうか。これで、我々も帰れる」
ペドルは砦の方を見た。報せが伝わると、見張りに立つ兵の肩からも、ようやく力が抜けた。
ルミナス軍は陣を畳み、国境を離れた。
◇
帰還後、戦勝会が開かれた。
軍の将たちが集まる会場で、ペドルは戦いの経過を報告した。敵将軍を討った第十二中隊の働きも、左軍と右軍が受けた損害も、隠さず伝える。
ドエゴンは、その報告が終わるのを待って立ち上がった。
居並ぶ将たちを見渡し、胸を張る。
「クレイル伯爵から、敵将討伐の話はありましたな。では私からは、白狼騎士団との戦いをご報告しましょう」
ペドルが顔を向けた。
ドエゴンは、その視線に気づいていない。
「ガスパールを失ってもなお、奴らは我が左軍へ突撃してきました。だが、我が兵は恐れず迎え撃った」
負傷者を運び続けた左軍の兵たちは、この場にはいない。戦場で失った兵たちの名前が、ドエゴンの話に出ることもなかった。
ペドルの報告で損害を聞いたはずの将たちも、今はドエゴンの次の言葉を待っている。
ドエゴンは声を張り上げた。
「白狼騎士団を全滅させたのは、我が左軍です!」
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